リヴァイアサン

藤光

リヴァイアサン

 いずれぼくたちが別れることは、つきあう前からわかっていた。きみの気持ちは分からなかったけれど、少なくともぼくはそう思っていた。だからいま、ぼくは別れを告げることができて、ほっとしている。泣かないでほしい。ぼくと、きみの涙とじゃとても釣り合わない。


 大学に入ってはじめての実習。きみが作製した塑像そぞうをみたときの衝撃は忘れられない。同じ彫刻科の四年生をモデルに作製された塑像は、大学生の実習レベルをはるかに超えた作品だった。


 人物造形を写し取るたしかなデッサン力と、それを塑像へと再構築する構成力、粘土で作られているのに人肌を感じさせる表現力、そしてなにより、作製者が作品を通じて人の内面に肉迫しようとする挑戦が感じられて素晴らしかった。


 まちがいない。10年にひとり、現れるかあらわれないかという才能だと思った。

 

 そんなきみが、はにかみながら作品に講評をつけるぼくに言ったのだ。


 ――あなたの作品にあこがれて、この学校へきました。講評お願いします。


 途端に、ぼくは頭をがんと殴られたような気分になった。

 その言葉をそっくりそのまま、きみに返したかった。彫刻家としてのぼくは、このときひと目みただけできみの作品に魅了されてしまっていたからだ。それが証拠に、あのあと、ぼくがきみの塑像をどう講評したのか、いまになっても思い出せない。


 塑像作製で才能の片鱗を示したきみは、その後木彫実習、石彫実習とカリキュラムが進んでも、つぎつぎと素晴らしい作品を作りだしていった。きみがとてつもない才能を秘めた人だということを疑う者はいなくなった。ただひとり、きみ自身をのぞいては。


 彫刻の道を志す者なら正視するのが辛くなる、太陽のような才能をもったきみは、それとは真逆の月のような謙虚さとはかなさを備えた心をももっていた。


 ――さあ、よく分かりません。

 ――あなたに指導していただいたおかげです。


 それはちがう。ぼくは、きみのもっている才能の1パーセントだって持ちあわせちゃいないのだ。ぼくは芸術に関する知識と彫刻の技能を備えてはいても職人だ。ほんとうの芸術家ではない。でも、きみはほんものだ。心のまま、まっすぐにへ手をのばしていって、をつかみ取ることができる人だ。


 だから、きみはもっとじぶんのことを誇るべきだった。なぜそうしてくれなかったんだ! ぼくはきみの才能に嫉妬していた。きみの作品を講評するときは、いつも下唇を強く噛みしめていた。なぜぼくではなくて、きみなんだと。ぼくがきみになれるというのなら悪魔に魂を売り渡してもいい――そうも思っていた。そして、じっさいぼくそうしてしまったんだ。 


 きみを誘惑することなど、かんたんなことだった。きみは彫刻家としてのぼくを尊敬していたから、それを利用して敬意を好意にすりかえていけばよかった。罪深いぼくがささやく愛の言葉に、きみが心も体もひらいていくさまは美しくも妖しくて、それ自体がひとつの作品だった。


 ぼくその作品に夢中になった。


 常にそばにいて、きみと同じ空気を呼吸する。同じものを見、同じものを聞く。感覚を同調させる。きみの中をぼくで満たし、ぼくの中をきみでいっぱいにする。きみのすべてを蹂躙し、あらゆるものを収奪する。ぼくは悪魔となって、幸福な女神を支配していった。


 ふたりで過ごすぼくの製作室ときみの部屋に、特別な時間が降り積もった。

 ぼくたちは数えきれないほど言葉を交わし、爛れるほど身体を重ねた。

 でも、ぼくがどんなにきみをむさぼったところで、ぼくの欲しいもの――そう、きみのもつ直観だ――は手に入らなかった。


 卒業製作に、きみが作り上げた作品をみたとき、それはぼくに突きつけられた。

 きみが卒業製作に選んだ石彫彫刻は、大人の背丈ほどもあるだった。それは尖った側を斜めに断ち割られており、中空の内部にもうひとつの小さなたまごを抱えていた。大きなたまごと小さなたまごは互いに支えあう構造になっており、その小さなたまごからは、いままさになにか禍々しいものが孵化しようとしていた。


 2020年度卒業製作 作品№13『嫉妬リヴァイアサン


 きみは求めずとも、掴みとれてしまう人なのだ。

 あの作品には、ぼくときみの関係が表されているのだろう? 大きなたまごがぼくで、小さなたまごがきみだ。ぼくがきみを包摂し、支配しているように見えて、ぼくはきみなしではじぶんを支えられないほど、きみに依存していた。そうしながらぼくは自身の内部にじぶんの手には負えない悪魔を孵化させてしまったんだ。


 ぼくはもう、きみとは一緒にいられない。

 そうでないと、ぼく自身が生み出した悪魔リヴァイアサンに食らいつくされてしまう……。




☆☆☆



 この作品は、21世紀の日本を代表する彫刻家・常盤瑛子が〇〇芸術大学の卒業製作のために作製した石彫彫刻を元に手を加え、2030年に足掛け12年を要して完成させた作品である。当時、大学の指導教授であり彫刻家の手塚光貴と恋愛関係にあった瑛子が、ふたりの愛がいかに完璧なものであるかを表現しようとした意欲作。ふたつの支えあう卵殻は、手塚と瑛子自身を表しており、小さな卵から孵化しようとしているのは「幸福」だと考えられている。瑛子は翌年、手塚とのあいだにもうけた長男を出産しており、孵化しようとする卵は、自身の妊娠の予感をも象徴している。瑛子は、手塚との別離を経験したのち、この作品の改作に取り組み、10年を経て改題・発表した。


 作品№13『直観リヴァイアサン

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リヴァイアサン 藤光 @gigan_280614

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