おっぱい探偵の乳首事件簿

真野てん

第1話



 あの――。

 こちらで乳首を探していただけると聞いてうかがいましたの――。


 いまにも消え去りそうなか細い声でたずねてきたのは、うら若き未亡人であった。

 私は探偵という立場も忘れて彼女の美しさに心を奪われそうになる。


「あの……探偵さん……どうぞお答えくださいまし……」


 彼女の再三にわたる問いかけによって、恋慕の彼岸へと意識を漂わせていた私の魂はやっとのことで現世へと戻ってきた。

 私は「あ~、うん」などと意味のない言葉を発して喉の調子を整えると、あえてもったいつけるように「いかにも」と言った。


「およそおっぱいに関する事件であれば古今東西、私をおいて他にありますまい。たちどころに解決してご覧に入れましょう。ささ、どうぞおくつろぎなさい」


 私は彼女にソファーへの着席を勧めると、愛用のパイプに火をいれた。

 火皿の小ぶりなアップルベントは、飴色の光沢を放って私の思考を冴え渡らせる。

 

「変でございましょう? いい歳をして乳首がなくなっただなんて……」


 依頼人は気恥ずかしそうに頬を染めた。

 その淡い桜色のはかなさによって、また私の心は打ちのめされるのである。


「いやいやとんでもない。乳首をなくされる方など、この世にはごまんといます。してなくなった経緯などうかがいましょうか」


「はい――」


 彼女が言うには、二か月前に商船の乗務員をしていた夫に先立たれて、しばらくしてからなくなったという。それまではしっかりと両胸の先端にあった乳首だが、いまはどこを探しても右の乳首が見つからない。

 すぐに見つかると高をくくり、しばらく放置していた。

 ひと月経ってもまだ見つからず神仏にすがったりもした。

 とうとう不安に駆られた彼女は居ても立っても居られなくなり、友人のツテを頼りに私のところまでたどり着いたそうだ。


 気の毒ではないか。

 この若さで、最愛の夫と乳首まで失うとは。

 どうにかしてやらねば。


「乳輪はいかがですか」


「は?」


「乳輪です。ほら、乳首のまわりにあるぶつぶつのついた」


「知ってます。知ってますけど、初対面のひとにそんなこと――」


「あ、いや失礼。捜査をするうえでは重要なことなのです。乳輪はございますか?」


 彼女はしばらくの沈黙をもって上目遣いに私を見つめると、震えるカナリアのような声を発して「ございます」と。


「ふむ。ではご主人がみまかられたあと、ご自分で御身をなぐさめられることなどは」


「探偵さん!」


「はい?」


「……すこしデリカシーに欠けるのでは」


 私はパイプの火を休ませるために机上に置くと、乱れた前髪を入念に撫でつけた。

 いまいち彼女は探偵という職業を信用していない様子だった。


 無理もない。

 まったくの他人が、プライベートをあれこれと詮索してくるのだから。

 だが私は自信をもって彼女に言う「これが仕事ですから」と。


「乳首は取れるのです」


「えっ」


「ときに激しい自慰行為によって乳首は根本から切断されてしまう。それは身体機能のひとつであって、不思議ではないのです」


「で、では取れてしまっては治りませんの?」


「否!」


 断じて否である。

 私は窓辺にまで所在を移し、大いに彼女の問いを否定した。


「私は先だって乳輪の話をしましたね。そこに答えはあるのです」


「まあ……どういうことですの」


「乳輪のぶつぶつ――モンゴメリー線と呼ばれるものですが、乳首が取れてからのち、それらのひとつが新しい乳首になるのです!」


「そ、そんな――嘘でございましょう」


 私は驚愕する彼女の顔を見るや満足してこう続けた。


「ええ。嘘です。モンゴメリー線は皮脂腺であって、乳首のもとではない」


 すると彼女は怒ったように、カタチのいい笹の葉眉をキリリと吊り上げた。

 しかしどこかホッとしたような、それでいて悩ましげに。


「どうしてそんな嘘をつかれるのです。やっぱり私を笑っているのね」


「そうではありません。今回の事件、実は簡単なものなのです。しかし事実をお話するまえに、あなたの心をほぐさねばなりませんでした」


「事件が……簡単……。それでは私の乳首がどこにあるのかご存じなのですか?」


「ええ――。あなたの乳首は。いえ、あなたは」


 このときの彼女の表情を私は一生忘れないだろう。

 不安、切望、期待、恐怖、そして答えを求める必死さがないまぜとなった、かくも美しい姿だった。


 あなたは――。


 私はもう一度だけ、そう繰り返し、彼女に真実を告げた。


「陥没乳首なのです――」




 小雨降り注ぐ早朝の日の光が、カーテンの隙間から私の寝室を照らした。

 ベッドにはまだ二人分のぬくもりが残っている。


 そして私の左手には、まだ彼女の感触が未練がましく張り付いていた。


「厄介な事件だった……」


 私は愛用のパイプを取り出して、火を傾ける。

 くゆらせた紫煙がカーテンの日の光のなかを踊っていた。


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