ー第一章ー

通いの門弟には、女であることを伝えられていない鐐は、あまり口を利かなかった。

 宗次郎も必要以上に近づくことはなく、また周りは武家の子という理由から距離を置いていた。

 一部の門弟達は陰口を叩き、雑用を言いつけ小姓扱いしたり、嫌がらせをしていて、鐐は無表情でそれを受け流していた。

 ある日、宗次郎はいつものように数人の門弟達が、鐐を取り囲んでいる所に出くわした。

「何だよお前、ひょろっとして弱そうな身体して」

「こいつ練武館から来たやつだろ?」

「大きい道場って言っても、こんなやつが息子じゃ大したことないんじゃないか?」

「偽物の子だろ。うちの母ちゃんが言ってたぜ、練武館の嫡男は八郎(はちろう)って名前だって」

「偽物だから追い出されたんだ」

「何とか言ったらどうなんだよ、腰抜け。腕前見せてみろよ」

 門弟達が様々に罵詈雑言浴びせている。弱い奴程よく吠えるというがまさにそれだ。

 宗次郎はこの日も我関せずと身を翻そうとした。

 しかし――。

「……ち、父上の練武館は心形刀流(しんぎょうとうりゅう)。心のあり方も重んじております。あなた方のような無礼者とは太刀を交える価値もありません!」

「なっ! なんだ。生意気なやつめ!」

 珍しく鐐は反論し、力強い瞳で門弟達を見据えていた。その瞳には克己心の様なものが感じられる。

 門弟たちが顔を真っ赤にして、憤然と詰め寄っている光景を見て面白くなった宗次郎は、ついつい声を掛けた。

「お暇でしたら僕がお相手しましょうか?」

「お、沖田。なんだよお前。邪魔するのか」

「邪魔なんてとんでもない。皆さんのお相手が、来たばかりのこんな子しかいないみたいなので、僕が代わってあげようかと思いまして」

「お、俺、先生に掃除をするように言われてたんだった」

「俺も」

 門弟達が散り散りに去って行く。

 流石に指南役に試合で勝った宗次郎とやり合う気はないらしい。

「――ありがとうございました。沖田さん」

 困ったように微笑み、丁寧な所作で礼を言った鐐に、宗次郎は何となく惹きつけられ居心地が悪くなった。

「別に……君の為じゃない。僕も打ち合いの相手が欲しかっただけだよ。それより君、あんなこと言って、あれじゃまた難癖つけてくるんじゃない? 黙ってほっておけばよかったのに」

「……そう、ですね」

 伏し目がちに答え、そのまま口を噤んでしまった姿は、何か言いたいことを我慢しているようだった。

 今でこそ無遠慮に物を言う宗次郎であったが、自身も試衛館に来たばかりの頃は何も言えなかった。鐐の反応が少し前までの自分を見ているみたいで、じれったい宗次郎は稽古に誘ってみることにした。

「ねぇ、後で道場に来てよ。あんな風に言い返したんだ、少しぐらい腕に自信があるんだよね?」


 昼八つ刻(午後二時)、勝太立会いのもと試合稽古が行われた。

「この道場では木刀での稽古が基本なんだが、練武館では竹刀での打ち込み稽古が主流だったね。今回は竹刀を使おう」

 勝太に竹刀を渡され、宗次郎は鐐と向き合う。

「では、始め」

 正眼の構えをとる鐐に対して、宗次郎は下段の構えをとった。

 宗次郎はこの構えが得意だった。相手の攻撃に対処し易く、そのまま自身の攻撃に転じ易いからだ。そして何より動きが読みやすい。

 鐐は間合いを詰め、真っ直ぐ面に向かって竹刀を振り下ろしてきた。

 思った通りの攻撃に、宗次郎はさっとその太刀筋を避け自身の竹刀を振り上げた。

 相手の面に打込めばそれで終わり。いつもの稽古ならそうだった。

 しかし宗次郎の一太刀はぎりぎり避けられ、更に先ほど振り下ろされた竹刀が、こちらの手元に向かって伸びて来た。思ってた以上に速い返しだった。

 宗次郎の口角が上がる。

 普段、力の差があり過ぎる門弟達との稽古に退屈していたのだ。

 腹の底から湧き上がる期待感に感情の昂りを覚えた。

 久しぶりの手ごたえに、竹刀を持つ手を強く握り締める。

 数回の攻防が繰り返され、追随を許さない宗次郎の攻撃が、鐐の胴に当たった時には二人の息は上がっていた。

「一本!」

「凄いじゃないか鐐! 宗次郎にこれだけ付いてくるとは! 伊庭先生直々にに指南してもらったのかい?」

「あっ、はい。物心ついた時から、道場にいましたから……」

「そぉか。これからどんどん鍛えるといい。いやぁ楽しみだーー」

 勝太が鐐を称賛しているのを見て宗次郎も高揚感でいっぱいだった。

 強くなる。そう確信して、強い相手と戦うことに胸が高鳴っていたのであった。

 

 鐐が試衛館に来てひと月。試合をして以来、宗次郎は毎日鐐を昼からの稽古に誘っていた。

 以前は昼を過ぎても掃除や洗濯をしていた鐐だったが、最近はすんなりと終わっているようだ。

 というのも、原因であった門弟達の嫌がらせに気付いた宗次郎は、朝稽古で完膚なきまで叩きのめしており、満身創痍の彼等は、鐐の仕事の邪魔をすることなく帰って行くようになったからだ。

 この日もふらふらになった門弟達を送り出し、昼餉の後、西の空が赤に染まる頃まで宗次郎は鐐と手合わせをしていた。

「ねぇ、最後にちょっと竹刀で打ち合いに付き合ってよ」

「竹刀でいいんですか?」

「うーん。ここでは実戦的な剣術を学ぶ為に木刀を使ってるから、僕は木刀でもいいんだけどね。突き技の練習をしたいんだ。もし木刀で、僕の突きが君に当たっちゃったら死んじゃうかもしれないけど、それでもいい?」

「……竹刀でお願いします」

 宗次郎はよく冗談を言っていた。冗談は自分の本音や弱さを隠してくれる。

 事実、試衛館では常に実戦を意識した稽古を行っていた。

 刀は竹刀よりも重いので、軽い竹刀に慣れてしまわぬように木刀を。また型の稽古のようにはいかない千差万別な敵の動きを想定し、直ぐ反応出来るように試合稽古を重視している。

 正確な情報と共に付随させる軽口は、他人に心の内を見せない宗次郎の巧みな話術であった。

「この突き技なんだけどね。確実に急所を狙って、一発で仕留められたらいいけどさ。もし敵にかわされた場合、その後どしても、無防備に体を晒し出してしまう死に体(しにたい)になっちゃうんだよね。突き技、好きなんだけどなぁ」

「心形刀流にも突き技はありますよ。突きを連続して繰り出すという技でしてーー」

「成程。連続技かぁ、それ詳しく教えてくれない?」

 同じ道場で切磋琢磨する朋輩(ほうばい)に宗次郎は少しずつ心を解していった。

 

 夏至が過ぎ、まだまだ日の出の早い明け六つ(午前六時頃)。

 目覚めた宗次郎が着物を整えていると、隣の部屋の襖が開く音がする。

 いつも同じ頃合いで鐐が起きてくるのだ。

 後を追うように、こちらも襖を開け共に朝餉の準備へと向うのが日常になっていた。

 鐐は必要以上に喋る事はなく、愛想も小想もあまりなかったが、宗次郎にとってはそれぐらいが丁度良かった。

 無駄にあれこれ気を遣わずに済み、稽古の相手としては申し分ない存在であったからだ。

 この日も朝稽古で軽く汗を流した後、片隅で伸びている門弟達を尻目に、時間を持て余している宗次郎は洗濯をしているであろう鐐の所へ向かった。

 洗濯をさっさと終わらせて、早く道場に来てもらおうと思ったのだ。

 しかし庭に行くと洗濯は既に干されており、そこに鐐の姿はなかった。

 宗次郎は汗を拭いた手ぬぐい片手に炊事場、井戸場をうろうろする。

 何処に行ったんだと、自室へ向かったところ、漸く縁台に座り書物を読んでいる鐐を発見した。

 近づいてみると、『解體新書(かいたいしんしょ)』『蘭東事始(らんとうことはじめ)』傍らには何やら難しそうな書物が置いてある。

 宗次郎はこちらに気付かない鐐の後ろに回り、手元にある書物を覗き込み朗読してみた。

「切り傷の手当てについて、打ち身の手当てについて、発熱患者の手当てについてーー」

「ーーあっ、沖田さん」

 真剣に読み耽(ふけ)っていたのだろう、慌てて鐐は振り返った。

「君、医者にでもなる気?」

「いえ、違いますよ。ただ医学書を読むのが好きで……」

「粋狂だね。女の子が書物を読むといったら、草双紙(くさぞうし)や人情本だと思っていたけど」

「……兄上の影響なんです。兄上は漢学や蘭学を学んでいて、それで私も蘭学の中にあった医学に興味を持つようになったんです……この書物は、先日父上が来てくれた時、兄上から預かったと言っていました」

 鐐の父は試衛館に預けた後も度々様子を見に来ている。

 内弟子として預けられている鐐だったが、彼女の父も道場の師範だ。

 何故わざわざこんな田舎の町道場へ預けたのか。

 珍しく身の上話をしたので、初めて会った時の疑問が再び思い起こされた。

 父に言われてここに来たと言っていた鐐。宗次郎は何だか無性に知りたくなった。

「ねぇ、君の父上ってどんな人?」

「父上ですか? えーっと、伊庭秀業、練武館の八代目でーー」

「ーーそれは知ってるよ。そうじゃなくて父上ってどういう存在なの。どうして君をここに連れてきたのさ?」

 そう言った刹那、鐐の瞳は愁いを帯び、少し戸惑っているような表情で、ぽつりぽつりと話し始めた。

「……前に私は、偽物の子だと言われましたが、あれは……本当なんです。私は伊庭秀業の子どもではありません。……ある旗本より預けられた子だと聞いています。本当の親が誰なのかは分かりませんし、父上という存在も、よくわかりません。でも、伊庭家の父上にはとても熱心に剣術の指南を頂きました。……ある日、突然ここに入るように言われるまでは……。私は、私の事がよくわからないのです」

 視線を落とし、無理に微笑んでいる鐐があまりにも切なく映り、宗次郎はそれ以上何も言えなくなってしまった。


 相手を威圧し、抑制するような掛け声と共に竹刀の打込む音、道場を踏み込む音が木霊する。

 面具や竹具足を付けた男達が、集中力を高め士気高揚させているのだ。

 鐐は道場の中が見える、矢竹が植えられた庭の隅で稽古を見るのが好きだった。

 四歳の頃に伊庭家に来た鐐は、自分がこの家の者でないことを理解はしていたが、ここに来た理由や、それ以前のことは何も聞かされてはおらず、それまでの記憶も殆どなかった。

 伊庭家には、八代目秀業を筆頭に、妻のマキ、その実子達、養子となった九代目秀俊(ひでとし)とその妻子、それ以外にも、秀業の姉、また秀業の甥にあたる者達、これらが同居し大所帯であった。

 物心が付いた頃、マキに「十分な金子(きんす)を貰ったので仕方なしに置いている」と言われて以来、聾桟敷(つんぼさじき)に置かれたような立場の鐐は、幼いながらに遠慮することを覚えた。

 そんな預かりの身で負い目を感じる鐐が、唯一気兼ねなく話せるのが秀業の嫡男、八郎だった。

 八郎とは道場の庭でよく遊んだ。

 洗濯に使われていた木桶の箍(たが)が外れているのを見つけた時は、その大きな輪を棒切れで転がしたり、ぼろぼろになった箒を見つけた時は、その箒の柄で斬り合いの真似事をしたり、同い年ではあったが、鐐はいつも優しく寄り添う八郎を兄上と呼び親しんだ。

 マキにはよく、「女子(おなご)がそんな真似をして、はしたない」と叱責されることがあったので、屋敷の隣にある道場の庭で遊ぶのが日常だったのだが、隠れるように八郎と過ごすこの庭は居場所のない鐐の心の拠り所となった。

 数年後、八郎は学問所に通い始め、鐐も琴や三味線、舞踊などの手習い所へ通うことになった。

 江戸では武家の娘だけではなく、裕福な農家や商家の娘達も躍起になって習い事をする。

 良い家柄の、少しでも禄(ろく)の多い家に嫁ぐ為だ。

 云わば、お武家様の御眼鏡に適うよう、教養を身に付けるのが一般的なのだが、鐐はそういった類のものはどうにも好きにはなれなかった。

 八郎と過ごす時間が減り、芸事の稽古に気乗りしない鐐は度々道場の庭に来ては、剣術稽古をする男達に羨望の眼差しを向け、自分も男に産まれればよかったのに、と独り言ちていた。

「今日は三味線の稽古に行かなかったそうだな、従者が鐐を探しておったぞ」

 五年前に家督を九代目に譲り、既に隠居の身となった秀業が同じように道場を眺めながら声をかけてきた。

 旗本、御家人たちの華美奢侈(かびしゃし)を排した古風な厳格さを持つ姿は隠居したとはいえ、まだまだ健在だ。

「ごめんなさい……」

「……剣術の稽古に興味があるのか?」

「いえ、私は行儀作法の他、書道、歌道、または芸事を習うのが女子と母上から言われていますので……」

「なに、女子でも北辰一刀流、桶町千葉道場の定吉(さだきち)殿の娘は小太刀が得意と聞く」

 咎められる、と身を縮め謝罪する鐐にかけられた言葉は意外なものだった。

 予想外の秀業の言葉に期待のこもった本音が漏れる。

「女子でも剣を振ることが出来るのですか!?」

「別式女(べっしきめ)と言ってな、諸藩の奥向きで武芸指南をしている女子もいる。武家の女子はいざという時は、自らの身を守れるようになった方が良いでな」

「私は……」

 武家の子なのですか? と言う言葉を飲み込む鐐に秀業が呟いた。

「……明楽茂正(あけらもせい)」

「え?」

「鐐を私に預けた旗本の名前だ。茂正殿もまたある大身のお方から預かったと聞いている。……そこでは、鐐は生まれて直ぐに、夭折したことになっているんだ。夭折したとされている鐐は、生きている事が知られてはいけない存在故にここに来た。鐐が剣術を学ぶ必要があるのは確かだ」

 地に足が付いていない感覚に陥った。足元から真っ暗な闇に飲み込まれたようだった。

 この話は他言してはいけない、と続けた秀業に虚ろなまま相槌を打つ。

 鐐の剣術稽古はこの日を境に始まった。

 大身のお方と言われても、本当の父や母を見たことも感じたこともなければ、何の実感も湧かない。

 自分は夭折したことになっている。この世に自分の存在はない。誰も存在を認めてはくれないのだ。自分の身は自分で守らなくてはならない。

 鐐は秀業から学ぶ剣術に夢中になった。

 稽古に打ち込んでいる間は、孤独感を抱かずに済んだから。

 五年後。事情が変わり、命が狙われるかもしれない、と身の安全を守る為、暫く町の道場に入るよう言われた時は、剣術の稽古が続けられるのが救いであった。

 そうすることでしか、自分が存在して良い理由を見つけられなかったからーー。


 宗次郎との稽古は鐐の心の隙間を埋めていった。

 秀業との稽古は孤独感を紛らわせることは出来たが、自分の為に秀業が時間を割けば割くほど、申し訳なさや、マキへの後ろめたさが常に付き纏っていた。

 しかし宗次郎とは対等でいられたのだ。同じ内弟子として、与えられるだけでなく共に研鑽する存在。

 独りではない安心感。鐐は初めて宗次郎に自分の寂しさを漏らしていた。

ーー私は、私の事がよくわからないのです。


「鐐。まだ起きてる?」

 父の話しを聞いてきた宗次郎がその夜、部屋の外から声をかけてきた。

 月が綺麗だから一緒に見ようと誘ってきたのだ。

 鐐は縁台にいる宗次郎の隣に並んだ。

 宗次郎は鐐が座ってからは何も話さなくなり、二人の間には只々静かな時間が流れた。

 横目で見る宗次郎は「月を一緒に見よう」と言ったはずなのに、しじまを味わうように瞳を閉じ、何かに思いを馳せているようだった。

 しばらくして沈黙を破った宗次郎は静かに話し始めた。

「……僕は父上も母上も知らないんだ。二人とも僕の記憶に残らないほど前に亡くなってる。姉上は二人いて、一番上の姉上は結婚して僕を育ててくれた。でも僕が九歳になる頃に赤子が生まれて……。それで僕はここに来たんだ。若先生はそんな僕のことをいつも気にかけてくれた。そんな先生が褒めてくれるから僕は剣術の修行に夢中になったんだ。……君の父上も同じだよ。一心に修行する君のことを気にかけている。そうじゃなきゃ様子を見にこないでしょ」

 心配してくれる人がいる。独りではない。そう寄り添う宗次郎の優しさは、渇いた喉が潤うように心を満たしていった。

 深緑の闇に昇る天満月(あまみつき)が二人を照らしていた。


月が満ち欠けし、再び十全の円を現すその周期は約三十日。

 宗次郎はあれから三度、鐐と共にその輝きを眺めた。

 これまで他人に興味を持たなかった宗次郎は、誰かと一緒なのが心地よいと初めて感じており、剣術の修行以外でも四六時中、同じ時間を共有するようになった。

 そんな様子を見た勝太には「水を得た魚のように、生き生きした宗次郎が見られるようになって嬉しい」と言われており、宗次郎は「生き生きしているのは、今まで通り剣の筋を磨くことに尽力しているからですよ」とはにかんでいた。

 鐐は初めの頃と比べて口数も増え、表情も豊かになっていた。

 宗次郎はそんな鐐に悪戯を仕掛ける事にも尽力していた。鐐の驚き焦っている姿を見るのが宗次郎の好尚(こうしょう)だったのだ。

 しかし近頃はどうも上手くいかない。

 ある時は、縁台に置いてある鐐の草履の鼻緒を紐で結んで庭に誘い出し、それを履いた鐐が隣で転んでいる所を見て笑ってやろうと思っていたのに、いざ転びそうになった鐐を咄嗟に支えてしまって失敗。

 またある時は、書物を読みながらうたた寝をしている鐐に、髯(ひげ)を墨で書き加え獣のような顔にしてやろうと思ったのだが、足された髯面が猫のように愛らしいものに見えてしまい失敗。

 夕餉の際には、鐐の御膳の酢漬けの大根を生姜に変えたのだが、あんな辛みの強い食べ物を美味しいと言って食べていて失敗。どうやら鐐は生姜が好きなようであった。

 なかなか上手くいかない悪戯を今日はどうやって仕掛けようか。宗次郎が謀を練りながら、門の前をうろうろしていると一人の青年が姿を見せた。

「よう、宗次郎。久しぶりだな。かっちゃんはいるか?」

 そう言って入って来たのは土方歳三(ひじかたとしぞう)。

 この整った顔立ちの二枚目は、実家秘伝の『石田散薬』を行商しながら、たまにこうやってふらふらとやってくる。

 奉公に行っては問題を起こし、以前は奉公先の年上の女人を身籠らせたとかで、兎に角問題のある青年だ。

 宗次郎は土方と鐐を何だか会わせたくないと思った。しかしーー。

「ん? 新入りか?」

 箒で庭を掃いていた鐐に、土方が気付づいた。

「鐐、気を付けて! その人は女を食い物にする女殺しだよ!」

 宗次郎は思わず庭に向かって叫んでいた。

「あぁ? なんだと、宗次郎! 俺はこんなガキ相手にするほど女に困っちゃいねぇ。まぁ、女殺しってぇのは間違っちゃいねぇがな。俺の魅力に骨抜きにされた女は数知れず、こんなガキですら俺の魅力にイチコロだぜ」

 鐐がしげしげと土方を見つめているので、それを見惚れているのだと、気分をよくしたのか饒舌をふるう。

「……私、鬼は初めて見たのですが、人と変わらぬ姿をしているのですね」

「「……鬼?」」

 どうやら鐐は「女を食う」や「女殺し」を、人を喰って殺す鬼と解釈したようだ。

「ぷっ! 鬼だって! 違いない」

 手で口を隠し、ぷぷぷ、と笑いを漏らす宗次郎の頭に土方の拳骨が入る。

「おい! こら、そこの丁稚! 俺は鬼なんかじゃねぇ、多摩のお大尽、色男に向かって何て事いいやがる」

「私は丁稚ではありません。ここで内弟子としてお世話になっております」

 鐐が負けじと反論し、騒がしくなった庭に勝太がやってきた。

「おぉ! トシじゃないか、久しぶりだな。どうしてたんだ? 行商帰りなのか?」

「ん、あぁ、まぁな。打ち身、捻挫に切り傷にって、そんなに薬を欲しがる奴なんかいねぇから、ちょっとばかり近くの道場に寄って試合吹っ掛けてだな、怪我したところへ毎度あり~~ってな。修行も出来て一石二鳥ってわけだ!」

「はは、トシは相変わらずだな」

 土方は触ると傷がつくイバラのような乱暴なガキ、ということで近所の人から『バラガキ』と異名をつけられていた。

 勝太より一つ年下の二十一歳なのだが、言動行動の年齢の低さは宗次郎と似たり寄ったり。そのくせ、幼い頃から武士に憧れているらしく、武士の志を重んじる勝太と「侍たるもの、不義を働いてはならぬ。武士の道義とはーー」等と言って熱く語り合っていた。

 「宗次郎、あくどい商人がいるよ。そこら辺にいるならず者の浪人と変りませんね」

 既に土方の性質を見抜いた鐐が、ずばずばと言ってのけるので、宗次郎も知っている情報をずばずばと言う。

「いえ、もっと質(たち)が悪いですよ。僕の聞いた話によると、その薬は水ではなく燗酒(かんざけ)で飲むと言って、ご婦人に与え酔わせたんだとか」

「なんだ、おめぇら?」

「あぁ、トシ、紹介しよう。新しく内弟子に入った鐐だ。練武館の伊庭先生の元からやってきたんだ」

「なに?  練武館って言ったら、江戸の四大道場とも言われる程のでけぇとこじゃねーか。何だお前、何やらかしたんだ?」

「こら、トシ。あんまりなこと言うんじゃない。鐐はある身分のお方からお預かりしている子なんだ。暫くの間、身を隠さないといけないらしくてなーー」

 心の臓がどきりとした。

 鐐の生い立ちは本人から聞いている。思い悩んだ表情で「自分の存在がない」と言っていた。

 その時はかける言葉が出てこなかった。

 顔を反らして視線を落としている鐐に、今は「君はここに存在しているよ」と言いたい。

「ーーいやぁ、それでここの道場に来たのだが、我が師範の天然理心流もだいぶ世に知れ渡ってきたって事だなぁ! ははは!」

「ーーきっ……」

「ーー何だお前。どっかの殿様の御落胤ってか? それにしちゃ、ちっとばかり品位が足りねぇな。それに色気も足りねぇ」

「……! 私はまだ十二です。色気はこれから付くんです!」

 再び土方に噛みつく鐐の面様(おもよう)には活力が戻っていた。

 生い立ちを話す勝太に視線を外した鐐の憂い。

 それを知ってか知らずか見事にかき消した土方。

 宗次郎はまた言葉を飲み込んだーー。


清々しく晴れ渡った空に雲一つない秋の昼下がり。

 鐐は宗次郎と、ある豪農の道場へ剣術指南に付いて行くことになった。

 試衛館では道場に通う門弟だけでなく、ある程度の権勢を持つ裕福な農家や商家が構えた道場へ、出稽古に行くことがあった。

 この度、鐐が随伴出来たのは、出稽古に赴くのが三代目の周助ではなく勝太がその責を務めていたからで、「様々な者の太刀筋を見るのがよい学びになる」とか何とか言う宗次郎と、同行の許可を得ていたからだった。

 初めは余計な自分が付いて行っても良いのだろうか、と遠慮していた鐐であったが、普段生活している領域から出るという好奇心と、宗次郎に面白いものがあると誘われたのが後押しし、探求心の強い性格には勝てなかった。

「ささっ、着いたぞ」

 先頭を歩く勝太が指す場所には『日野宿』と書かれた看板が掲げられていた。

 門を潜ると東側の一角に道場があり、それなりに大きい敷地の庭には矢竹が植えられていた。

 青々と生い茂る大型の葉は、伊庭の道場の庭のものと同じであり、兄と笹舟を作った記憶が蘇る。兄上は元気でやっているだろうか、父上は次いつやってくるのだろう、鐐は寂寥たる思いを抱えながら皆に続いた。

 道場に入ると数名の男たちが素振りをしていて、その中の稽古着を少し着崩した男が声をかけてきた。

「おっ、いつぞやの丁稚じゃねぇか」

 土方であった。

「あっ、色鬼さん」

「色鬼じゃねぇ、色男だ!」

「おぉ、トシ! 久しぶりの手合わせで腕が鳴るな! 彦さんを呼んできてくれるか」

 彦とはここの道場主の佐藤彦五郎(さとうひこごろう)のことである。

 土方の姉婿にあたる人物だそうだ。

 昔、祖母を盗人(ぬすっと)に斬殺されたことがあり、それ以来、剣の必要性を感じ試衛館の門人となった。家に道場を設けてからは、彦五郎に誘われた土方も出入りするようになり、勝太はその時に知り合ったと、ここに来る道すがら話しをしていた。

「この朱塗りの派手な防具は土方さんのですか?」

「こら! 触るな宗次郎。扱いが雑なお前が触ると直ぐボロくなっちまう。洒落た防具はお前にはまだ早い」

 色恋ばかりの遊び人だと思っていたが、この男も稽古をするという。

 いったいどれほどの力量なのか、元々見取り稽古を目的としていた鐐は土方の稽古に集中した。

 一概に剣術と言っても道場によって稽古は様々である。

 試衛館のように実戦を常に意識した剣術もあれば、禅などの心法や精神鍛錬を重きに置き、武士階級の嗜みの武芸のような剣術もある。

 力を磨く事、技を磨く事、位を磨く事、剣術の稽古を見ればその人の生き様も見えてくる。

 土方は素振り、組太刀、打込みと真面目に取り組んでおり、こんな男でも剣術稽古をしている姿は一人前の武士のようだった。

 しかし土方を見直す鐐が、瞠目結舌(どうもくけつぜつ)したのは最後の試合稽古。

 完全に我流となった土方が、状況不利と判断するや否や、ぶつかって怯んだ所を打ち込んだり、首を絞めたりと型にとらわれず縦横無尽に暴れていたのだ。

「あのような剣捌きは初めて見ましたが、道義的にどうなんでしょうか」

「何言ってやがる。要は勝ちゃあいいんだよ!」 

「手段を選ばない土方さんらしいですよね」

 土方の生き様もしっかりと剣筋に表れているようだった。


 その日の夜、交流の深い一同は、一晩の宿と夕餉を共にしており大いに賑わっていた。

 三国志の影響を強く受け、以前に義兄弟の杯を交わしたという勝太と彦五郎は、浴びるように酒の徳利を空けていた。

 世話のかかる義弟に対し、行く末をしっかり見るように苦言を呈する彦五郎。

「トシはいずれ自分の道を見つければ、天下に名を残すような大物になるさ」と豪語する勝太。

 あまり酒に強い方ではないらしい土方は、盃をちびちび舐めるように口に含み、苦笑いをしていた。

 鐐は夕餉を食べ終わると、「そろそろ行くよ」と目配せをする宗次郎と部屋を抜け出した。

 宗次郎の言う面白い物を探しに行くのだ。

「ねぇ、面白い物って一体何なの? 何処にいくの?」

「しぃ! 静かに。こっち。見たらわかるよ」

 月明かりの中、宗次郎に付き添い忍び込んだ場所は土方が使っている部屋であった。

 我が物顔で部屋を開け、無遠慮に机の引き出しを漁る宗次郎に、気が咎めながらも鐐は続く。

「勝手に入って大丈夫? また土方さん、鬼になるんじゃない?」

「あった、あった! ほらこれ」

「豊玉(ほうぎょく)……発句?」

「そうそう、俳号だよ、土方さんの」

「へー。あんな業して意外ですね」

「鐐も見てごらんよ。この発句集が最高なんだ」

 宗次郎の言う面白いものとは、どうやら土方が嗜んでいる句の事であるらしい。

 鐐は宗次郎に並んでその発句を読み上げた。

「しれば迷い しなければ迷わぬ 恋のみち」

「それは新作だ! あんな鬼みたいに怒るくせに恋煩いだって」

「……ふふふ。どこのご婦人と恋に迷走してるんでしょうね」

 この愚直な発句をあの土方が詠んでいると思うと、鐐は笑いをこらえる事が出来なかった。

 役者のような顔立ちの土方と、あまりにもずれのある、お世辞にも上手いとは言えない発句集。

 興味をそそられた鐐は、この面白い物が他にもないかと机を覗き込み手を伸ばす。

 しかし手を伸ばしたと同時に、後ろにいる黒い気配を察知した。

 その一帯だけ真冬の凍てつくような空気が流れているようだ。

 寸刻、膠着した鐐がおもむろに振り向くと、そこには拳をわなわなと震わせ怒りを露わにした鬼の形相の土方が凄んでいた。

 これはまずいと宗次郎の方を見ると、彼は脱兎の如く駆け出しており、鬼は対象をこちらに定めているようだった。

 取り残された鐐は、独り説教を食らう羽目になり、秋の夜長は更けていった。


 安政五年(一八五八年)

 鐐が試衛館に来て三年、宗次郎は元服して名を総司に改めていた。

 十五歳になった鐐は、相変わらず袴姿に後ろで高く結んだ総髪。

 飽きもせず医学書を読み漁り、今は骨と骨を繋ぐ関節がどうのこうのと、朝餉を取るに似つかわしくない話しをしている。

 丸っきり男と変わりない姿、言動に勝太は「嫁入り前の女子なのだから、たまには着物や髪飾りはどうだろう」と勧めていた。

 総司は「嫁入り前」という言葉が気になった。

 これまで剣術稽古と医学書にしか興味を示さない鐐が輿入れする。そんなことを微塵にも考えたことがなかったが、十五といえば髷を結わい成人を祝う年頃なのだろう。町娘であれば早々に何処かに嫁いでいく。そもそも鐐はいつまでここにいるのだろうか。これだけ平穏な日々が続けば、本来いるべき場所に戻る日も近いのではないか。

 もやもやと考え込む総司は、味噌汁を飲みながら「私には必要ありませんよ」と言う鐐にほっとしていた。


 朝餉を終え、道場で総司は鐐と対峙する。

「あんな歩きにくい格好では刀は振れないし、簪や櫛など飾っていては頭が重くて俊敏な動きがとれませんよ。そんなことより、今日こそは総司から一本取るために秘策を考えてきました」 

「それは楽しみだね。じゃあ僕も本気でいくよ」

 活気溢れる鐐に、物憂い気分がすっかり晴れた総司は、稽古に意識を集中した。

 木刀を水平に構え、刃である方を外に向け三段突きの構えをとる。

 三段突きとは、突く引く突くの三連動作の事で、突き技を得意とした心形刀流の技を鐐から聞いた後、総司が新たに生み出した技であった。

 万が一、突き損じた時に備え三段突く。刃を外に向けるのは、突き技から一転して横払いに斬ることをも想定していたからだった。

 総司の三段突きは、一歩目の踏み込みの音が消えないうちに、三本の突きが絶え間なく出され、一本の突きにしか見えない程速かった。

 防御の構えをしていた鐐は、総司の意図に気付くと、木刀を左手に持ち直し、腰の位置に添え、重心を低くして構えた。

 居合、抜刀術の体勢だ。

 両手斬りより届く範囲が伸びる片手での抜刀術なら、間合いが長い分、引き技も速く、更に抜きながら飛び込んで行ったりと、多様な変化技が出せるだろう。

 以前までは総司の構え一つで雰囲気に飲まれ、術中に嵌まっていた鐐だったが、成程、秘策を考えてきただけのことはある。一筋縄ではいかなくなってきたようだ。 

 頭、喉、鳩尾(みぞおち)。狙う急所と切っ先を定めた総司は一呼吸置いた後、頭目掛けて一気に間合いを詰めた。

 右半身でかわしながら瞬間に抜きつけ迎撃する鐐。

 鐐の攻撃を避けた総司はすぐまた二の太刀、三の太刀を繰り出すが、思っていた以上に素早い鐐の攻防で木刀は鍔迫り合いの形となった。

 力で負けることはない総司は、このまま圧して一本取ろうとしたところで、眼下の鐐に対して悪戯心に火がついた。

「晒が外れてるよ」

「えっ!?」

 胸に気を取られる鐐。

 総司はその頭上に、ぽんっと軽く木刀を打込み、にやりとほくそ笑んだ。

「僕の勝ちだね」

 無論、晒など外れておらず、騙し討ちされた事に気付いた鐐は目を丸くしている。

「卑怯者!」

「戦いに卑怯も堂々もないさ。油断大敵ってやつだ。しかし秘策が抜刀術とはね」

「若先生に言われたんですよ。特技を見つけ、その能力を伸ばすようにと。力ではどうしても勝てませんから」

 鐐の成長は著しい。

 稽古に医学書、常に何かに集中していなければ自分を保てないのであろう。

 満月を眺める習慣は今でも続いていて、部屋に夜半(よわ)の月が漏れ輝く日は、どちらからともなく縁台に腰かけ他愛のない話しをした。

 鐐が話す書物の内容はよく分からなかったが、身振り手振りで身体の名称や形態を懸命に説明するのは楽しげで、総司は黙って鐐の横顔を眺めていた。

 だが時々鐐は不意に話しを終える時があった。

 寂しさの含まれた笑顔で夜空の輝きを眺めるのは、決まって鐐の父が来た日であった。

 鐐は父から未だ、自分の出生について聞けないでいるようだった。

「そういえばこの前、君の父上を町で見かけたよ。大工の男と一緒だった」

「そうですか。父上は隠居している身ですからね。家処の修繕でも依頼していたのでしょうか」

「ねぇ、伊庭先生ってもう家督を譲ってるんだったよね。まだまだ剣術の腕前は健在なのにどうして隠居したのさ?」

「さぁ、私が引き取られた頃にはもう既に九代目を養子に迎えてたし、もともと伊庭家の心形刀流は実力のある門弟が養子となって流儀を継承することが多いみたいだから、気にしたことなかったなぁ」

 そんな話をしていた矢先のこと、鐐の父、秀業の訃報の知らせが届いた。


早打(はやうち)と共に鐐は数年ぶりに伊庭家に戻った。

 半刻(一時間)程歩けばたどり着く距離であったが、試衛館に来て以来これまで一度も帰ったことがなかった。

 変わらぬ屋敷に、変わらぬ大勢の親族。ただ一人変ってしまった父は、老人のように顔や手にしわが寄り動かなくなっていた。

 コロリだったという。

 つい先日会った時は、元気だったのにーー。

 鐐は父の傍らで泣き崩れる、母と呼ぶことのできないその人の慟哭をしばらく俯瞰した。

 父が亡くなり、喪失感と共に感じるのは虚無感。

 何も聞くことが出来ないまま、父は逝ってしまった。

 何故ここにいるのだろうか、自分は一体誰なんだろうか、一体どこの誰から生まれてきたのだろうか、自分という存在が急に遠くなっていった。

 これから自分はどうしたらいいのだろう。

 どこか現実とは思えず、鐐はこの場に馴染んでいない自分を冷たい人間だと思った。

「鐐……」

 優しく声をかけてきたのは兄、八郎だった。

 鐐はそっと抱き締められ八郎の腕の中に包まれた。

 久しぶりに感じる兄の温もり。伊庭家にいた頃、辛い時はいつもこうして包んでくれた。独りではない安心感。

 気付けば鐐は静かに涙を流していた。

 初めに剣術を指南してくれた父。女子でも剣を学び身を守ることを教えてくれた。この世に存在していない自分に、剣術を通して生きる道を与えてくれた。

 試衛館に行った後も、なぜ自分の命が狙われるのか理由を教えてはくれなかったが、いつも身を案じてくれていた。

 鐐は止まらぬ涙と共に父を失った事実を受け入れた。


 秀業の死からふた月後。

 葬儀を終え忌服の期間を過ぎる頃、身動きの取れなくなった鐐は伊庭家に留まっていた。

「養子、ですか……?」

「本当は先代が、君に迫る危険はなくなったからと、亡くなる少し前から正式に養子として迎えるつもりをしていたんだ。君の事は先代から後を託されている。これからは伊庭家の養女として、ここで暮らすといい」

 秀俊に養子の話を持ちかけられていた。

 元々大所帯の伊庭家。さらには大勢の塾生を抱えている。鐐が一人家に戻ったところで、さして変わりはないのであろう。

 この面倒な家の当主として、既に家督を譲り受けている秀俊は剣術だけでなく、よく出来た人だ。秀業の実子、八郎に対しても、素性の分からない鐐に対しても、血縁者ではない秀俊を伊庭家の当主として認めたくないのか、常に当たりの強い秀業の甥に対しても、誰に対しても分け隔てなく思慮分別している。心温かく情に厚い誠実な人物だ。

「でも、私は……」

 鐐は秀俊の恩を感じながら返事に詰まった。

 養子に入ったところで、自分が何者か分からない事に変わりはない。義理堅い秀俊に面倒をかけたくはなかった。そして何より伊庭家に自分の居場所があるとは思えなかったのだ。

「今直ぐにでなくても大丈夫だよ。久しぶりに戻ってきたのだ。慣れるまでゆっくりするといい」

 秀俊が去った後、鐐は鏡台に写る自分の姿と向き合った。

 髷を結われ簪を挿した髪に、紅を差した艶やかに写る顔。稽古着で木刀を振り回していた男勝りな姿は鳴りを潜め、今は丈の長い小袖に打掛を羽織っている。

 義母のマキは、幼少期に辞めた琴や三味線の他、舞踊や歌道を毎日勧めてきていた。

ーーいいかい、もう男の格好はするんじゃないよ。黙っていれば容姿は優れてるんだ、直ぐ貰い手がみつかるさ。

 そう言ったマキはどうやら養子に迎えた鐐を旗本へ嫁がせ、武家との繋がりを強固なものにしたいらしい。

 何もかも突然で、いつも自分の意思とは無関係に過ぎていく。

 部屋から眺める庭には奉公人がいて、道場の門弟は今や千人余り、部屋も敷地も道場も、試衛館と比べる間もなくだだっ広い。しかし鐐の心は窮屈だった。

「あっ、いたいた、鐐。……うん。その姿も素敵ですね」

 八郎が庭から姿を現した。

「兄上。学問所の帰りですか?」

「いや、講武所に行っていたんだ。父上にも勧められましてね。私もそろそろ剣術を習おうと思いまして」

「講武所……ですか」

 講武所とは、幕府が弱体化した武力を上げるために、軍制改革で設置した武芸訓練機関である。旗本達が剣術、槍術 (そうじゅつ) 、砲術などを訓練しているのだが、秀俊はそこの教授方として出仕している。

 秀業の死後、八郎は秀俊の養子となり彼を父と呼ぶようになった。三年の間に随分と大人の顔になった兄。父の死に立ち止まることなく、しっかり前へ進んでいる。

 それに比べ自分はーー。

「鐐はまた芸事の手習い所へ行くのですか?」

「……そう、なのかもしれません」

 まるで心がなく、身体のみが存在しているような状態で他人事のように話す鐐。

 こうして芸事を習い、言われるがままま、何処かに嫁いでいくかもしれない。自分という存在が分からず、夢中になれるものも取り上げられてしまった。

 鐐は、酷く虚しく、置いてけぼりを食らったような気持ちになっていた。

「……鐐、少し私に付き合って下さい」


 通りは煮売り屋、蕎麦屋、蒲焼屋などの食事処で賑わっており、様々な行商人や旅人が行き交っている。

 鐐は八郎に誘われ町へ出かけていた。

 試衛館にいる時も使いなどで町へ出かけることはあったが、華やかな柄の小袖姿で外に出るのは初めてだ。歩く歩幅も、景色も人も何だか全てが違って見える。往来する人の多さも、袴で歩いていた時は気にならなかったのに、今はその人達がじろじろとこちらを見てくるので鐐は気後れしていた。

 鐐は前を歩く八郎を呼び止めた。

「あの、兄上……」

「どうしました?」

「あの……私は、どこか変なのではありませんか?」

「変?」

「先程から、たくさんの視線を感じます」

「あぁ、それは鐐が綺麗だからですよ」

「綺麗? 私がですか??」

「はい。勿論ですよ。自信を持って下さい。鐐は綺麗ですよ」

 隠れるように生きてきた鐐にとって、人から関心を持たれるのは慣れぬもので、ましてや男のように剣術に夢中になっていたのだから、綺麗などという言葉をかけられてはどう反応してよいのか分からない。

 恥ずかしくなった鐐は居心地の悪さから目を伏せた。

「ところで兄上、私達はどこへ向かっているのでしょうか?」

「えっ、あー、墨屋と筆屋に」

 思案投げ首をしながら答える八郎。ここまで来る途中では、小間物屋や団子を勧めてきていた。欲しい物など何もない鐐は人目を気にしながら八郎の後ろに続いていたが、ここで初めて兄が自分の為に外に連れ出したのだと気が付いた。

 昔から変わらない優しさ。自分はそこに存在していないかのように無(な)みする屋敷の人達の中、初めに道場の庭に誘ったのも八郎だ。父の擁護の届かないところで、いつも側に寄り添ってくれていた。

「きんぎょぉ~。きんぎょぉ~や」

 暫く歩いていると、金魚を担いだ俸手振(ぼうてふ)りが通りかかった。

「珍しいですね。この時期にまだ金魚がいるなんて」

「よっ、若旦那。今日で最後の金魚だぜぃ。あっしの金魚は生命力に加えて気品が違うってんだ! 見てくれ 。この見事な尾びれーー」

 一間ほど前で八郎に金魚を見せている俸手振りが、ふとこちらを見た。目が合った鐐は慌てて軒下の陰に入り身を隠した。

 前と後ろで付き従う形で歩いてはいるものの、本来八郎は、男女が並んで町を歩くことなど憚られる武家の者だ。袴姿ならまだしも今、自分はれっきとした女の姿である。ただでさえ素性の知れない自分を、八郎が連れていたなど噂にでもなれば一大事だ。

 鐐は身を縮め存在を殺した。伊庭家にいる時はいつもこうして生きてきた。そもそも産まれた時からそうなのだ。自分は存在していないのと同じ、誰も自分に気付きはしないーー。

 しかし鐐の思考とは裏腹に、先ほどの俸手振りが愛想のよい笑顔で会釈し通り過ぎて行き、それと同時に八郎が軒下までやって来た。

「鐐、これをどうぞ。贈り物だと気付いた主人におまけして頂きました」

 武家の体裁、そんなことなど露程も思っていないような八郎から、ビードロの玉に入った金魚を受け取った。


 屋敷に戻り、昔からよく遊んだ道場の庭へ寄った。

 縁台に腰かけ、門弟たちの稽古を遠目に、羨望の眼差しで見る鐐に八郎が問いかけてきた。

「鐐は剣術が好きなんですね」

「はい……。琴や三味線を弾(はじ)くよりも竹刀や木刀を弾く方が、踊りを舞うよりも武術を舞う方が好きです。本当はこんな綺麗な小袖よりも稽古着の方が落ち着くんですが……」

「ふふふ。そういえば、鐐は袴姿も似合っていましたね」

「……兄上は男の姿をするな、とは言わないんですね」

「そうですね。何だっていいんですよ。鐐が笑っていれば。それに袴姿なら並んで町を歩いても誰にも咎められませんね」

 鐐は八郎からもらった手元の金魚に視線を落とした。

 結局あの後、墨屋と筆屋には行かなかった。鐐が女子の格好で気怖じしている事に気付いたのであろう八郎が「戻りましょうか」と言ったのだ。

 ビードロの玉の中では、既に移ろったであろう折節の金魚が泳いでいる。今更伊庭家の養女として迎え入れられる自分のようだ。

「兄上……この金魚は私と同じですね」

「……鐐?」

「綺麗なビードロの中で、優雅に泳いでいても所詮この玉の中。外では生きられず、処狭しと生かされている……」

「鐐、あなたはーー」

「ーー部屋に戻りますね。今日はありがとうございました。外に、出られて良かったです」

 これ以上、本音を話してはいけないと焦った鐐は逃げるようにその場を後にした。

 その日の夜、部屋の軒下に吊るした金魚玉は、名残の月になるまで闇を眺める鐐の側で物哀しく揺れていた。



後日マキは縁談の話を持ちかけた。

「いい相手がいたんだよ。幕府の書物方に出仕している旗本でねーー」

「ーー母上、鐐はまだ戻ってきたばかりですし、養子縁組の手続きはまだ私しか済ませていません。それに父上の喪が明けきってない内は世間体にもよくないのでは」

 直ぐにでもと縁談を進めようとするマキに八郎は切言していたが、マキは聞く耳を持たなかった。

 肩身の狭い鐐は反論する事ができず、こうしてまた自分の意思のないまま埒外へと置かれる事に諦めの境地にいた。

 そんな中、鐐は渡したいものがあると言う秀俊の部屋に呼ばれた。

「これを君に。少し早いとも思ったのだが、縁談の話が持ち上がっているので今渡すことにしたよ」

「これは……?」

 鐐は一振りの太刀を受け取った。

「これは先代から君に渡すようにと言われていたものだよ。先代はこの刀と共に君を預かったと言っていた」

 上質な生糸で織られた刀袋に入っていた物は、鐐の本当の親のものだという。

「九代目は私の産まれを御存じなのでしょうか? 私は明楽茂正という旗本から預かったとしか聞いておりません。彼は一体……?」

「私は明楽茂正という旗本に会ったことはない。生憎、君がここに来た事訳は何も知らないんだ。先代はそのことについては堅く口を閉ざしていたから、余程の事情があるのだろう。ただ、私が口を挟んでよいものか分からないが、一つだけ気になる事がある。先代に会いに幸次郎という名の男が度々ここに来ていたのだ。年の頃、三十二、三といったところか、大工の格好をしていた。しかしあれは間違いなく侍だった。鋭い眼光の持ち主であったし、剣を極めた者の風格が感じられる男だった。恐らく偽名ではあろうが幸次郎殿なら何か知っているのではないだろうか」

「大工の幸次郎……」

 自身の部屋に戻ると、鐐を案じて様子を見に来ていた八郎が居た。鐐は秀俊から聞いた内容を八郎にも話し、その場で刀袋を解いた。

 白鞘から取り出した刀は、細身で小乱れ刃を焼かれたとても優雅な太刀で、則宗と銘が切ってあった。あまりに存在感のある美しい刀。それは、鐐の生まれが高い身分であることを示唆していた。

 自分の存在を失っていた鐐は、この刀が自身の出生を知る手立てになるのでは、と胸が高鳴った。

 これを辿っていけば、いつか本当の親を知る事が出来るのではないだろうかーー。何故自分は夭折したことになっているのか。何故命が狙われたのか。そして何故ここにいるのかーー。言われるがままに自分の生き様を決められ、このまま輿入れするなんて耐えられない。

「兄上……私は……」

 真実を知りたいと思う気持ちと、恩のある伊庭家に従うべき気持ちが交差する中、眉根を寄せ顔を歪める鐐。

 鐐の胸中を察したのか、八郎は軒下の金魚玉を外し、やんわり目を細め微笑んでいた。

「鐐はこの金魚が自分と同じだと言っていましたね。綺麗なビードロの中で生かされ、外では生きられないと……。しかしこのままでは、外に出なくてもいずれ死んでしまいます……。……鐐、昔よく笹舟を作って流した川が近くにありましたね」

 鐐は八郎と共に屋敷を抜け出した。 

 そよそよと流れる小川が緩やかにうねり、そのせせらぎが鐐の心を宥める。

 隣にいる八郎は金魚をそっと川に流した。どこまでも続く川の流れに沿い、泳ぎ出す金魚を見送ると、立ち上がった八郎が手を取ってきた。

「鐐、私はあなたの望みを叶えたい。自由になってもいいんですよ」

「兄上……。私は……私はまだ自分が何者であるかも分からない身……。本当の父上、本当の母上を知りたい。自分の存在を取り戻したいです。何も知らぬまま、見知らぬ人のところへ嫁ぎたくはありません!」

「はい」

 柔らかく微笑む八郎が、僅かな希望の道標のように見えて鐐は決意を固めた。


 数日後、再び袴姿と総髪に戻した鐐は秀俊に、養女になることを断り頭を下げた。

 秀俊は鐐の申し出を受け入れ、本当の親を探す事について力添えの意向を示してくれていた。

 縁談の話は何故か相手側から断りの文が届いており、急転直下の展開に八郎が関与している事は明らかであったが「良かったではないですか」と、白を切る八郎に事のあらましを知るのはもう少し後になる。

 しかし問題はマキであった。激怒した義母には、二度と伊庭家の敷居を跨いではならないと、勘当を言い渡されていた。

 こうして鐐はまた試衛館に身を寄せる事になったのであった。

 試衛館まで付き添うと言った八郎と共に歩く道中。

「兄上。色々とご面倒をおかけしました」

「いいんですよ。私としても鐐が正式に妹になるのは御免でしたから」

「え?」

「それよりもその刀ですが、やはり則宗は一級品のようですね。菊一文字と称されていて、高家や諸大夫の御前様が帯刀するような代物だと父上から聞きました。それを辿って鐐の本当の親が見つかればいいのですが……そういえば幸次郎という大工について何か分かりましたか?」

「いえ、何も。九代目は父上が亡くなる少し前に来て以来、姿を見せなくなったと言っていましたし、界隈の大工の棟梁に聞くも、やはり幸次郎という者の存在は確認する事が出来なかったと……」

「そうですか。もし、父上のおっしゃる通り幸次郎殿が武士であるなら、講武所に手掛かりがあるかもしれませんね。私も共に探すのをお手伝いしますよ」

「ありがとうございます。兄上」

 鐐は袋に包まれたままの刀を胸に抱き締め、希望と期待で顔を綻(ほころ)ばせた。

 今更身分というものに頓着はしないが、自分の根源を知りたいと思うのは、人としての本能であろう。養父秀業に導いてもらった剣術、今度はこの刀と共に不確かな自分を確かなものに変えていきたい。親の手掛かりはまだ皆目見当もつかないが、漸く自分の意思で歩みを始められたのだ。

 試衛館に着くと八郎や秀俊が既に膳立てしていたようで、周助と勝太に快く迎え入れられた。

 八郎は周助に、再び世話になる事を申し出た時から、謙虚で礼儀正しいその姿を気に入られていたようで、帰り際また顔を出すようにと再三言われていた。

 久しぶりに入る試衛館の部屋で、やはりこれぐらいの広さの方が落ち着くと、鐐が数少ない荷を整理していると、後ろから以前と変わらぬ軽口が響いた。

「芋道場に戻ってくるなんて君も変わり者だね」

 相変わらずのひねくれ者の総司の声が妙に心地よく、鐐は凛然と振り返った。

「まだ総司から一本も取っていませんからね」

 総司と見つめ合うその瞳には、以前にはなかった志を宿していた。




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