渡火〈ワタリビ〉

綿野 明

渡火〈ワタリビ〉



  熾火おきびのような赤黒い夕焼け

  一寸先も見えぬ濃霧

  このふたつが合わさる時は

  決して外へ出てはならぬ

  燃え上がる霧に触れてはならぬ

  霧を伝って〈渡火ワタリビ〉が現れる

  ワタリビは人を焼く

  骨も残らず焼き尽くす

  決して、燃える霧に触れてはならぬ



 長老が炉端に集まった子供達を見回し、しわがれた声でゆっくりと、歌うように節をつけて語る。村の子供達はとっくに聞き飽いたその伝承を「またその話かよ」「わかってるって、じいちゃん」と相手にせず、薪の奥に放り込んでおいた芋を火挟ひばさみでつつき回した。


「焼けたかな」

「食ってみようぜ」


 小声の会話。長老の耳が遠いと思って、長く伸ばしたばさばさの白髪で目が隠れているから、見えていないと思って、油断しているのだ。けれど無色むしきは、長老がその前髪の間から深い緑色の目で、そんな彼らをじっと見つめているのに気づいていた。


「きちんと、皆で分けるのじゃぞ」


 ため息混じりの声に皆がびくっとなったが、言われたことを反芻はんすうすると顔を見合わせて笑顔になる。


「さっすが長老様! ちゃんと一個ずつあるよ」


 一人が言って、灰の中からそれを掘り出すと「あちっ」と言いながら木の皮に包んで長老に渡した。長老が和やかに笑う。一人一個ずつ、ほくほくに焼けた芋が行き渡った。無色以外の、皆に一個ずつ。


「あの……」


 期待はしていなかったものの、一応声を出してみた。けれど囁くような無色の声に振り返る者はいない。


「おれも……芋」

「何だ、風の声か?」


 少年の一人がにやついた声で言った。隣の少女が「やめなさいよ、反応しちゃだめ」と忠告する。


「燃える霧には近づいてはならぬ、無色のものを見てはならぬ」


 長老が静かに言った。皆が「はあい」と声を揃えて言い、無色は静かに立ち上がると長老の家を去った。栗色から麦穂色に近い髪、濃い緑の瞳を持った皆の中で、無色だけが生まれつき純白の髪で、ほとんど白に近い灰色の瞳を持っていた。肌の色さえも雪のように白かった。


 外は夕暮れ時で、深い霧が立ち込めていたが、誰一人として無色が出てゆくのを止めるものはいなかった。空を見上げる。赤黒い、熾火色に染まった夕霧。そこへ森の木々が黒々と影を落とし、村は黒と紅のまだらに染まっていた。


「ワタリビ、いないの」


 無色はそっと囁いた。彼の周囲はいつもひっそりとしていて、明るいものや賑やかなものはみな彼を避けたものだから、いつしかこんなそよ風に紛れるような囁き声でしか話さなくなっていた。


「ワタリビ、ワタリビ……おれはここにいる」


 掠れ囁きながら、村から森の方へふらふら向かう。


「おれを焼いて。おれを消して。おれには家族もない。名前もない。みなおれを『無色』と呼ぶ。透明で見えぬものという意味だ。誰にも見えず、誰にも愛されぬなら、いないのと同じだ」



  ワタリビ ワタリビ──



 呼び声が、燃え上がるような赤に照らされた霧を伝う。伝う声は次第に濡れた木々へ反響し、二重にも三重にも聞こえ始める。その繊細な重なりを、何かが聴く。


「ワタリビ……ワタリビ?」


 不意に、おかしなものを見つけた無色は足を止めた。霧にかすんだ木立の向こう、赤黒く滲んだ空中に、明るい金の炎のようなものがある。深い深い霧のただなかに、小さな夕暮れ時の太陽が浮かんでいるかのようだ。


「お前が、ワタリビなの?」


 無色はそっと、それに近づいた。周囲は暗い森に囲まれ、もうどちらが村かもわからなかった。無色の小さな体で、胸に抱えられるくらいの大きさをしたそれは、霧を透かした夕日のように淡く光りながらうねりうねりと、非常に遅い速度で空中を歩んでいた。


「……粘菌?」


 無色は首を傾げた。光ってはいたが、森の中で朽ちた葉や木の皮の上を渡り歩く、黄色や紅色をした不思議な生き物にそれはよく似ていた。つまりぶよぶよねばねばした水溜まりのような姿をしていたのだ。


「おれを焼く?」


 囁きかける。けれどそいつは無色のことなど無視して、のろのろと空中を進むばかりだった。彼が手を伸ばしても、逃げたり襲ったりしなかった。


「お前にもおれが見えないのかな、ワタリビ」


 そうっと触れたが、肌が燃えるようなことはなかった。けれど焼き立ての芋のようにあたたかかった。袖で包んで抱き上げ、胸に抱えると、夕暮れ時の気温で冷えた無色の体もほかほかと温まった。ワタリビはもぞもぞして丸くなり、いい具合に腕の中におさまった。


「かわいい……名前をつけよう。『ねばねば』がいい」


 無色はひとりぼっちで育ったせいか、名付けの趣味が壊滅的だった。しかし大事に抱かれたねばねばはそれを不服に思う様子もなく、ただ腕の中で大人しくしていた。





 こうして無色はそいつを自宅にしている村の端のボロ小屋に連れ帰り、餌をやって育てた。ねばねばは居間の片隅に盛り上げた枯葉の寝床に住み、麦を煮て作った粥をよく食べた。鍋で湯を沸かすと、蒸気を伝って空中をのっそりと進んだ。春になると枯葉の上に小さな細いキノコのようなものをつくり、それをしばらく放っておくと子供が増えた。いつしか無色の家の中は、増えた子供達でいっぱいになった。彼はその一匹一匹に名前をつけて可愛がった。燃える霧の日は外を散歩させてやったし、何匹かは自然に返してやった。けれどねばねばだけは、ずっと一緒だった。


 無色は幸せだった。けれどある時、その幸せが崩されんとする日がやってきた。霧の立ち込める淡い紫色の夕暮れ時、無色の家の戸を叩く者があったのだ。


「はい」


 みな自分のことが「見えない」のに、一体どうしたことだろう。無色は少しだけ胸を期待に膨らませながら戸を開けた。そこには村の男達が総出で、なたくわを持って立っていた。


「え、なんですか」

「子供達の話は本当だったか……」


 大人の一人が恐れるように言った。最前列にいた別の一人が「ワタリビだ! ワタリビだあっ!」と大声を上げて逃げ出した。先頭の、長老の息子が顔をしかめて言った。


「焼き払う。皆、火を」


 そうして彼は手にした松明たいまつに火をつけた。夕闇が迫り、立ち込めた霧が炎に照らされ赤黒く染まった。


 とその時、炎を目にしたワタリビ達が一斉に跳ねた。常日頃ののそのそした動きは何だったのか、戸口から流れ込んだ霧を伝って恐ろしい勢いで空中を走り、松明に殺到した。ワタリビ達は煌々と明るい炎をまとい、そこらじゅうを跳ね回った。


「みんな!」


 無色は絶叫した。大切に育ててきたワタリビ達が焼け死んでしまうと思ったのだ。無色はねばねばを胸にぎゅっと抱き、泣きながら彼女の子供達を捕まえようとした。


「みんな、水桶に飛び込むんだ! だめだ、だめだ炎へ向かっては!」


 あんまり彼がひどく泣いたからだろうか、人語を解さぬ様子だったワタリビの何匹かが、ごうごうと燃える村人の頭からひょいと飛び降りて、無色の元へ空を駆けた。


「もちもち! 早く水桶に! 死んでしまう!」


 無色は滂沱の涙を流しながらもちもちに向かって水の張られた桶を差し出した。けれど彼はそこに飛び込むことなく、空中でふわりと止まる。


「もちもち……お前、燃えていないのかい」


 末っ子の小さなワタリビはその体に金の炎を纏わせながら、つやつやとその肌を輝かせていた。むしろいつになく生き生きとしている様子に、無色は目を丸くした。


「なんてきれいなんだろう……皆も」


 無色はそう呟いて、絶対離さないようにと抱えていたねばねばを、そっと目の前の大きな炎の中に入れてやった。彼女は嬉しそうにまずはじっくりとあたたまり、段々と熾火になってきた長老の息子の体の上を進み、背中のところへほっそりと細やかに輝く子実体しじつたいを生んだ。


 見渡せば、其処此処そこここで同じことが起きていた。皆が嬉しそうに熾火の上を渡り、子を成そうとしていた。まだ一度も春を迎えたことのないうねうねもだ。


「みんな……良かったね」


 美しい光景に言葉をなくしていた無色が微笑んだ。子供達は村じゅうに散らばってゆき、自力で苗床を見つけ出して燃やした。なんて賢い子達だろうと無色が言えば、皆の母であるねばねばはどこか誇らしげにうねった。


 こうして無色の住む村は、うつくしい渡火の里となった。里の皆が家族で、色を持たぬ少年を無下に扱う者は、もうひとりもいなかった。

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