アレンチベルタの花畑

松藤四十弐

アレンチベルタの花畑

 私の旅行の目的は彼女ではなく、『アレンチベルタの花畑』という風景画を見るためだった。つまり、彼女の肖像画を見つけたのは偶然だった。彼女は石造りの建物に囲まれた狭い路地にある、地元の人しか知らないような小さなギャラリーにいた。

 彼女は私に背を向け、微笑みながらこちらを振り返っていた。小さなキャンバスに描かれながらも、彼女はまっすぐに私側の世界を見ていた。彼女の後ろには湖と緑の丘、そして山があった。いったいどこの国で描かれたものなのだろうか。


 彼女と出会ったのは、高校二年生の時だった。彼女は授業中によく寝ていたにもかかわらず、成績はいつも上位だった。家柄もよく、たまに運転手つきの車で登下校していた。

 だが、私は彼女をそんなことで強く記憶しているのではない。私が彼女のことをすぐに思い出せるのは、彼女と私が不思議な関係だったからだ。

 私たちは恋人同士でもなかったし、友達でもなかった。でも、私たちは放課後、誰もいない空き教室や廊下、階段で抱き合った。それはエロチックな意味ではなく、真冬に布団へ潜り込む時のような、温かさと安心を得るためのものだった。だから私たちは抱き合う以外に何もしていない。それは思春期の男女にとって不思議なものではないだろうか。もし自分の息子や娘が、そんな関係を誰かと持っているとしたら、私は首を傾げるだろう。では、なぜ私たちがそういう関係になったのか。……これも随分と奇妙な話になる。

 七月に入ったばかりの頃、私は突然の雨に打たれながら、走って家へと帰っていた。すると、高級車が並走し始めた。立ち止まり車を見ると、カーウインドーが下がり、彼女が顔を出した。そして「よかったら乗って」と私に車へ乗るように勧めてくれた。

 私はそれをありがたく思い、車へと乗り込んだ。彼女の横に座ると、私は礼を言った。

 そして、そこから記憶がない。一週間分、ごっそりと記憶がない。そして、彼女もその一週間の記憶がなかった。私たちは同時に気を失い、病院へと運ばれたのだ。

 それから私たちは抱き合うようになった。……いや、これでは確認不足だ。つまり、私たちは同時に気を失い、同時に妙な病にかかったのだ。その病というのは体温が徐々に低下していくというものだった。しょうが湯を飲んだり、風呂に浸かったりして、体温を保つことはできても、体温を高めることはできず、それは毎日少しずつ低下していった。徐々に寒気を感じ、風邪を引いても熱が出ないためにウイルスを退治することができなかった。

 私たちは、よく分からない抗生物質のおかげで、一時的に体温を上げることに成功した。だが、やはりそれは一時的だ。二時間くらいで効き目は切れた。おかげで一日に何度も薬を飲まなければならなかった。その暮らしが一カ月経ち、いっそ死んでしまった方がいいのではないかと思っていた頃、私たちは苦痛を伴わずに体温を高める方法を見つけた。それが抱き合うことだった。

 発見したのは、私も彼女も人生を半分くらい諦めた気持ちで学校へと再び通い始めた日。授業中、彼女が落とした消しゴムを取ろうとした時だった。私たちは同時に消しゴムを取ろうとして、手と手が触れたのだ。その瞬間を私は今でも鮮明に思い出せる。太陽が体を昇ってきたのだと、私は本当に思った。彼女もそうだった。驚き、たじろぎ、うれしそうに笑った。

 それから私たちはお互いの手、指、肌、足、体の全ての部分を欲した。もちろん、私たちはそれ以上何もしなかった。不思議と性的衝動のようなものは少しも起こらなかった。ただ温かく、安らかで、気持ちがよかった。

 彼女以外の人と抱き合っても意味はなかった。しばらくしてできた恋人と抱き合っても、性的欲求が高まるばかりで、あの輝きのあるぬくもりを感じることはできなかった。

 高校を卒業しても、彼女との関係は続いた。だが、その回数は減った。彼女が親の都合で海外に行ったからだった。日本に帰ってくるのは数カ月に一回で、その度に私たちは連絡を取り、抱きしめ合う数時間を過ごした。

 そして、その関係は突然、何の前触れもなく終わった。ある日、体温が低下する謎の病が治ったのだ。それは本当に突然で、夢の中で全てが完了したかのようだった。お互いを必要とすることはなくなり、数回連絡を取り終えると、私たちの関係はひっそりと、雪が溶けるかのように消えてなくなった。


 今、私は数十年ぶりに彼女に再会している。私が最後に見た彼女よりも少し大人になっていたが、肖像画の中には彼女がいた。最初は見間違いかと思ったが、肖像画のタイトルには彼女の名前がしっかりと書かれていた。

「すみません」私は椅子に座って新聞を読んでいた主人に、声を掛けた。

「なんでしょう」主人は私の存在を認め、歩いてきた。

「この肖像画は、どなたが描いたのでしょうか」

 そう聞くと、主人は数回頷いた。

「このポートレートは、私の甥が友人に描かせたものなんです。でも、申し訳ないけど、売り物じゃないんですよ」

「私、この女性を知っているんです。同じ学校に通っていて……。今、彼女はどこにいるのでしょう」

 主人はゆっくりと、そしてフラットに「死にました」と答えた。

 私は彼の目を見た。私は身動きできず、数秒間、その中にいた。

「死んだ」私は言葉に出し、次に「なぜ」と聞いた。

 主人は目を伏せ、大きく息を吸い、一度に吐いた。

「二十年前に、よく分からない病気にかかったんです。……体温がゆっくりと下がり続けるという病気でした。薬は飲んでいましたが大した効果はなく、そして彼女は、肺炎で死にました。……その後、甥は彼女を追うように、崖から飛び降りました。とても悲しい出来事でしたよ。彼は死ぬまで嘆いていました。温める方法を見つけることができなかったと。……彼女は優しい人でした。あなたに出会えて私は幸せで、人生に悔しいことも、悲しいこともない……。そう言ったそうです」

 私は話をつなげることができず、彼女の方を振り返った。お互い無言で見つめ合うしかなかった。

 私は彼らのお墓の場所を聞き、礼を言ってギャラリーを出た。

 二十年前、私は一体どこで何をしていたのだろうか。たしか妻と出会い、付き合い、結婚したのが二十年前だ。住所は変えたが、私は電話番号も名前も、その他のものは何も変えていない。では、なぜ彼女は私に連絡してこなかったのだろうか。まさか私を忘れたわけではないだろう。あんなに不思議な関係だったのだ。そしてお互いを温めることができる唯一の存在だったはずだ。忘れることなどできるはずがない。

 私は狭い路地を出て、ホテルへ帰ろうとゆっくり歩いた。ワンブロック分戻ると、車一台しか通れない石畳の道を、黒のタクシーが走り去った。その瞬間、風とエンジンの音が私の耳を叩いた。

 何を思ったか、私は空を見た。太陽が雲に隠れるところだった。徐々に、石畳が影に侵されていく。

 ……そういえば彼女の顔はどんなものだっただろうか。そういえば、彼女の名前はなんだっただろうか。いや、彼女とは何だ。私は今、何を考えているのだろうか。

 私は後ろを振り返った。タクシーはすでに消え、辺りは影に覆われていた。

 小さなギャラリーで見た『アレンチベルタの花畑』は、素晴らしい作品だった。たくさんの白い水仙が、奥にいる誰かのところまで、道のように続いているのだ。……私はそれ以外に、あそこで何か見ただろうか。いや、何も見ていないと思う。

 私は前を向き、石畳の道を進んだ。

 ホテルの前に着くと、前から妻と子どもたちが大きな買い物袋を提げて、やってきていた。

 だから私は手を振り、私はここだよ、と合図した。

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