羊たちは群れをなして

戸松秋茄子

Sheep

 ああ、お嬢様。なんとおいたわしいことでしょう。


 少し前までは元気にスイミングスクールに通われていたお嬢様、庭で三匹の愛犬と走り回られていたお嬢様がいまや虫の息にございます。


 あんなにも憔悴されて、点滴につながれてベッドで仰向きになられているお嬢様。


 先生、どうかお嬢様をお救いください。



 どこからお話ししたものでしょう。


 先生はこの街についてどれ程ご存じでしょうか。


 ここまでの道のりで街の雰囲気はおおよそおわかりいただいているでしょう。


 高台に広がる、閑静な高級住宅街。


 あいにくと、それ以上の特徴があるのかどうか、私には判じかねます。 


 私は十三年前からご一家に仕えさせていただいています。


 他のお屋敷に仕えた経験はございませんし、たとえば白金や芦屋といったいわゆる高級住宅街と呼ばれる街に関しても、一般に知られている以上の知識はございません。


 ですから、この街にどこか風変わりな点があったとしても、他の街と比べて批評を加えることはできないということです。その点をあらかじめご了承ください。


 その上であえてこの街の特徴をあげるなら、住民の方々の結束の強さではないかと恐れながら推察します。


 ホームスクーリングをご存じでしょうか。この国ではまだ不登校に陥った生徒の救済制度という側面が強いですが、特にアメリカでは積極的に導入されるご家庭も多い、先進的な教育方法でございます。


 この街ではそのホームスクーリングが盛んで、特に小学生のご子息をお持ちのご家庭で連携しながら、地域のお子様たちの教育をみておられるのです。


 授業は、学年ごとにいずれかのご邸宅で行われることもあれば、学年合同で、あるいはタブレットなどを用いてオンラインで行われることもございます。


 これは特にこの十年ほどで根付いた文化であるとお聞きしています。


 ホームスクーリングと申しましても、住民の皆様はみな聡明であられ、授業は充実しているようでございます。少なくとも、カリキュラム設計の自由度と、少人数ならではのサポート体制は一般的な学校教育に勝るでしょう。


 また、授業や習い事で同世代のお子様がたと触れ合いになられる機会は十分にあり、お嬢様もそこで多くのご友人をお持ちです。互いの家を行き来なさることもございます。


 そうした環境で、お嬢様は伸び伸びとお育ちになられました。旦那様と奥様もご壮健であられ、使用人やご友人との関係も良好そのもの。お屋敷に植わった木々や花々、飼い犬や小鳥を愛される、心優しいお人柄の方にございます。


 ええ、お嬢様は小学校の学年で言えば六年生にあたり、この秋に十二歳になられます。


 恐れながら私自身の子供時代と比べましても、何か不自由や不全があろうとは到底思えない、幸福な環境であったと存じます。


 しかし、ああ、この街にはひとつだけ看過しがたい暗部があったのです。



 発端は四月末、日曜日の昼下がりのことにございます。


 その日、旦那様はご近所にお住まいの高垣様をお招きになられました。高垣様はご夫婦にご息女の三人でお見えになられ、旦那様と奥様はご夫婦とご歓談に、お嬢様はそのご息女と部屋でお遊びになられていたとのことです。


 しばらく経って、お嬢様がたは庭でお遊びになられることになられ、その際、応接間の前を通りかかったそうでございます。


 その日、応接間の戸は閉じられておりましたが、その前を通りかかると、かすかに話し声がしたとのことでございました。お嬢様は旦那様や高垣様をご夫婦の会話を聞くともなしに耳にしてしまったのです。


 ――しかし、楽しみだね。


 ――ええ、本当に。滅多に食べられるものじゃありませんもの。


 ――ははは、ご期待ください。失望されることはないと思いますよ。私も一度食べたことがありますが、あれはまさに至上の味でした。これをどうして公の場で堂々と食べられないのかと恨めしく思うほどに。


 ――たしかに。子供たちには、知られるわけにはいきませんからね。


 ――ええ。子供に伝われば、いつか必ずよその大人の耳にも入る。気をつけるべきは匂いです。最高級品とは言えど、どうしても特有の匂いはしますからね。



 お嬢様が私に相談になられたのは、その翌日のことでございました。


 ――ねえ、パパたちはいったい何を食べるつもりなの。


 お嬢様はすがるような目で仰いました。


 私はわざと万年筆を落とし、お嬢様から目線をそらしました。間違っても、と思ったからでございます。


 この晩餐会は何も今回に限ったことではございませんでした。


 これまでも、このお屋敷で頻繁に行われていたのです。


 私を含め長年勤める使用人だけが旦那様がたの信用を受け、真実を教えられていたのでした。


 ――わたし、なんだかとても嫌な予感がするの。ねえ、パパたちは何かいけないものを食べようとしているんじゃないわよね。


 お嬢様は仰います。


 私は自分にも判じかねますと首を振ることしかできませんでした。


 ――聞き間違いかもしれないけど、パパはって言ってたわ。最上級の羊が食べられるって。それって何かの暗号? だとしたらどうしてわたしたちに隠すの?


 世間に知られるわけにはいかないのです。と、わたしは内心でお答えしました。知られれば、お嬢様もいまのような生活はできなくなるでしょう、と


 


 その言葉が何を意味するのか、お嬢様はまだ理解されていませんでした。当然と言えば当然のことにございます。お嬢様はそのようなものを口にされたことがないのですから。食べる、という発想すら浮かばないでしょう。


 そうであればこそ、あの夜、お嬢様は世界がひっくり返ったような衝撃を受けられたのでした。



 秘密の晩餐会は、週末の夜十時に開催されました。


 場所は、屋敷の地下に設けられた専用の会場にございます。この部屋は、ちょっとした広間になっており、換気ダクト付きのキッチンが備わっておりました。に限らず、特定の珍味をメインディッシュとした晩餐会がここで幾度となく行われてきたのでございます。私は給仕の手伝いとして駆り出されるのが常でした。


 その夜は、高垣様の他にも、近所の住民の方々が何組かお見えになられました。この秘密の晩餐会専用のスーツやドレスをお召しになられて。心理的にも、他の場所には着ていくことができない、言わば血塗られたお召し物でございます。


 ――おいしい!


 ――この旨味! そして、弾力がたまらないですね。いったいどうやって育てればこうなるんだろう。一度、このが飼育されているという島を訪れてみたいものです。


 その日のメインディッシュはのステーキにございました。その他にも、カツレツ、シチューといった形での肉が提供されたのです。


 はこの日のために呼ばれたシェフによって入念に臭みが取り除かれ、また、スパイスとの組み合わせで、野性的ながらも食欲をそそる極上の香りとなっておりました。


 ――まったく、我らは罪深い。


 旦那様が自嘲混じりに仰います。


 ――ええ、だからこそ美味い。禁忌は最高のスパイスです。


 ――違いありませんね。


 どっと漏れる笑い声。


 ――この街のコミュニティには互助の精神が根付いていますが、それは裏を返せば絶えず見られているということです。この街で孤立や無関心は許されない。相互監視ですな。我々は常に生きたカメラに見張られている。


 ――その通り。だからこうして必要以上にこそこそとしないといけない。


 ――子供たちに気づかれないよう夜遅くに。


 ――ええ、まったく。我々ももう学生ではないというのに。


 ――たしかにこの時間にという気分にはなかなかなれない。こういう、特別な肉なら別ですが。


 ふたたび、会場がどっと沸き上がりました。


 ――罪深き我らに。


 旦那様がグラスを掲げられます。続いて、会場のグラスというグラスが高く掲げられ――


 ――乾杯!


 声が重なったそのとき、会場の戸が開け放たれました。


 ――げほ、げほ。


 小さい影は戸を開けるなり咳き込みました。慣れない匂いにあてられたのでしょう。


 ――この匂いは何? パパ、ママ。いるんでしょう? いったい、こんなところで何を食べているの。


 天使の隊列が通りすぎたような沈黙。


 やがて、旦那様は諦めたように仰いました。


 ――だよ。


 ――肉?


 ――そうだ、の肉だ。


 お嬢様は青ざめられました。


 ――ってそんなまさか――


 ――ああ、そうだ。特別なだ。



 おいたわしや、お嬢様。


 その後、お嬢様はその場で意識を失われたのです。


 後はもうご存じでしょう。救急車で運ばれた病院でお嬢様はすぐ目を覚まされましたが、顔色が優れず、食べ物を何も受け付けなかったのです。


 検査のため入院することとなり、血液検査の結果、主にビタミンB12と鉄分の不足が指摘されたとのことでした。


 ――近いうちに明かすつもりだったんだ。


 旦那様は仰いました。


 ――いつまでも隠しきれるものでもないし、あの子ももう十二だ。


 ――でも、私たちは恐れていた。


 奥様が仰いました。


 ――ああ、そうだ。世の中から、いや、この街の住人からどう見られるかが心配でならなかった。


 ――考えてみれば、変な話よね。別に私たちは法を犯してるわけでもないのに。


 ――ああ、だが街の空気がそれを許さない。だからああやってこそこそするしかなかった。


 ――汝、進歩的たれ。一種のノブレス・オブリージュね。もちろん理念には頷ける部分もあるけど――


 ――ああ、柔軟さを失えばただの鰯の頭だ。くそ! すまない、汚い言葉を使った。しかし、もうこうなっては知ったことか。我々は何よりもまずあの子の親として、健やかな成長を願わねば。


 ――そうね。でも、もちろんどうするかはあの子次第。でしょう?


 ――ああ、あの様子ではそう簡単には受け入れられないだろう。我々が哀れなに――焼尻島産の希少なサフォークラムに舌鼓を打っていたなんてことはな。


 旦那様は大きなため息をつかれました。 


 ――まったく、誰が最初にこの街で完全菜食主義者ヴィーガンになんてなったんだろうな。

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