Trepidation

澤田啓

第1話 最期の祈り

 私の躰は現在、暗く澱んだ冷たい水の底に沈んでいる。


 あの時あの瞬間、巨きな地震が起きたその1時間後……私の暮らす町を巨大な津波が襲ったことが原因だ。

 工場の夜勤明けから自宅に戻った私は、午後3時前の激震……震度は7を記録したそうだ……を万年床の中で感知した。

 私が当時住んでいた築50年を経たボロアパートは、当初の激震が襲った第一波の揺れでペシャンコに潰されてしまったようだった。

 私の住んでいたアパートは1階に3部屋、2階も3部屋で……合計6世帯がこの安普請の極みとも云うべきアパートに肩を寄せ合うように暮らしていたのだ。

 私の部屋は102号室、両サイドに部屋があり2階建てアパートの下段真ん中と云う、倒壊した建物の中でも最悪の状況下シチュエーションに位置していた。

 夢現ゆめうつつの中で私は、下からの突き上げで目を覚まし……ミシミシとアパートの躯体が激しい横揺れに悲鳴を上げる最中に上半身を起こすことすら叶わず、カーテンの隙間から午後の穏やかな日差しが激しく揺れながら部屋に差し込む風景を、数十秒の時間を消費し眺めていた。

 咄嗟に枕元に置いていた携帯電話を掴み、布団の周囲に倒れるような家具を置いていなくて良かったと安心した瞬間……いつもなら遠く高くに見えていた筈の天井に貼り付いた古ぼけた木目が、私の目の前に迫って来たのだ。

 バリバリともバキバキともつかぬ、材木が破砕されたような音と共に……生木がへし折れた時に発生する独特な臭気が、私の鼻腔をツンと刺した。

 

『ああ……このオンボロアパートが潰れてしまったのか………』


 何処か他人事のような気持ちと、地震の揺れが想像以上に巨きかったことからか……私の精神こころは麻痺したかのように凪いだ水面の如き平板なモノとなり、この危機的状況においてもまるで乱れることはなかった。

 それから数秒が過ぎて、人の心を掻き乱すような電子音と共に緊急地震速報が鳴り響いた。

 崩壊後の静寂に包まれたアパートの別の部屋からも同じ音が聞こえて来たので、私以外の住人も倒壊した建物内に取り残されたか……または携帯電話を忘れて外出した人が居たのではないかと推測された。

 それにしても緊急地震速報って鳴るのが遅いよな……などと何の役にも立たない事を考えながら、自分の目の前にある木目の天井板から逃れられる術はないものかと、全身に力を込めて躰を捩ってみた。

 残念ながらと云うか予想通りと云うべきか、私の躰はピクリとも動かせず……可動可能な部位については、首と携帯電話をつかんだままの右手だけだった。

 麻痺したまま静止した私の精神こころではあったのだが、このまま死んでしまうのは嫌だなぁと考え……携帯電話から119番を発信した。


『…………………………………』


 恐らくはこの大地震によって、緊急番号も大混線しているのであろう……119番はなかなかに繋がることはなかった。

 何もすることはないので、暇を持て余したかのように数十回を数えた発信でようやく119番に繋がった。


「はい、◯◯市消防局です。

 火災ですか?急病人ですか?」


 私にとって初めての119番発信であったが、この応対はどんな場合でもマニュアル通りの仕様デフォルトなのだろう。

 しかしながら私の耳に無機質に響く交換手の声は、破壊されてしまった日常にしがみ付くための手段として……普段通りの受け応えを無理矢理に捻じ込んだような違和感を以って聞こえて来た。


「あの……◯◯市□□町3丁目5番△△荘の102号室に住んでいる※※と申しますが……先程の地震で私の住んでいるアパートが潰れまして、私自身は身動きが取れずに……部屋の中に閉じ込められてしまっているんですが……」


 一瞬、電話の向こうで息を呑むような気配が伝わって来て……私も少しだけ不安な気持ちが頭を跨げた。


「※※さん、身動きが出来ないと云うことなんですが……お怪我とかはありますか?」


 ああ……彼らも優先順位トリアージを決める必要があるのだなと感じた私は、もう一度だけ躰のあちこちを動かそうと努力した。

 その努力も虚しく上半身については感覚があったものの、下半身については全く動かせないばかりか……感覚すらも麻痺しているような次第だった。


「う〜ん……上半身は少しだけ動くんですが、下半身はガッチリと挟まって感覚もありませんね。

 痺れたような感じもするので、怪我をしているのかも知れません」


 私の応えに交換手の男性は、少しの間を空けて私に告げた。


「※※さん、ご存知の通り先程の地震で……かなりの通報が殺到している状況なんです。

 もしかしたら……もう少しだけお待ち戴くかも知れませんが、必ず……必ず※※さんのお宅まで救助に向かいますので……しばらくの間だけお待ち願えますか?」


 申し訳なさそうな声で詫びる交換手の男性に、私は何でもない風を装って応える。


「あ……構いません、頭とか上半身は痛みも何もないので……もう暫くぐらいであれば待てると思います。

 なるべく早くに来て貰えると、ありがたいのですが……」


 少し声は震えた筈だが、何とかこう言い終えた私に……交換手の男性ははっきりと告げた。


「必ず……必ず救助に向かいます。

 ※※さん、待っていてください!」


 通話を終えた私に、じんわりと恐怖心が湧き起こった。

 やはり人と話すと、妙な期待や裏切られた時の恐ろしさが引き起こされるのだろう。

 携帯電話の充電だけはたっぷりとあったので、私は普段なら掛けない実家の固定電話の番号を電話帳アドレスから呼び出した。

 災害時は電話が繋がりにくくなるとの噂話もあったが、実家の電話番号はすぐに呼び出し音を鳴らし始めた。


「はいもしもし※※です」


 久しぶりに聞く母親の声に、何故か私は安心したような気分になり微笑んだ。


「母さん、俺だ□△だ……今は家に居るんだけど……地震でちょっと大変なことになっちゃっててさ……」


 受話器の向こうの母親も、私のことを案じていたのだろう。

 少しだけ慌てたような声になって、私の名前を呼んだ。


「□△!

 どうしたの?

 地震で怪我でもしたのかい!?」


 慌てた震え声で私の安否を気遣う母親に、少し申し訳ない気分になった私は……何でもないような口振りを装い母親に告げた。


「いやいや……怪我はしてないよ。

 ただ……夜勤明けで寝てたらアパートから出られなくなってね、さっき消防署に連絡したから……すぐに助け出して貰えると思うよ」


 その声を聞いた母親も『ヒッ』と息を呑んだが、私を不安にさせまいと気丈に振る舞うことに決めたようだ。


「そうかい……それは大変だねぇ。

 でも、日本の消防士さんは優秀だから……きっとすぐに助けてもらえるよ。

 安心して待っていなさいよ」


 母親の声を聞いて、私は薄く笑った。

 親子して……似たようなことを考えるモノだなぁと。


「うん、大丈夫だ。

 あちこちで消防車のサイレンが聞こえるから、俺のところにもすぐに来てくれる筈だよ。

 災害の時に長電話をしたら……他の人にも迷惑になるから切るな。

 助かったら後で電話するから……またな」


 これ以上の時間を母親との通話に割くと、思わず泣き出しそうになりそうな気配を感じた私は、一方的に母親との通話を終えた。

 この閉塞感に塗れた状況の中で、私は少しだけウトウトとしてしまった。

 普段の夜勤明けならまだ寝ている時間だったので、もう若くはない私にとって睡魔に抗うことは出来なかったようだ。


「…………さん!※※さんっ!

 大丈夫ですか?※※さんっ!」


 近くで私の名を呼ぶ声が聞こえて来た、ウトウトしたつもりが……結構な本気で睡眠をとってしまったようだ。


「はいっ!※※ですっ!

 ここに居ますっ!」


 恥も外聞もないような大声で叫ぶ私に、上から大声が応える。


「聞こえましたっ!◯◯市消防局の★★ですっ!

 今から救助を開始しますねっ!!」


 若々しい男性の声に内心『助かった』と思った私の上で、ガサガサとバサバサとバキバキの混じり合った音が聞こえる。

 救助は難航しているようで、数十分経っても私の躰は瓦礫に挟まれ……私の目は陽の光を見ることが叶わなかった。

 その直後……けたたましいサイレンの音が響き渡り、遠くから誰かの叫び声が響いて来た。


「逃げろーっ!!

 津波が来たぞーっ!!

 早く逃げろーっ!!」


 瓦礫の中に埋まったままの私は、自分の置かれた立場を一瞬で把握した。


『あぁ……この町は港町だったな……瓦礫に挟まれたまま死ぬのもイヤだったけど……津波に呑まれるのも困るなぁ………』


 潰れたアパートの上で、救助活動をしてくれている消防士が叫ぶ。


「※※さんっ!もうすぐ助け出しますからっ!

 もう少し待っていてくださいっ!!」


 焦りを滲ませる若き消防士の声に私は、ほんの少しだけ勇気を振り絞った。


「消防士さんっ!!

 ★★さんっ!!

 私は……私のことは良いですからっ!!

 あなたも避難してくださいっ!!」


 少しの間を置いて、若い消防士の声がした。


「しかし……あなたを置いては行けませんっ!!」


 彼の狼狽を含んだ声を聞いて、私の覚悟は決まった。


「良いんですっ!

 あなたは私の通報を無視しないで来てくれた、それだけで……裏切られていないと云う気持ちだけで十分ですっ!

もし……津波が引いて、私がまだ無事だったら……その時こそは私を助け出してくださいっ!!」


 私の声を聞いた若い消防士は、悔しさを滲ませた声で叫ぶ。


「※※さん!

 きっとまた後で必ず来ますっ!

 それまで……どうかご無事でっ!!」


 その数分後……私の耳には瓦礫を押し流すバキバキともメリメリともつかぬ破滅カタストロフィの音が聞こえて来た。

 自宅アパートの瓦礫に挟まれた私の足が、冷たい水の流れを感じた瞬間……一瞬だけ自由になった私の意識は……直後に暗転した。


 私の人生はこれで終了した。

 しかし私の最期の願いが叶うとするならば……あの若い消防士の★★さんが、生きて津波から逃れられていることを願う。


 そして彼にとって私の死が……人生の重石となっていないことだけを祈るばかりだ。


 今となっては私にそれを知る術がないのだとしても。

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Trepidation 澤田啓 @Kei_Sawada4247

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