天魔の詩~てんまのうた~

大黒天半太

無無明亦無無明尽(無明は無く、無明が尽きることも無い)

 かくして、涅槃の境地に至る。されど、魔境の誘惑は、涅槃へ至る細道の両側が、断崖であるが如し。


 という例え話でだいたいイメージできるモノと思っていたが、細い一本道なら迷う方がおかしいとかいう感想が出て来ると、私の話の何を聞いていたのか、と思うのと同時に、いったいどう説明すればわかってくれるのか、と迷う。


 ボルダリングで上へと続くルートを見つけても、最終的にゴールへ届かなければ、それは間違ったルートでしかない。潔くスタートからやり直すか、自分が判断を誤った分岐点まで戻るほか無いのだ。


 気が弛めば脚を踏み外しかねないほど細い道であるというのは、ゴールの岩がわかっているか、見つけたルートはそのゴールに繋がっているか、それらを自覚して進んでいるかどうか、というあらゆる問いを含んでいる。

 ゴールに通ずる正しいルートだけが涅槃へ至る細道なのであって、それ以外は上へ昇るルートに見えても魔境の見せる幻であり、迷いによって足を踏み外しているのであり、上昇しているように感じても、断崖から墜ちているに過ぎない。


 我が下で修行して悟りに至らなかったことは問題ではないし、私自身もまだその境地ゴールに至ってはいない。道を違えたとは言え、元弟子がまだ修行を続け、道を求め続けていることは、むしろ喜ばしい限りだ。


 第二の師に巡り合い、さらに道を求めて修行を続け、ついに三昧の境地に至ったというのが本当であるなら、元の師としては羨ましい限り。


 そして、今度はかつての恩を返すため、私をその境地に導くためにここを再び訪れたという。


 一人高みに至ることができたのならば、教え導いたものはそのいしずえとなりきざはしとなったのであって、私もお前の第二の師もそれで充分なのだ。


 ただ、私の目指す地は、私が学び修行して得たものの中から生ずる手段でしか、到達することはできない。


 第二の師の導きと、第二の師の教えを糧として、覚者に至ったとお前は言う。同じ手段で、覚者に至れる、と。


 覚者、大覚、大悟、聖者、誰がなんと称するも他人ひとの勝手だ。


 私の目指すものとは異なるその到達点が、涅槃であるのか、魔境であるのか、私にはわからない。

 

 道を求める者が、常に魔境に堕ちるのと紙一重であるという自覚が無いのは、危うい。


 覚者であると称し、弟子を教え導く者もあるかもしれないが、その者が故意であれ無自覚であれ、弟子を惑わす魔羅・天魔の類で無いと誰が言えよう。


 第二の師の下で、お前は覚者となり、第二の師の言うがまま第二の師を導いたという。第二の師が越えられなかった壁をお前が越えたから、お前の力を持って第二の師の壁を壊し、涅槃の境地に至らしめたという。


 仙道に、尸解仙というものがある。肉体の死をもって、解脱を果たす種類の仙人を指す。スターウォーズのシリーズは見たことあるか? ジェダイマスターは、死後肉体が消滅して不変の存在に変わる。極論すれば、そのようなものだ。


 だが、それは、修行の果て、肉体の死を迎えたタイミングで解脱するということであって、お前の第二の師が言う、肉体を消滅させることで解脱させるということでは、決してない。


 ましてや、覚者に食われることによって、その霊格が覚者に取り込まれ、それによって食われた者の霊格が昇格し、解脱に至るなど世迷言に過ぎない。


 お前に、自らその身を食らわせた第二の師とは、果たして人間であったのか?


 修行によって魂を高めた僧侶を食らおうとするモノなら、心当たりは多数ある。西遊記を読めば、三蔵法師を食おうとした妖怪だらけだぞ。



 再度、お前に問おう。


 お前は、私を導くためここへ来たのか? それとも私を食らうためか?


 どうでもいいが、今は師ではないとは言え、人が話してる時は、話をちゃんと聞け。涎は垂らすな。 


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