ー第二章ー

 安政六年(一八五九年)

 この年、土方歳三が天然理心流に正式に入門した。

 沖田総司は再び試衛館に戻った鐐と稽古に精を出しており、剣術も然(しか)る事乍(なが)ら日々の生活そのものが充実していた。ある事を一つ除いてはーー。

「あーあ。今回もまた総司から一本取れませんでした」

「鐐はまだまだ正直者だから、もう少し老獪にならないと。土方さんみたいにね」

「なんだと、年寄みたいな言い方しやがって、経験豊富で明敏だと言え」

「うーん、そうですね。土方さんの明敏さは女性を手玉に取る手腕でも、遺憾なく発揮されていますからね。今は三味線屋の看板娘と文を交わしているそうじゃないですか」

「総司てめぇ、それをどこから!? いや、まずそうじゃねぇ、それは長兄が勝手に引き合わせただけでだなーー」

「ーー皆さん、こんにちは」

「あっ、兄上!」

 稽古が終わり三人が雑話しているところに八郎の声が混じった。

「よぉ、八郎。講武所帰りか?」

「いえ、今日は鐐にこれを。九代目から預かった新しい袴を持ってきたんですよ」

「過保護な兄に過保護な師範なこった。どこも兄というものは過保護になるらしいな」

「鐐を追い出す形になってしまって、心咎めているんですよ。鐐、お変わりありませんか?」

「はい、お陰様で」

「しっかしお前、また一段と頑健に見えるようになったじゃねぇか」

「そうですか? トシさん今度手合わせお願いしますよ」

「いいぜ、その代わり俺が勝ったら遊興に付き合えよ」

 鐐の兄だという八郎。総司は初めて会った時からこの男が気に食わなかった。

 華奢で身体の薄い、如何にも優男といった印象であった男だったが、講武所で剣術を磨いていると聞く。確かにここに来るたび逞しい体付きになっている。剣術を始めたのはここ一年だが、すぐさま頭角を現し俊敏で妖異的な姿から『伊庭の小天狗』と呼ばれているらしい。文武両道さらには顔も育ちも良いと、江戸市中では少し有名な存在になっている。

 土方とは九つも年が離れてはいるが、以外にも気が合っているようだった。一方は豊かな生家に生まれた末子、一方は大道場の嫡男ではあるが家督を相続していない身、どちらも部屋住みで通ずる所があるのだろう。

 だが総司は八郎の存在だけが何故か癪に障る。いや、何故なのか理由に気付いてはいるが、それを認めたくない故に出来るだけ関わらないよう距離を取っている。

 総司は木刀を片付けそそくさと道場を後にした。

 その後ろから三人の声が聞こえる。

「……あれ? 総司?」

「あいつなら出ていったぜ」

「えっ、いつの間に。折角兄上が来てくれたのに、挨拶もしないなんて」

「ふふ、沖田さんには挨拶が出来ない理由があるのでしょう」

「……成程な」

 理由を察した土方が妖しい表情で笑っているのが目に浮かぶ。面白くない。あの八郎の全てを見通しているような余裕も不愉快だ。

 総司は台所に立ち寄るとその鬱陶しい気分を晴らすため、丁度煮出してあった茶を釜から掬い、土方がいつも使っている湯呑に、土方生家ご自慢の石田散薬と共に注ぎ入れた。相当不味いらしいこの薬を、何も知らずに飲んだ土方が噴き出し咽(むせ)る事を想像しながら。


 翌年、十九になった総司は免許皆伝を受け、試衛館の塾長筆頭になった。

 青年期の著しい成長を終えた鐐は十七。土方は何の代わり映えもなく二十六になり、二十七の勝太はツネと言う女性を娶っていた。

 ツネは勝太だけでなく試衛館の弟子に対しても献身的で、食事支度や洗濯などを請負ってくれるようになった。

 そんなツネに鐐は影響を受けたのか、ある日、鐐が総司の稽古着に理解し難い刺繍を施してきた。

「なにこれ? 新手の嫌がらせなの?」

「総司の、沖田家の家紋のつもりだったんだけど……」

「ぷっ。これはどう見ても、潰れた丸の中に角ばった花びらのような模様が四枚。沖田家の家紋ってこんなだっけ? あははは!」

 沖田家の家紋は丸に木瓜、とても上手いとは言えない出来栄えに総司は笑いが止まらない。

「そんなに笑わなくたっていいじゃない!」

「……まぁ僕にはこれでいいけどね」

 総司は笑い過ぎて出た涙を拭きながら稽古着を受け取った。

 以前ツネが勝太の為に、稽古着に髑髏の刺繍を施したのを真似たのであろう。出来栄えはともかく、鐐が慣れない縫物を自分の為にやった事が単純に嬉しい。

 更に鐐は食事の支度にも意気込んでいた。これまでも内弟子として手伝うことはあったが、自ら意欲的に取り組んでいる姿は初めてだ。

「今日の昼餉は鐐も手伝ってくれたそうだ。皆、有難く頂こう」

「「「…………」」」

 勝太他、皆が黙ったまま粗飯を流し込んでいる。

 剣術や学問に秀でて、何でも器用に熟(こな)すと思っていたが、鐐は料理もからっきし駄目であるみたいだ。

 しかしそんな粗飯でも、美味しいと感じてしまう総司は、馬鹿になった舌を誤魔化し口を開いた。

「……なにこれ? 汁も煮物も味がしない。それにこの人参は硬いし、まともなのはこの沢庵だけだね。形は歪だけど」

「文句言うなら食べないで下さい。今日は薪の燃え方が悪かったんです」

「まぁまぁ、最初から何もかも上手く出来る人なんていないさ」

 慰めの言葉をかける勝太だったが、鐐は自分には向いていないと匙を投げている様子だった。


 しとしと降る長雨に、湿り気に満ちた空気が纏(まと)わりつく。平穏な日々に暗雲が立ち込めたのはそんな日だった。

 鐐は酷い倦怠感と激しい咳、発熱に苦しんでいた。

 一旦は町医者に診てもらい薬を飲んで解熱したのだが、翌日には再び高熱に見舞われ、目は充血していた。

「あの町医者、藪医者なんじゃないの!」

「まぁ落ち着けよ、総司。この石田散薬でも試してーー」

「ーー土方さんは鐐を殺す気ですか!? そんな怪しい薬、もっと信用出来るわけないじゃないですか!」

「なんだと! 石田散薬はだな、古来より多くの和歌の歌枕となった、多摩川の恩恵を受けた牛革草を天日干ししてーー」

「ーーまぁ、まぁトシさん。今は食事も取れていない状態ですので、取り敢えずこの手拭いで頭を冷やしましょう。沖田さん、水を汲んできてもらえませんか?」

「あぁ」

 八郎は三日前に発熱したのを知って以来、毎日様子を見に来ていた。

 ただの風邪とは思えないその異常さに、天邪鬼だった総司は分かりやすく周章狼狽しており、普段なら応じることのないであろう八郎にも素直に従っていた。

「じゃあ俺はツネさんに何か食えそうなもんがねぇか聞いてくるぜ」

 総司と土方が部屋を出た後、鐐は見舞う八郎から背を向け、布団に顔を埋(うず)めて咳をした。

「ゴホ、ゴホッ。あに、うえ……ここに来ては、ゴホ、ゴホッ……なりません」

「鐐?」

 昨日とは打って変わって熱に浮かされる。口の中が焼け突くように熱く喉が痛い。医者に診てもらった後は症状も落ち着き、これで回復すると思っていたのに、今は更に症状が悪化している。止まらない咳嗽(がいそう)に鐐は一つの懸念を抱いていた。

「ゴホ、ゴホ、ゴホッ。誰も、来ないように、ゴホッ……伝えてください」

「鐐! その顔は……」

 布団から出した鐐の顔を見た八郎が酷く驚いている。

 やはりーー。発疹だ。

 これまでにたくさんの医学書を読んでいた鐐は、自身が『命定め』と呼ばれ恐れられている麻疹(はしか)に罹(かか)っていることに気付いていた。

 重症の伝染病で特効薬もなく自然治癒を待つしかない麻疹は、以前は『赤もがさ』と呼ばれ度々大流行を繰り返し、 天然痘より死亡率が高かった。

 鐐は八郎に自分の所為(せい)で皆に移してしまうことだけは避けたいと、部屋から出て行くことを懇願した。

「どきなよ。伊庭君! 何で入っちゃいけないのさ!」

「総司! 鐐は伝染病だ。あいつの気持ちを考えろ!」

 部屋の外では八郎に詰め寄る総司を土方が諭していた。


「ゴホッ。ゴホッ」

 少し眠れたのか、部屋は五月闇(さつきやみ)に覆われていた。

 傍に誰かの気配がする。弱々しい気息で、起きているのか寝ているのか、それすらも分からない状態の鐐は、外界を認知することが出来ない。再び激しく咳き込む身体を布団に隠し背を丸めると、その気配は、はみ出している背中をそっと撫でた。

「……早く良くなってよ。僕はまだ、君に何も伝えていないんだから」

 総司の声だ。普段では想像も出来ない優しく撫でる手や声に、呼吸が少し楽になる。

「……なにを、ゴホッ、ゴホッ。伝えて……くれるのですか?」

 そう言って、鐐は直ぐまた昏蒙(こんもう)してしまった。


ーーここはどこだろう? 

 意識混濁する中、鐐は誰かの腕の中に包まれているのを感じた。とても温かくて、柔らかくて安心する。自分の身を全て預けて包み込む優しい腕。

 どうやら夢を見ているみたいだ。

ーー誰の腕なのだろう……。

 鐐は声を掛けようとした。が、言葉にならない。仕方がないので、手を伸ばしてその人を確かめようとした。しかし、その手は小さ過ぎて届かなかった。他に身体を動かそうとしても全く自由が利かない。

 鐐は動かない身体のまま、ふっと意識を周りに向けた。

 ここは炎に包まれている。ごうごうと燃え盛る中、人々が逃げ惑い、そしてその中に不穏な気配を纏った影がいた。嫌な気配だ。妬(ねた)みや嫉(そね)み、そういった類の暗く重いドロドロとした憎悪の念が渦巻いている。

 小さな身体は五感以外のものを感じやすい。この気配は自分の命を狙っている事が分かった。

 鐐を抱いているその人はその影に気付いたようだ。隠すように鐐を更に胸の中にギュッと抱きしめ駆け出した。

 鐐は直感した。

ーーきっとこの人は母上なのだ。その姿を確認したい。声を聞いてみたい。呼びかけて欲しい。笑いかけて欲しい……。

 しかし着物の袖に深く包まれている鐐からは何も見えない。初めて知る母の温もりだけを感じ、聞こえる鼓動の音に鐐の意識は途切れてしまった。

 

 次に感覚が戻ると鐐は自由に動く事が出来た。深い霧がかかっていて、よく見えない周囲に手探りで起き上がる。

 母上はどこへ行ったのだろうと、少し歩いてみると急に霧は晴れ、穏やかな風が吹き始めた。

 無辺に広がる草原に、目の前には広大な川が流れている。

 川の向こう岸を見ると、柔らかな日差しを浴びて、美しい色とりどりの花が咲き乱れており、そこには一人の女性が佇んでいた。

 髪は肩まで切り揃えられ、被布を纏い出家している姿。どこか自分に似ている気がする。

「母上?」

 鐐は、はやる気持ちを抑えられず、手を伸ばし川に足を踏み入れた。

 しかし緩やかな水流に見えた川は一瞬にして暗闇に変わり、鐐はその暗闇に飲み込まれてしまった。上も下もなく、色も音もない、何もない無の世界に落ちていく。朽ちていくようだった。自分が完全に消えて無くなっていくのを感じる。

ーーあぁ、きっとこれが涅槃の世界なのだろう。

 鐐は全てを諦め死を受け入れようとした。

ーー母上はどんな人だったのだろうか。父上は誰だったのだろう。一度でいいから会ってみたかった。

 鐐が母と父を想い意識を手放そうとした時ーー。

「ねぇ、早く起きてーー」

 手に温もりを感じた。

「ーー僕を、置いて逝かないでよ」

 繋がれた力強い手が鐐を引っ張っている。そっちに逝かないでとーー。そして縋るように何度も鐐の名前を呼ぶ。

「…………鐐」

ーー鐐。そう私は鐐。どうしてここにいるのだろう? 皆、私に気付かない。私は存在していないのと同じ。心が空っぽで淋しい。孤独が怖い。同一性のない自分が心細い。あぁ、母上。あなたはもう、そちらにいるのですね。父上も、そこにいるのでしょうか? 私はあなたに会いたかった。あなたを知りたかった。私が、私であるという確信が欲しかった……。このまま消えてしまえば、私の生は何の意味もなく終わってしまう。母上、私は自分の存在を取り戻したい。そうすれば、あなたに会うことが叶わなくとも、きっとあなたを感じることが出来ますよねーー。

 消えかかった意識が希求を取り戻す。救いあげるように導く手を握り返し、鐐は心地よい浮遊感に身を任せた。

 朦朧(もうろう)とした意識がゆっくりと覚醒する。

 鐐は隣に自身の手を握り締めている総司を見つけた。


 全身に広がった発疹が少しづつ消えて十日。

 まだ軽い咳が続いていた鐐は、病余の静養をしていた。

 久しぶりに戻った日差しは、昨夜の翠雨(すいう)を反射させ庭の草木を煌めかせており、病み上がりの身体に安らぎを与える。

 伊庭家で受け取った太刀を手入れしている鐐は、眩しい景色と澄んだ空気に身体を弛緩させ、熱にうなされ見た夢を想った。

ーーあれはやはり母上だったのであろうか。自分が見たものは現世(うつしよ)ではなかった。恐らく母上はもうこの世にはいないのであろう。

 打ち粉を打って丁子油を塗った刃をそっと置き、鐐は静かに思いを馳せた。

 柄(つか)から取り出した刀身は、相変わらずの存在感を放ち白光りしている。

「ーーその刀。綺麗な刀だね」

 いつの間にか、開けっ放しの隣の部屋から総司が顔を出した。

「総司。稽古は終わったんですか?」

「あぁ。鐐がいないから苛める相手がいなくてね」

「ふふっ。苛められるのは御免ですが、私も早く稽古に出たいです」

「丸二日も昏迷していたんだ。少しづつでいいんじゃない。まぁ、鐐の具合が悪いと、毎日のように君の過保護な兄がやってきて煩わしいから、早く良くなってくれなきゃ困るけど」

 相変わらず総司は八郎と反りが合わないようだ。

「兄上は昔から心配性なのですよ……。ねぇ総司、一つ聞きたいことがあるのですが……。仏門に入る女性ってどの様な人なのでしょうか?」

「藪から棒に何さ、出家したいの?」

「いえ、母上を見た気がして……。夢だったのかもしれませんが、確かに出家した姿の母上を見たのです。その姿はとても高貴で…………この刀も恐らく……」

「菊一文字則宗。下級武士が到底手を出すことなんて無理な代物だね」

「知っていたのですか?」

「刀を持つ者であれば、則宗の銘を見れば誰でも分かるさ。まぁ、それで君の母上が分かるわけじゃないけど。いずれにしても出家するってことはそれなりの身分だったんだろうね。そして君も……」

「私は自分の身分というものは今更気にはしません。でも知りたいのです。自分の父上や母上の事、そしてなぜ伊庭道場に預けられたのかを……」

「…………」

「そういえば総司、私が寝込んでいるとき、何か伝える事があると言っていませんでしたか?」

「さぁ? そんなこと言ったかな?」

 それ以上、言葉を交わすことが無くなった総司は、鐐の生まれを主張するかのような刀を、熟慮するように見つめていた。


万延という元号が一年も経たずに改元された文久一年(一八六一年)。

 天然理心流三代目、近藤周助は名を周斎(しゅうさい)と改め隠居していた。

 四代目を襲名した勝太は近藤勇(こんどういさみ)と改名し、試衛館には数人の客分が住み着いていた。

 仙台藩を脱藩して江戸に来た山南敬助(さんなんけいすけ)は二十九歳。北辰一刀流の使い手で、四代目近藤との立ち合いに敗れて以降、近藤の腕前や人柄に感服し門人となった。近藤もまた、一つ年上の博識で温厚な人柄の山南を敬っているようで、年長であるのに驕(おご)ることなく、達観して仏のような彼は、鐐や総司にとって日頃の心得を学ぶ良き師となった。

 伊予松山出身、種田流槍術の原田左之助(はらださのすけ)は二十二歳。人情に厚く、義理堅い熱血漢だが喧嘩っ早いところがある。奉公人として武家に出仕していた時には、若党に「腹を切る作法も知らぬ下司(げす)」と罵られ、本当に腹を切って見せたらしい。幸い傷は浅く命に別状はなかったそうなのが、この気短な男は酒を飲む度「俺の腹は金物の味を知ってるんだぜ」等と言って、その一文字に残った傷を見せびらかしていた。

 松前藩脱藩者の永倉新八(ながくらしんぱち)は二十三歳。武者修行に出たいが為、脱藩するぐらい剣術が好き過ぎる永倉は、心形刀流の門人である坪内主馬(つぼうちしゅめ)に見込まれて、坪内道場師範代を務めていた経緯もあるそうだ。力の剣法と言われる神道無念流も極めている永倉は、我武者羅、遮二無二、兎に角考えるよりも先に体が動くような男であった。


 山南と同じ北辰一刀流の藤堂平助(とうどうへいすけ)は鐐と同い年の十八歳。真偽は定かではないが伊勢津藩藩主、藤堂 高猷(とうどう たかゆき)の御落胤だという。幼い顔立ちに小柄な見た目とは裏腹に、勇猛で活発な彼は稽古では常に先陣を切っていた。底抜けに明るく、人の輪に入るのが上手い。

 似たような性質を持つ原田、永倉、藤堂。彼等は「単純で豪快な三馬鹿」と土方に一纏めにされていた。

 そしてもう一人、居合を得意とする無外流の山口一(やまぐちはじめ)、十八歳。無口であまり自分のことを話さないが、ふらりと立ち寄っては元々そこにいたかのように馴染み、そしていつの間にかふらりと帰っている。御家人株を持つ家の次男だと聞くが、掴み所がなく、何を考えているのかよく分からない人物だ。しかし何故か試衛館にしっくりはまっている。恐らく三馬鹿のようにべらべらと話すことはしないが、本質的に同じような思考を持っているのだろう。

 こうした者達を近藤は食客として快く迎え入れていた。というのも彼らは皆、他道場で修行を積み、かなりの腕前の持ち主であった為、道場破り対策に打ってつけであったのだ。

 そもそも天然理心流は、最前線で戦う為の業を想定した剣法であり、実戦向きではあったが竹刀試合には向いていなかった。以前は、腕に覚えがある者が道場破りに来ると、近くの道場に助太刀を依頼することもあったのだが、彼らが来てからはそういったことも無くなった。

 そして彼らもまた、田舎剣法と揶揄される試衛館の、身分や肩書きを問わない大らかさ、お飾りで帯刀している侍にはない大義などを感じ、志を共にしていた。


「ーー今、総司は山南さんと小野路まで出稽古に行っていますよ。兄上、ここのお団子美味しいですね」

「剣の腕前が確かな沖田さんと、良識で博学な山南さんだと無敵の組み合わせですね。えぇ、美味しいですね。鐐と一緒に食べると余計に甘味が増す気がします。是非今度は一緒に一日千棹も売れるという船橋屋の羊羹を食べませんか?」

 以前交流試合をした練兵館に書状を届けに出た鐐は、その帰り八郎と落ち合い茶屋で団子を味わっていた。甘い物に目がない八郎は羊羹、お汁粉、カステラ等いつも美味しい甘味処を教えてくれる。

「それは魅力的ですね、是非。ところで兄上、昨年の桜田門外で大老の井伊直弼が暗殺された件ですが、あれ以来幕府の権威が失われつつあると危惧されています。講武所ではお変わりありませんか?」

「そうですね、まだまだ修行の身である私にまでは対した影響はありませんよ。それにしても鐐が幕政について話すなんて驚きですね」

「山南さんですよ。分からない事は何でも教えてくれます。下手人が水戸を脱藩した浪士だったということも教えて頂きましたーー」

「ーーそうなんですよ! その後、捕らえられ斬首された浪士達の、事後処理資料を纏めるのが大変でした」

 突然一人の男が話に入り込み、鐐の向かいに座った。

「おや? 小太郎(こたろう)殿ではありませんか。下城した帰りですか?」

「えぇ、八郎殿はこんなところでお仲間と茶屋とは珍しいですね」

「大事な人との逢瀬ですよ。鐐こちらは評定所書物方(ひょうじょうしょしょもつかた)の本山(もとやま)小太郎殿です」

 腰に大小二本を差し、上質な羽織袴を着た、旗本の侍だと見受けられる男は、八郎の朋輩(ほうばい)なのであろう。逢瀬などと語弊のある言い方をして大丈夫なのかと、鐐が本山に挨拶をしようとすると、男は目を見開きこちらに迫ってきた。

「鐐!? もしや、あなたは八郎殿の妹君ではありませんか!?」

「えっ、あっ、はい。そうですが……?」

 八郎の妹と言われつい返事をしてしまったが、男の格好をしている自分が女であることを露見され鐐は焦りを感じた。

 しかし本山は鐐の格好には気にも留めず、八郎に詰め寄っていた。

「八郎殿、私に嘘をつきましたね! 妹は気丈で負けん気が強く屈強な男のようだから、とても私の手には負えないと言ったではありませんか!?」

「えぇ、嘘は付いておりませんよ。鐐は幼子のうちから剣術を嗜んでいましたし、今も男に引けを取らない程の腕の持ち主です」

「なんとしたことか!」

 着飾れば勿論の事、例え男の姿をしていようが容姿端麗である鐐はとても屈強な男のようには見えない。

 微笑む八郎と激しく悔いている様子の本山に、鐐は以前縁談の話が進んだ相手が、目の前の男であることを知った。

「ところで小太郎殿、以前私が頼んでいました件は進展ありましたか?」

「無茶言わないで下さいよ。評定所の書物方とはいえ、私が勝手に何某を調べているなんて知れたら、下手したら切腹ものですよ」

「そうですか。鐐に良い報告が出来ずに残念です」

「ん?」

「あぁ、言っていませんでしたね。私が調べて欲しいとお願いしている明楽氏は鐐が昔世話になった人でしてね。どうしても一度お会いしたいのですがーー」

「ーーそうだったんですね! 鐐殿!! 私にお任せ下さい。必ずや私が探し出してみせましょう!」

 そう言うと本山は忙しなく行ってしまった。

「……行ってしまわれましたね。兄上、良かったのでしょうか?」

「そうですね。流石、小太郎殿は頼りになる方だ」

 呆気にとられている鐐とは反対に、八郎は全く気にしていないようだ。

 縁談の話が出たのが、かれこれ三年ほど前。それ以来の付き合いであろうか、随分と気心の知れた間柄になっているようだった。

 鐐は本山の諜報活動に後ろめたさを感じつつも、明楽茂正の手掛かりに繋がりそうな気配に心が浮き立った。


 カンカンカンッと木刀のぶつかる音が響き渡る。その音の速さと重みからは、二人が相当な手練れであることが伺える。

 総司は山口一の剣を受けていた。

「やっぱり一君の左構えは打ち込みにくいね。これまで右差しの人と出会ったことがなかったから、いい勉強になるよ」

「総司の手数の多さと速さも、俺はこれまで出会ったことがなかった」

 山口は武士として御法度とされている左利きであった。作法として決められているので右差しは蔑視される。しかし山口の予想外の攻撃は、単純に剣術を極めている試衛館の者達にとっては珍重するものであった。

 近頃、門弟達の稽古が終わった後、道場に残り総司が剣を磨く相手となるのは専(もっぱ)らこの男である。

 以前まで相手となっていた鐐は、この頃は稽古が終わると自室に籠っている。恐らく部屋はたくさんの書物で散乱しているだろう。元々読み物に没頭することが多かった鐐だが、今は何かを漁るように様々な書物を読んでいた。

 土方はコレラの流行に私財を投じて薬剤を施与(せよ)している、姉婿の佐藤彦五郎宅へ手伝いに駆り出されており、近藤と山南は稽古が終わると政(まつりごと)について談話するのが常である。

 政にはこれっぽちも興味のない総司は、残る原田、永倉、藤堂や山口と共に道場に居座り続けていた。

「皆さん、こんにちは」

 そして三日に一度の割合でこの男がやって来る。

「よう、八郎。お前また来たのか」

「丁度いいとこに来たぜ。もうすぐ周斎翁が講釈場から帰って来るんだ。お前が来てたら爺さん喜んで蕎麦を振舞ってくれるぜ」

「まぁた新八は爺さんの懐を当てにしてやがる」

「左之さん。新ぱっつぁんは、食べる事と剣術しか頭にない獣だから仕方ないんじゃね?」

「何だと平助! お前だっていつも、ちゃっかり付いてきて、この前なんか三杯も食べてただろ! 小さい体のくせに遠慮無く食べやがって」

「小さいからこそ、育ち盛りの体には食う量がいるんだよ!」

 三馬鹿が騒がしくなり、山口がそっと木刀を片付けて道場を後にしたので総司もそれに続いた。

「一君、帰っちゃうの?」

「あぁ。総司は彼(か)の者達と残らなくて良いのか?」

「別に。どうせ伊庭君は鐐に会う為に来ているんだろうし。一君こそ昼餉を食べてから帰ればいいのに」

「そこまで世話になる義理はない」

「ふぅん。真面目なんだね。だったら僕も途中まで一緒に行くから、ちょっと付き合ってよ。今日は蕎麦の気分じゃないんだ」


 試衛館を出て四半刻後。

 総司は山口を連れ立って茶漬け屋、の隣の茶屋に腰をかけていた。

「昼餉を食べに出たのではなかったのか?」

「うん、そうだよ。一君は食べないの?」

「俺は昼餉の代わりにするほど甘味を好んでは食べない」

「やっぱりね、そうだと思った」

「……?」

「土方さんだよ。土方さんも甘味はあまり食べないんだ。一君さ、土方さんと似てるよね。直ぐに眉間にしわが寄るところとか、目つきが悪いところとか。因みに俳句なんて詠まないよね?」

 くすくすと土方の発句集を思い出し笑う総司を、訝(いぶか)しげに見る山口は、右腰に差した刀に視線を移し言葉を紡いだ。

「土方さんと似ているかどうかは分からんが、俺は土方さんを尊敬している」

「えっ、土方さんを? 噓だよね? 周斎先生に小遣いをせびっては遊郭に遊びに行き、この前は花魁の奪い合いで何某と喧嘩した土方さんだよね? 役者のような良い顔だと言い寄る女性をいいことに、とっかえひっかえ、礼儀作法はなっていないし、偉そうで、剣術は喧嘩だと思っているような、あの土方さんだよね?」

 一驚(いっきょう)を喫(きっ)する総司は、眉をひそめながら捲(まく)し立てた。

「…………。本来刀とは左腰に差し、右で抜くことが決められている。右差しの俺は邪道だと、これまで蔑まれてきた。しかし、土方さんは『それがどうした』と、斬り合いになれば右も左も関係ない、俺は俺のままでいいと認めてくれた。だから俺はあの人を尊敬している」

「へぇ。あの土方さんがねぇ」

「そういう総司は伊庭殿と似ているのではないか?」

「えっ、何でさ。一緒にしないでよね」

「同じように甘味が好物だと言っているのを聞いたことがある。それに大事なモノが同じであるようだからな」

「……何のことだか」

 核心を突かれたような居心地の悪さに、総司は言葉を濁した。

 残っている串団子を口にし茶を啜る。腹も満たされ、これ以上山口と一緒にいてもつまらなさそうなので、そろそろ帰えろうかと腰を上げる。

 と、その時ーー。

「おのれ貴様! 武士である儂を愚弄する気か!」

 すぐ脇にいた男が、店の主人に向かって声を荒げてきた。

「めっ滅相もございません。しかし、ここは茶屋ですのでお酒は……」

「なに! 茶屋であろうが何であろうが暖簾(のれん)を掲げている以上、客をもてなすのがお前の務めではないのか! これ以上の非礼をするというのなら無礼討ちにしてくれるぞ!」

「ひっ、もっ申し訳ありません! 茶や団子などは差し上げますので、なにとぞ穏便に……」

 己の方こそ無作法な侍が、非礼だとか無礼討ちなどと御託を並べている。不届き千万であるが、身なりからして恐らく旗本の侍だ。

 総司は巻き込まれては面倒だと早々に立ち去ろうとした。が、山口はその場から動く気配がしない。それどころか、その土方によく似た眉間のしわと目つきで、遠慮のない視線を送っている。

「ん? 何だ貴様、何か言いたいことでもあるようだな」

 山口の視線に気付いた侍が矛先をこちらに向けてきた。

 総司はこれは面白くなりそうだ、と再び腰を下ろし事の成り行きを見守った。

「いえ、特に。貴人に伺候(しこう)し、いざという時はその身を挺してまで守り抜くという侍が、静穏な日々を過ごす平民に対し、如何にして穏便に済ますのか、この目で確かめたいと思ったまでです」

 しんと静まった周囲の人々の視線が集まる。

「ちっ、興が醒めた。酒はもう要らぬわ!」

 すごすごと男は引き下がって行った。去り際、怨敵を見るように山口を見据えてーー。

「お侍さん、ありがとうございました。あのお武家様、どこかで聞いたんか、ここで呑める酒があると言って来られたんです。それで、ここに出せるお酒はないとお断りしたんですが、どうも機嫌を悪くされてしまいまして、困っておりました」

「そうでありましたか、それは難儀なことですな」

「一君、斬っちゃった方が良かったんじゃない?」

「そんな物騒なことは冗談でも言うものではない」

 その後、実はこの辺りの民達で呑み交わしている、特別な酒があるという主人は、固辞する山口に半ば強制的に礼だとその酒を瓶に入れて渡してきた。

「お酒、あるんだったら、あの男にも出せば良かったのにね」

「一度出せばそれが二度、三度と続くであろう。相手は旗本の侍だ。店の主人にはどうしようもない。世の中、理の通らぬ事もたくさんあるということだ」

「一君って、僕より二つ年下だよね? 何だか年寄りくさいなぁ」

「総司が幼過ぎるのだ」

 礼儀正しい山口も総司とは、くだけた話し方をするのでどちらが年上なのか分からない状態だ。しかし総司はそれが嬉しかった。剣の腕前が同等で、身分も立場もそう変わりない。そんな同輩が自分と対等に話すことに何の違和感も持たなかった。

 店を出てしばらく歩くと山口は、先ほど主人からもらった酒瓶を総司に渡してきた。

「これは世話になっている試衛館に持って帰ってくれ。俺が住んでいる長屋は目と鼻の先だ。あの侍もつけてきてはいないようだから心配しなくてもよい」

「別に心配なんてしてないよ。一君がどこに住んでいるのか見ておこうと思っただけ」

 総司は侍が立ち去る時の山口を見る視線が気になり、付き添っていたのだが、いざそれを指摘されると小っ恥ずかしい。照れ隠しにいつもの天邪鬼が出るものの、フッと笑った山口は総司の本心を見抜いているのだろう。

 総司は酒瓶を腕に引っ掛けて、手を頭の後ろで組み試衛館に戻って行った。


 その日の夜ーー。

 夕餉を済ませ自室にいた総司は、今宵もまた月が美しく、夢幻の光を放っているのに惹かれて縁台に出た。

 暗くて人気(ひとけ)がない隣の部屋に、昨夜の満月を一緒に賞した鐐はいない。こんな時刻に部屋にいないのは珍しいことだ。

 何処にいったのかと不思議に思っていると、一番奥の部屋から賑やかな声が漏れていることに気が付いた。

「ーーーーしっかしだなぁ、お前もそろそろいい年なんじゃないのか?」

「何ですかぁ~~。年増女だって言いたいんですかぁ~~?」

「そぉじゃなくて、総司がだなーー」

 総司と、自分の名をあげる永倉の声に、呂律の怪しい鐐の声。嫌な予感がする。

 総司は足を火急に動かし奥の部屋へと向かった。

「ーーいぃんですよぉ。私はどこの誰から生まれたのかも分からない、素性の知れない身ですからぁ」

「えっ? 鐐って伊庭道場の子じゃねーの?」

「え~~。言ってませんでしたぁ?」

「何だ平助、知らなかったのか?」

「つーか、何で左之さん知ってんのさ」

 開けっ広げの部屋には腹を出した原田、目が据わり顔が赤くなった永倉、藤堂、そして居住まい正しく座ってはいるがいつもと雰囲気の異なる鐐がいた。


「おっ、総司! お前丁度いいとこにきたぜ。ちょっとこっちに来いよ」

 総司に気付いた原田が、見覚えのある酒瓶片手に肩を組み部屋へ入るよう促してきた。

「そぉじ~~。聞いてください。永倉さんが私の事、年増の行き遅れなんていうんですよぉ」

「いやいや、そぉは言ってないぜぇ」

「よっ、御両人!」

 酒の匂いに満たされた部屋に散らばった盃。年について言い合う永倉と鐐。訳の分からない合いの手を打つ藤堂。明らかに皆、酔っている。

「左之さん。そのお酒、どうしたんですか?」

「おぉ、これか? これは新八が持ってきたんだ」

 試衛館に戻った後、酒瓶は炊事場の土間に置いた筈であった。

「炊事場に置いてあった酒瓶ですよね? 新八さん」

「へ? 俺か? いやいや俺じゃねぇぞ。平助だ」

「はぁ、俺じゃねぇよ。左之さんじゃねぇの?」

 迂闊であった。剣の腕前は兎も角、食べることに意地汚いこの者達の目の届く所に置いてしまった自分を責める。

 それにしてもなぜここに鐐までいるのか。これまで酒を飲んでいるところなど見たことがない。三人に酒と知らされず飲まされたのか。沸々と怒りが込み上がってきた総司は表情を硬くしたまま、静かに冷えた声を出した。

「冷飯喰(ひやめしくい)の集まりが、お酒とはいい御身分ですね」

「……いい御身分。身分……。いやぁ、御落胤っていっても、そぉんなにいい身分じゃねぇんだよなぁ」

「ははっ、残念だったな平助。大身の甘い汁を吸うことが出来なくてよぉ」

 藤堂と永倉の戯言に、こめかみの静脈が怒張する。

「えぇ、僕の手落ちなんです。あんな分かりやすいところに置いてしまった僕の。でもまさか勝手に飲むだなんて」

 総司は殺気を露わにした。

 普段は冗談ばかり言う陽気な総司も、稽古の時は人が変わったように冷徹になる。道場で対峙する時のような威圧感を三人に向けた。

「「「…………!?」」」

「えーっと、総司君。少しばかりご機嫌が悪いようですが……」

「……何か気に障る事でもあったのかなぁ~?」

 剣術を嗜むものなら流石に殺気には敏感になる。

 手を揉みながら胡麻擂りをしてくる永倉と原田に、追い込まれた鼠のように小さくなっている藤堂。みな総司の怒気に気付き、酔いも醒めたようだ。

 気圧される三人と、一体どういうやってこの者達を懲らしめてやろうかと思いあぐねる総司。

 熱気がこもっていた部屋は張り詰めた空気におおわれた。

 と、その時。その空気感を一転するように鐐がおもむろに立ち上がり、総司に向かって距離を詰めてきた。

 ふらふらと覚束無(おぼつかな)い足取りに、図らずも、しな垂れかかってきた鐐を総司は抱きとめる。

「「「おっ!」」」

「いやぁ、熱いねぇ。お二人さん」

 再び酔いが回ったようにニヤニヤする三人。

 厭らしい笑みで冷やかす原田に居た堪れず、総司は鐐を引き剝がそうとした。すると、鐐は総司にしか聞こえないようなか細い声で囁(ささや)いた。

「ねぇ、そぉじ。私、好きかもしれない……」

 総司の胸はドキリと音を立てた。一瞬飛んだであろう脈がトクトクトクと速くなり、先ほどまでの怒りも消え失せる。

 言葉も失い立ち尽くす総司に鐐は「……このお酒」と、続けた。

「…………」

「あぁ、こりゃ駄目だな。ちと飲ませ過ぎた。総司、部屋まで運んでやってくれ」

 上手い具合に総司の怒りを逸らすことが出来る、と顔に書いてあるような永倉であったが、感情の変化に対応しきれず固まっていた総司は「ふぅ」と溜息を漏らし、言われたまま鐐の腕を自分の肩に回し部屋を出た。

「ほら、行くよ」

「…………」

 途中で動かなくなった鐐を背負って部屋まで運ぶ。

「まったく。人の気も知らず暢気に寝ちゃって」

 布団を敷く為に鐐を部屋の隅に凭れさせると、スヤスヤと無防備に寝る姿に再び溜息が漏れた。

「ん……」

 寝ぼけた鐐がずるずると倒れていき、そのまま横になる。

 少しばかり欠けた十六夜月が、やや開いた小袖の合わせと、紅潮した頬、半ば開いた口を照らし出す。

「…………」

 煽情的な姿に総司は思わずその唇に触れようと手を伸ばした。理性の欠片が躊躇いながらもそっと頬を片手で覆う。吸い込まれるように顔を近づけると、その惹きつけられた唇がゆっくりと動いた。

「はは、うえ……」

「…………ふぅ」

 三度目の溜息は、心に甘いもやもやを残したまま夏の短い夜に消えていった。



翌日の昼過ぎ。

 鐐は山口の後を付け回していた。

「そもそも貰い物なのだ。そんなに気にしなくてもいいのだが」

「そういうわけにはいきません。山口さんのお酒を飲んでしまったお詫びをしなくては、私の気が収まりません」

 今朝、鐐は山口が道場に来ると昨夜の失態を正直に話した。

「そうか」と一言、意に介さない反応の山口は、土方のように鬼の如く怒ることも、総司のようにねちねちと嫌味を言うこともない。あまり感情を表に出すことのない山口は、分かりずらいが本当に気にしていない様子であった。

 しかしそれでよし、とはならない根が真面目な鐐。申し訳なさに居た堪れず、何とかお詫びが出来ないかと山口の帰りを追いかけていた。

「それをいうなら新八さん達の方が質(たち)が悪いよね。本来なら詫びを入れるのはあの三人なのに」

 当たり前に付き添う総司が言う。

「それでしたら皆さんには道場にある防具を全て外に出して、掃除と手入れをして頂きましたし、今は鳥の糞を集めに行ってもらっているではありませんか」

 この時代、鶯(うぐいす)などの小鳥の糞は、美顔料や薬として売られている。それを商売としている者に売るため、三人には小遣い稼ぎに出てもらっていた。

 勿論彼等は進んで行ったという訳ではなく、今朝の稽古で鬼神と化した総司の無言の圧力に負けたというのが本当のところだ。

「だったらもういいんじゃない? 一君だって気にしてないんだし」

「でも……」

 心苦しくも総司が言うように山口が気にしていないのなら、これ以上は自分の気持ちの押し付けになる。鐐はしょんぼりと視線を落とした。

「それでは今度稽古する時はあんたに相手になってもらおう。俺と同じで居合が得意なあんたなら良い組合相手となるだろう」

 鐐の心を汲んだのか山口が稽古の誘いを申し出た。ハッと顔を上げ「喜んで!」と応える鐐は山口と稽古の約束をする。

 普段は無愛想な山口も、鐐の嬉しそうな顔につられたのか軽く笑みをこぼしていた。

 しかしそれは一瞬にして様変わりした。

 先ほどの笑みが見間違いだったのかと思うほど、山口はただならない気配を漂わせた。

「総司。鐐を連れて早々に帰ってくれ」

 唐突に語尾を強くして山口が言う。

「……分かった」

「え? ちょっと何?」

 朗らかな雰囲気が打って変わって、総司までもが真顔で鐐の腕をとり踵(きびす)を返す。

「ちょっと総司! 何なの突然に?」

「気が利かないなぁ。逢引だよ。一君にだって僕たちに見られたくない逢瀬っていうものがあるんだよ」

 いつもの陽気な具合に戻った総司がニコニコと笑顔で言う。

「……そっか。なら仕方がないね」

「そういうこと。じゃあ、僕はお団子屋にでも寄って帰るから、鐐は先に帰っててよ」

 団子屋に行くと言う総司。

 何故一人で行くのか。普段なら無理やりにでも一緒に行こうとするはずなのに。

 総司の怪しい言動と、様子のおかしかった山口。鐐は二人が、本当はこの場から自分を遠ざけたいだけなのだと、すぐに気が付いた。

 しかし、このまま押し問答を繰り返していても、恐らく総司は口を割らない。

「うん、分かった。じゃあ気を付けてね」

 鐐は素直に聞き入れ、帰るふりをした。

 数歩進んだところで近くの暖簾に身を隠し総司の様子を伺う。

 案の定、総司は団子屋に行く様子などなく、そそくさ山口と別れたところへ戻って行った。


 山口を追う総司を追って来た河川敷。

 山口は旗本らしき侍と対峙していた。

「随分と色気のない人との逢瀬なのですね」

 長く伸びた草むらに身を隠す総司に同じく身を低くした鐐が話しかける。

「あれ、来たの? 撒(ま)いたつもりだったんだけどな」

「間者には私の方が向いているようですね。で、あれは誰なんですか?」

「うーん、一君のことが大好きな侍かな?」

「平侍(ひらざむらい)が出過ぎた真似をしおって! 無礼討ちにしてやる」

 身分を誇示し、侍が抜き身の刀をちらつかせ山口を威嚇している。

「どう見ても決闘ですよね?」

「怖いよねぇ。好き過ぎて逆恨みとか」

「……。逆恨みなんですね。いいんですか? 助太刀しなくて」

「まぁ、一君なら大丈夫でしょ。相手もお飾り刀の対した腕じゃなさそうだし」

 そうこう話しているうち、あっという間に峰内で叩かれたのであろう侍は地面に倒れ込んだ。

「あんたらは、いつまでそこにいるつもりなんだ?」

 刀を鞘に仕舞う山口が声をかける。

「やっぱりバレてました」

 総司が草むらから顔を出し山口の方へ歩み寄ったので鐐もそれに続いた。

「どうしたんですかこの侍? 無礼討ちだとか叫んでいましたが?」

「ほらぁ、だから斬っちゃった方が良いって言ったのに」

「そんな冗談は言うなと前にも言ったはずだが? そもそも無礼討ちとは余程の理由がない限り許される特権ではない。万一、人を斬ってしまえば、奉行所にはその正当性を証明する証人が必要だ。それに返り討ちなどと不名誉な事態は武士の体裁(ていさい)に関わる。これでもうこの侍は関わっては来ないだろう」

「甘いなぁ一君は。こうやって身分をひけらかす輩(やから)は、その立場を利用して何とでも悪いようにするんだから」

「成程。道義を知らない侍なのですね。それでしたらこのまま放っておいてもよさそうですね」

 侍は白目を剥いて伸びていた。

「それにしても、こんな侍が大小二本差しなんて情けない武士が増えたもんだね」

 武士は本差しの打刀と予備の脇差(わきざし)を帯刀することが義務付けされており、長さの違う二振りの刀を差すことから大小二本差しと言われている。

「それだけ武力が弱体化しているということだ。江戸にはいくつもの道場が存在するが、真に剣術を極めて精進している道場は限られている。そういえば、あんたは伊庭道場の息女(そくじょ)であったな」

「いえ、私は何と言いますか……。その、家譜(かふ)にも載っていませんし……」

 鐐は伊庭道場に預けられ幼少期を過ごしたので武家の出となるのだが、正式に伊庭家の家譜に記録されているわけではない。また女であることや、その曖昧な立場から刀は脇差だけを差していた。

「一君って時々嫌な事言うんだよねぇ」

「嫌なことを言ったつもりはないが?」

「あぁ、違うんです……。……私は、伊庭家に預けられていただけで本当の親を知らないのです。それに、私は生まれてすぐ……夭折したことになっています。本当は存在していない私は、剣の稽古をすることでしか存在理由を見つけられず、それで男の格好をしています。今は、親のことや出生について、自分が何者であるのかを探しているのですが、なかなか手掛かりがなくて……」

「……そうであったか」 

 これまであまり自分のことを人に話さなかった鐐。

 総司以外に自分から話したのは初めてだった。

 他言してはならないという言い付けや、いつも誰かに遠慮していた幼子の頃は人と話すことが苦手であった。

 その所為(せい)か今でも時々、頭の中でよく考えてから話すので言葉になるまでが遅いことがある。

 寡黙な山口とは似た者同士だ。もし二人だけであったら会話が成り立たなかったかもしれない。

 しかし軽快にぽんぽんと口が回る総司がいるお陰で、気の置けない仲間としての心地よさが生まれていた。

 鐐は仲間の存在の有難みを感じていた。

 誰かに自分の憂いを聞いてもらうと、心が少し軽くなる。こうしてずっと、仲間と一緒に過ごしていけたらと思った。

 常(とこ)しえというものが存在しないことを知りつつも。

「うむむ。忌まわしい、なぜこのような事に!」

 気絶していた侍が意識を取り戻した。刀を支えにふらつきながらも身を起こしている。

「あれ。起きちゃった。意外と頑丈なんだね」

「おのれぇ。この平侍がぁ!」

「ご心配無用です。刀で敗れたという貴殿にとって不面目な様態は口外しませんゆえ」

 侍は顔を真っ赤にして憤怒(ふんぬ)している。

 山口の声など聞いていない様子で、目には暗晦(あんかい)の焔を灯していた。

 その眼(まなこ)がこちらを捉える。

 鐐は身体が竦(すく)んだ。

ーーこの気配を知っている。以前に熱にうなされ見た夢と同じだ。自分の命を狙う憎悪の念。真っ黒でどこまでも沈んでいくような迷いの闇。怨みや僻(ひが)みで、胃の腑が焼かれた者が放つ暗黒の業火(ごうか)。この侍は修羅に堕ちている。

「罷(まか)り成(な)らぬ!」

「鐐!!」

 逆上し振り上げられた刀が鐐に向かってきた。

ーー母上。

 斬られる。と、目を瞑った鐐は母を想った。夢の中の母の温もりを。

 そして、母とは異なる逞しい温もりに包まれた。

「ぐわっ」

 侍がうめき声を上げた。

 延々と感じた時は刹那的であった。

 鐐は総司に守られていた。少し震える大きな温もりの隙間からは、どさりと倒れる侍が見えた。

 そして、その隣で山口の刀は血に濡れていた。

 己を蝕むほどの憎悪の念から解き放たれた肉塊は、ピクピクと痙攣し土を真っ赤に染めていく。

 あの律動は肉体を動かす組織の収縮なのだろうか。冷静に俯瞰する鐐の精神は現実と距離を置いていた。

「早く! 逃げるよ!」

 荒らげる総司の声で目の前に意識が戻る。

「ぶ、奉行所に……」

「鐐! 君は身分というものを気にしたことがないだろうけど、相手は旗本なんだ。さっきも言っただろう。例えこっちに非がなくとも分が悪いんだ」

「あいつは武士ではない。武士であれば脇差しか差していない鐐を狙うことはしない……」

 山口の精神もまたここにあらずか。力なく刀を握り、その切先から滴り落ちる血溜まりを見つめている。

「一君! いいから早く!」


 どうしてこうなったのか。

 ただ目の前の道を真っ直ぐ歩いていても、時に人は行きたい方向とは違った方向に進まなければならない事がある。自分ではどうしようもない、その流れに抗うことは難しい。

 本当はその流れに沿って歩くのが平穏で仕合わせなのだ。

 だがそれは、その道を己の意思で進む者だけが得られる喜び。

 何も分からないまま、他者が決めた道に身を委ねることではない。

 なぜこの道を歩んでいるのか、その先に何があるのか。流れに抗うことになろうとも、鐐はその根源を知りたいと歩いている。

 必然的な巡り合わせの中で。

「俺は京へ行く。父の知人が道場を営んでいる。そこに身を隠すことになった」

 山口は住んでいた長屋で旅支度を直ちに済ませた。

「山口さん、その、私を庇ったばかりに……」

「鐐の所為じゃないんじゃない」

 それ以上言うなと言わんばかりに総司が水を差す。

「あぁ。それにあんたを庇ったのは総司だ」

 ふいっと視線を逸らした総司の横で、山口は言葉を続けた。

「しかし、それでもまだ己に非があると思うのなら、あんたも打刀を差すことだ。大小二本が武士の基本だからな」

「私はーー」

「ーー俺はあんたを武士だと認識している。自分の成し遂げたいもののために、魂を賭してそれに向き合う。義を心得、剣術と共に己の精神をも錬磨する姿。俺が見てきたあんたは武士である姿だと思っている。恥じる事はないだろう」

「山口さん……」

「良かったね、鐐。一君に男と認められたんだ」

「……。その言い方。何か嬉しくない」

 こうして山口は京へと旅立った。


 数日後ーー。

「最近山口の奴来ねぇな」

「きっと土方さんに愛想尽かせたんでしょう」

「何だとーー」

 稽古が終わった後、何気なく話す土方にいつもと変わらぬ様子の総司。

 鐐と総司はあれ以来、山口の事に関して口を閉ざしていた。

ーーあんたらとはまた会える気がしている。それに鐐には、稽古の約束を果たしてもらわんとならんからな。その時は武士としてのあんたと、手合わせ願いたい。

 別れ際の山口の言葉を思い出す。

 人としての道、尊ぶべき徳を説いていた厳格な伊庭の父、秀業に育てられた鐐は、仁義礼智の五常や武士道を重んじる山口に似たものを感じていた。

 京へ行った事は道義に悖(もと)る行為ではない。善と悪が必ずしも正しく裁かれるわけではないのだ。不条理に追い詰められ、この世の無常をも達観していた山口は全てを受け入れ出立(しゅったつ)した。

 そんな山口が自分を武士だと認めてくれた。まるで父に褒められたような嬉しさであった。

 鐐はある決意を新たにした。

「土方さん、少しお付き合い願えませんか?」

「あ?」

 

ーーーーーー。

 町の女子はこうも積極的なのかと関心を持つ。

 江戸には諸藩から赴任してくる侍がいる為、女よりも男の方が圧倒的に多い。また伊庭道場や試衛館で暮らす鐐は同性との接点があまりなかった。

 家柄で婚儀が決まる武家の女子とは違い、町の女子の恋慕事情は比較的自由なものなのだろう。

「歳三さんじゃないの!」

 これで五回目だ。茶屋の看板娘が土方を見かけて声をかけるのはーー。

 鐐は打刀を帯刀することを決心した。

 伊庭家で受け取った太刀を磨り上げる為、研ぎ師を紹介してもらおうと土方に相談し付き添いを願い出た。

 しかし見てくれだけは役者のように整っている土方。先ほどからこうして声をかけられ立ち止まり、なかなか目的地へ到達できない状況である。

 薬の行商をしていた土方なら町の商人や職人にも通じていると思っていたのだが、主に通じているのは看板娘のいる茶屋であるようだ。

 総司と言い合う普段の内面(うちづら)を封じ、よそ行きの顔で「また今度な」と娘をあしらう所作はある意味役者で間違いない。

 少し離れた所で鐐は男前の演技を観察していた。

「わりぃな」

「日が暮れたら土方さんの所為ですからね」

「偉そうじゃねぇか。鐐に付き添いを頼まれたのは俺だ。お前は勝手に付いてきたんだろうが」

「そうでしたぁ?」

 一緒に待っていた総司を前に、土方は素の状態に戻っている。

 そうしてようやく研ぎ師の元を訪れた鐐。早速刀を差し出し依頼する。

「この太刀を打刀に磨り上げて頂きたいのですが」

 しかし、そう言った鐐から受け取った刀を見た研ぎ師は一瞬驚いた表情を見せた後、不審な目を向けてきた。

「……お侍さん、この刀の出所をお伺いしても?」

ーーしまった!

 迂闊であった。この刀は菊一文字則宗だ。

 いかにも一介の町道場から来た庶民という身なりの自分達では、普通手に出来る代物ではない。譲り受けた物などと言えばますます怪しまれるかもしれない。

「…………」

 返答に困り口を噤(つぐ)んだ鐐。

 その様子を見た研ぎ師は鐐を曰物(いわくもの)だと思ったのであろう。

「悪うございますが、厄介ごとに巻き込まれたくはありませんのでーー」

 お引き取りを、と研ぎ師が断りを入れようとした時、

「ーーその方の身元は私が保証しますよ。珍しいところで会いましたね鐐」

「兄上!」

 天からの助け舟であった。

「おぉ、これは、これは。八郎坊様ではありませんか。いやいや、坊様なんて呼び方は失礼でしたな。ご立派になられて。お父上がご健在でしたら、さぞご自慢でしたでしょうに」

「いえ、私などまだまだで御座います」

 研ぎ師と八郎は顔見知りのようであった。伊庭の父の事も、幼子の頃の八郎の事も知っているようで昔話に花を咲かせている。

 この頃八郎は大番士(おおばんし)に登用されていた。

 大番士とは江戸城や江戸市中の警備などを行う役職である。幕府の五番方に数えられる番士の一つであり、旗本たちの常備兵力を組織していた。

 剣術を始めてから一気に開花した八郎の才能は、幕府に認められるまでとなっている。謙虚である心持ちも変わらず本当に立派な自慢の兄だ。

「八郎様の身内の方とは知らずご無礼を。伊庭道場の皆様には秀業様の代から御贔屓にして頂いております。いやいや、これほどまでに見事な太刀は見たことがありません。流石で御座いますな!」

 何とかあらぬ疑いをかけられずに済み、無事に磨り上げしてもらえることとなった。


「初めから兄上に付き添いをお願いすれば良かったです」

「何でい! 最初に研ぎ師を紹介してやったのは俺じゃねぇか」

「えぇ、場所は教えて頂きましたよ。でも『研ぎ師はそこだ』は紹介にはなっていませんからね」

「結局土方さんは何の役にも立っていませんよね?」

「大丈夫ですよ総司。土方さんにはこれから役に立って頂きましょう。茶屋の看板娘にはお顔が広いようですから」

「それは妙案です!」

「ちっ、好き放題言いやがって。おい八郎、お前も来るだろ?」

「……そうですね。では、ご一緒させて頂きます」

「?」

 二つ返事で一緒に来るだろうと八郎を見ていた鐐は、視線がぶつかった時、何かを言いたそうな少し悩んだ面持ちが気になった。

 茶屋に行くと頼んだ甘味の他におまけが付く。総司と行く時も、八郎と行く時も、そういったことは日常茶飯事であった。鐐を本当に男だと勘違いしてくる娘も多かった。そして今回は自他共に認める色男、土方が加わったのだ。折敷(おしき)の上の甘味は山のようになっていた。

「ははっ! どうだ総司! この甘味の量」

「えぇ、沢山食べられて良かったです。それにしても、ここは給仕する娘が多いみたいですね」

「おっ、珍しいじゃねぇか。お前が女子に興味を持つなんて」

「誰も興味を持ったなんて言っていません。人数が多ければそれだけ当たる可能性も上がると言っているんです」

「何が言いたい?」

「土方さんが本当に役に立っているのかということですよ。まぁ少しは役には立っているようですが、本性を知らない娘さんや特に色香のある女性には受けが良いみたいですしーーって何するんですか!?」

 甘味に手を伸ばした総司を遮って土方が折敷を取り上げた。

「誰もお前に全部やるとは言ってねぇ」

「どうせ土方さんはあんまり甘味を食べないじゃないですか!」

「土産にするんだよ!」

 総司と土方の見慣れた日常を平和だと鐐が眺めていると、八郎がこの隙を待っていたかのように耳打ちをしてきた。

「鐐。お話しがあります。小太郎殿から明楽茂正殿について情報がありました」

「!!」

 言い合う総司と土方から距離をとり、二人は店先に移動した。

「……茂正殿は普請奉行(ふしんぶぎょう)の役に就いていたそうです」

 大番士の八郎の役高が二百石に対し、普請奉行の役高は二千石だという。

「やはり上位の旗本のお方であったのですね。それで茂正殿は今どこに?」

「残念ながら、彼はもう……」

 茂正は既に嘉永六年(一八五三年)に死去していた。そして本山は茂正の死後、家督を継いだのが明楽八五郎という者であると情報を得ていた。

「八五郎殿は小十人頭として城に出仕していたそうです。鐐について茂正殿から何か聞いているかもしれませんが、しかし彼は三年程前、病気で療養のため京へ上洛したそうです」

「京ですか……」

 鐐の歩く道に少しずつ風が吹き始める。

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