【KAC20214】注がれた悪意

鶴崎 和明(つるさき かずあき)

二月某日

「あらー、新田さんお久し振りです。申し訳ありません、今、カウンターが満席で」


 もう九時も回ろうかという頃にバー「カントリー」を訪ねた私は、その盛況に目を剥いた。本来九人がけのカウンターには十の姿があり、これには目白も負けるだろうな、と苦笑する。見慣れぬ顔が多いということは、送別会が早くも始まったということだろう。そうした思いが募る中、脇に一つの影を認めた。


「じゃあマスター、あっちのテーブルでしばらく飲んでますから、いつものようにマティーニをお願いします」


 うやうやしいマスターの応答を受けてから奥のテーブル席へ向かうと、そこには同じく一人でウィスキーをやる男の姿が在った。


「井山さん、お久しぶりです」

「あら、新田さん。一か月ぶりですか」

「ええ、ちょっと仕事が立て込んでましたので。井山さんこそ少し顔色が悪そうですけど、大丈夫ですか?」


 なかなか眠れませんで、と答えた井山さんは私に座るよう手で促しながら、左肘をついたままどこか寂しそうに身体を少し傾けていた。ゆっくりと話をしながら、私はロングコートを壁に掛けてからやや高い椅子に腰掛ける。そこへ、ほどなくしてカクテルグラスと小皿が運ばれてくる。


「ああ、マティーニですか。よく初めに強いのをやれますねぇ」

「初めからウィスキーをロックでやる井山さんに、そんなこと言われる日が来るとは思いませんでしたよ。でも、こうやってオリーブを齧りながらやると、少しずつ食欲が出る気がしていいんです」


 かじった後には、肌色の種が姿を覗かせる。鼻を抜ける香気の後に身体へ迎えた強烈な辛みが貫き、頭が僅かに霞む。追いかけてきた檸檬レモンが目を覚まさせる。


「それを見ていると、あの女を思い出すんですよねぇ」


 井山さんの表情が明らかに歪む。


「あら、何か嫌な思い出もありましたか」

「ええ、この前ここでお会いした時に一緒にいた女性を覚えてますか」

「そういえば、珍しく女性とご一緒でしたね。それが何か」


 私の問いかけに暫く震えるようにして在った井山さんは、やがて振り絞るようにして事の次第を語った。

 程よく飲んだ井山さんは店を出てから、知ったイタリアンの店へとその女性をエスコートしようとしたが、

「少し、休ませて」

という一言により、誘われるままホテルに入った。しどけない姿でベッドに横たわった女性に導かれ、そのむせ返るほどの匂いに苛まれた、とやや恥ずかしそうに井山さんは言う。しかし、その最中に急な眠気が襲い、気付けばホテル代のみを残して女も井山さんの荷物も忽然こつぜんと消えていたという。


「あらら、思わぬ女狐でしたか」

「引っかかった僕も僕なんですけどね。ただ、あの鞄の中に顧客データの入ったUSBが入ってたのがいけませんでした。会社に報告せずにはいられませんでしたから伝えたところ、僕の居場所はもう……」


 井山さんの目は既に涙であふれている。握りしめられた拳は、やがて手の甲を突き破るのではないかと思う程に固いものとなっている。極度の怒りは震えをも起こすのだろうか。テーブルは微かに揺れ、カクテルグラスに僅かな波紋が広がる。


「きっと、初めからそうするつもりで何かを飲ませたに違いありません。あの女が許せません。ですから、もし、新田さんが覚えてらっしゃることや気になったことがあれば教えていただきたいんです。どんな些細ささいなことでも構いません。このままでは僕は眠ることも安らぐこともできなくなってしまいます」


 叫ぶような訴えに、私は頷くより他になかった。普段は気さくでありながら根の真面目な井山さんが、ここまでに乱れた姿を見せるのは初めてであり、それに呑まれてしまったという部分は大きい。ただ、それ以上にこの井山さんの狂を鎮めるには、話を聞いて受け止めるしかないと冷ややかに見る自分があったのも事実であった。ミックスナッツとチェイサーを運んできたマスターの視線もどこか怪訝けげんそうである。

 マスターがカウンターに戻ったところで、私は井山さんに訊ねた。


「何分、ひと月も前のことですから、はっきりと思い出せることは……。しかし、井山さんがここでどのように過ごされたのか教えていただけると少しはお役に立てることを思い出せるかもしれません」


 暫し中空を眺めるようにしていた井山さんは、一度グラスを傾けると、声を振り絞るようにしてその日のことを語り始めた。


 あの日、私が訪ねる一時間ほど前に店へ入った井山さんは、程なくして来店した女性に話しかけられ、共に各地を旅して回るのが好きであったことから意気投合したのだという。特に、夜明けの琵琶湖の美しさの話題が出たことで共感を覚え、マスターの様子からあまり見ない顔であることが分かっていたにもかかわらず安心しきってしまったという。その後、一緒に食事でもという話になったそうだが、それまでにお互い席を外すことはなかったという。

 井山さんの話を伺ううちに、私も少しずつ女性の姿やその日のことが肉感を持って浮かび上がってくるようになっていた。長く澄んだ黒髪のその女性は、井山さんよりも拳一つ分ほど背が低かったことから、百六十センチほどではなかったかと推察される。亜麻色のロングコートの合間より覗いたモノトーンのチェックのスカートが見事な組み合わせだと思ったことまで思い出される。確かにあの日、女性はカクテルグラスを空けてい、井山さんはいつものようにウィスキーを飲みながら珍しく何かを頼んだのか、金色のピックを乗せた白い小皿を残していた。

 女性の荷物は黒いハンドバッグだけではなかったか。私へ会釈した際に、女優の仲間由紀恵さんのことが頭をよぎったようには覚えているが、顔立ちを明確に思い出すことができないでいる。あとはマスターが二人の後を片付ける際に床を気にしていたことぐらいが印象的であった。

 ただ、それだけで何かが分かる訳ではない。


「あの時、何を頼まれたんですか?」

「僕はいつものようにターキーをロックで二杯頼んだだけですよ。そして、彼女はギムレットの後にマティーニを頼んでいました。思えば、強い方でしたね」

「私はマティーニが好きですからあまり気にしないかもしれませんけど、確かに言われてみればそうですね。ウィスキーにいつもと違う味はありませんでしたか?」

「あればさすがの僕でも気付きますよ。お店が出すものしかいただいていませんから、そこが引っかかるんです。ホテルでも何かを口にしたわけではありませんでしたし」


 そうなるとマスターを疑うしかなくなるんですけど、ここのマスターに限って――という井山さんの言葉がカウンターの喧騒けんそうに消えていく。団体がカウンターで独り身がテーブル席というのも奇妙なものであるが、それよりも何かが引っかかる。

 その正体を考えていくうちにオリーブの実は種を残してピックから放たれ、グラスも間もなく空こうとしている。白い小皿に残されたものを眺めているうちに、ふとその引っかかっていたものがほどけていくように感じられた。


「井山さん、あの時、脇に小皿があったように思いますが、何か料理を頼まれましたか?」

「いえ、僕はナッツで十分ですから」

「でしたら、マティーニのオリーブをその女性からもらわれませんでしたか」

「ええ。彼女はオリーブが苦手だそうで、よろしければ、と。それで一口で」

「井山さん、ここのマティーニのオリーブには種がありますよ」


 井山さんの目が大きく開く。


「そういえばあの時いただいたものの中には、ピメントが詰めてありました」

「きっと、すり替えられていたんですよ、薬か何かを詰めたオリーブに。マスターも種が見当たらないから帰られた後に探していたんでしょうね、床に落ちていないか」


 最後の一口を飲み干し、チェイサーで甘味を覚える。


「ああ、やはりあの女だったのですね」


 初めとうって変わって穏やかな表情になった井山さんも、残ったウィスキーを一気に飲み干した。


「ありがとうございます、新田さん。おかげで、やっとゆっくり眠れそうですよ」

「それは、何よりでした。ちょっと、失礼」


 急に湧き上がるものがあり、御不浄に入る。ゆっくりと用を足して井山さんの笑みに安堵しながら席に戻ると、そこにはもう井山さんの姿はなかった。


「新田さん、申し訳ありませんでした。やっと空きましたから、カウンターへ移られませんか」


 忙しかったためか少し上気した様子のマスターの促しに従い、荷物をまとめようとする。


「そういえば、何か一人で色々とお話のご様子でしたけど、電話でもされていたんですか」

「いえ、丁度井山さんがいらっしゃったので、色々と話し込んでいたんですよ」


 え、という声を上げてマスターが目を丸くする。いつもは崩れぬ穏やかな顔からやや血の気が引く。それも僅かなことで、笑顔に戻ったマスターはおどけたように言った。


「いやだなぁ、新田さん、ご冗談が過ぎますよ。だって、井山さんは半月ほど前に……」


 マスターの言葉に、今度は私が血の気の引く番となった。卓上には空のグラスもオリーブの種もそこには在るのだが、それより先には何もなく、静かな明かりがただただ映るだけであった。


「それで井山さん、次は何を召し上がりますか」

「ホット・ウィスキー・トディを」

「あら、珍しいですね」

「ええ、少し今日は冷えるようですから」

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