剣は二度、大地に刺さる

ろん

第1話




キィン——


 鋭い音が響きわたる。

 雑踏や馬のいななき、怒声や固い物同士がぶつかる音に囲まれる中、彼女の手を離れた剣は宙を舞い、かなり離れたところまで飛んでいく。


「勝負アリ、だな」


 そう言い放った男は、自らの剣を傍らにグサリと突き立てる。おもむろに兜を外し、光沢のある甲冑を一つずつ脱ぎ捨てながら、じりじりと相手との距離を詰めていく。胴も脚も肩具も取り払ったところで、その姿はようやく、目の前のいる女性の異常なまでの軽装ぶりと並んだ。


「別に、動きやすさを取ることが悪いとは言わねぇよ。俺だって、一度倒れれば自力で起き上がれなくなるようなこんな鎧、着けずに済むならその方が良いさ。ただあんたみたいな『べっぴん』がそうすることの意味を、あんた自身でもう少し考えるべきだったな」


 後ずさりする彼女が城壁に進路を阻まれるのを見て、男はいよいよベルトに手をかける。戦場に迷い込んだ鹿のような脚、その身がかつて母親と繋がっていた証をあられもなく晒した腹、こんなむさ苦しい環境には似つかわしくもない曲線を帯びた胸、そして——しっとりと滑らかな亜麻色の髪。


 その容姿の一部分だけでも、男の本能を掻き立てるには十分な艶めかしさだ。ましてや右も左も死体であふれるこの場所で、その強烈な匂いは「犯罪」と称しても過言ではなかった。


「観念しな。そんな薄い服、もう裸と変わらねえよ」


 一センチでも多く距離を取ろうとしているのか、彼女は足腰から背中までぴったりと城壁に押しつけている。しかし哀しいかな、胸の下できつく組んだ腕が一層「寄せている」ことに気付かないことこそ、この世で男と女が永遠に分かり合えない理由、そのものだった。


「へへへ。まあ、俺も鬼じゃない。自分で脱ぐなら多少は……ん?」


 一瞬、男は期待感を募らせる。自分が言うまでもなく、彼女がみずから服をほどき始めたように見えたからだ。

 しかし違った。彼女が引っぱり出したのは、その身を覆う最後の布きれに繋がる紐でもなければ、男に許しを乞うための金銀の類でもない。

 それは、彼女自身の髪と同じ色の石だった。


 男が首を傾げるよりも早く、次の変化が起こる。彼女の全身から放たれた強烈な光は、真昼の太陽のような熱とともに男の肌を焼き、辺りに砂を舞い上げる。


「うおおおっ!」


 うなじが氷に覆われたと感じるほどの熱が顔におし寄せ、その感覚はやがて激しい痛みへと変わる。視界が焦げたような緑色に包まれる中、男が目の前に捉えたのは、自分が追い詰めたはずの姿とは別の生き物だった。


 二本の稲妻のような角、ずっしりと大地を捕らえる四つの足、顔面を縦横に走る傷から相手を睨みつける六つの目、そして——背中にもっさりと積まれた亜麻色のたてがみ。


「うわ……うわあああっ!」


 鹿か、狼か、はたまた竜か、何と呼ぶのが正しいのかも分からない異形を前に、男は顔中の痛みも忘れて立ち上がる。行く先には甲冑の各パーツが無造作に転がっているが、それらを脱ぎ捨てていなければ、今こうして逃げることは到底叶わなかっただろう。地面に刺した剣のところまで、男は前のめりになりながら足を速めた。


ゴッ。


 鈍い音と同時に、右のつま先に激痛が走る。またしても横倒しになった視界に飛び込んできたのは、誰かの悪戯のように足元に転がっていた兜と、その向こうから徐々に近づいてくる怪物の姿だった。


「くそったれ……!」


 派手に蹴つまづいたおかげで、男の身体は限りなく剣に近い位置まで移動していた。しかしこの期におよんで、男は剣を地面に突き刺すのではなく、普通に寝かせばよかったと激しく後悔する。格式高い聖剣のごとくそり立った剣の柄は、地を這う男から見てはるか上空にあった。


 それでもちぎれんばかりに腕を伸ばし、指先で何とか柄に触れる。ほっとしたのもつかの間、男はじんじんと痛むつま先が、突然、足首ごと不穏な温もりに包まれるのを感じた。


「え……っ」


 再び下を見ると、怪物の前足の下から覗く銀色のホットケーキのような物体が、ひしゃげた鉄製の兜であることに気づく。

 ついでにその横にある巨大な口が、自分の足に食らいついていることにも。


「や、やめろぉ……」


 短く引きずられた後、男は下半身から持ち上げられるが、すぐに地面に落下した。


 ベルトを緩めていたおかげで、ズボンが脱げたのだ。男はしめたとばかりに匍匐前進で剣の元に向かい、その柄を固く握りしめる。怪物がまたしても脚に食らいついてきたが、今度は男も剣を離さなかった。


「この……っ!」


 先ほど勝利した剣と同じ切っ先とは思えないほど、ぶんぶんと荒々しく空を切ったその戦果は、たった数本のたてがみだけ。むしろ巧みな動きを見せたのは、その間に男を腰あたりまで呑み込んだ怪物の顎の方だった。


 それでも剣を逆手に持ち替え、男は相手の目を狙おうとする。

 しかし、すでに決着はついていた。



ジュプッ……クチュッ……


「あっ……あう……ぅ」


 男が男であること。そして彼自身、自分を咥え込む怪物の正体がさっきの女性だということに、薄々気づいていること。


 主にこれらの理由によって、今、男の頭の中に浮かんでいる情景は、彼自身にとって恐ろしく都合の良いものだった。それはまさに彼女を一目見たときから、脳裏に思い描き、ベルトを緩める瞬間にも期待していた下劣な光景そのもの。


 運の尽きは、そんなイメージの補完として十分すぎるほど、怪物の口内が程よい湿気に満ち、舌の柔らかさも絶妙だったことだ。背中がビクンとのけ反る瞬間に目を閉じれば、まだ一度もその声を聴いたことのない彼女が、不敵な笑みを浮かべて語りかけてくる。



(観念しなさい。こんな薄いパンツじゃ、もう履いていないのと一緒よ)



 次の瞬間、剣が男の手をすべり落ちる。


「あっ」


 とすっ、とその先端が地面に刺さった音を聞き、怪物は男の下半身を口内に留めるのをやめた。


「や、やめ……ああっ!」


 足先はずぶりと喉にくい込み、一気に頭まで口の中に引き込まれる。



ごきゅっ——




 水を飲むように軽く、男は怪物に嚥下される。彼が竜と見違えた爬虫類のような首は、細かい鱗の隙間から下の皮膚が見えるほど、ぱんぱんに膨れ上がっている。当然、男にはまだ息があり、内容物がぼんやり透けるほど薄い内壁を押したり蹴ったりしながら、必死に体内をよじ登ろうとしているようだが、口から腹までがすべり台のようになっている構造上、どう見てもそれは不可能だった。


 やがて中心部にたどり着く頃には、その膨らみも打って変わって大人しくなる。鱗の張り具合からも、食道よりは多少ゆとりのある空間のようだが、蠕動に抗いつづけたせいで旅が長引き、窒息してしまったようだ。くぐもった呻きは聞こえなくなり、代わりにグルルル……と消化の始まる音が際立つ。


 怪物は腹を下にして寝そべった。身がずっしりと重いため、敵に襲われれば男を吐き出して逃げるしかない状況だが、彼がひと気のない城の陰に誘い込んでくれたおかげで、今日はその心配はない。胃の中にいる張本人にとっては、この上なく不運な話だが。




ゴポッ……グギュルルル……


 しかし、彼女に呑み込まれた男は幸福でもある。


 女性とは常に秘め事を抱える生き物だ。長年連れ添った夫婦の間にすら、その秘密はごまんと横たわるのだから、妻どころか恋人もいない男がそれに触れる機会など、本来なら皆無と言っていい。


 彼が幸せ者である理由。それは男がこの戦場で女性の姿を初めて目の当たりにした瞬間、その容姿に惹かれた理由でもあった。


 このような戦争が生まれるほどの食糧難の中、彼女がその胸に豊かな脂肪を蓄えられた訳を、彼は最期に身をもって知ることができたのだ。


 大地に墓標のごとく刺さっている剣を囲み、怪物は頭と尾を丸める。男と剣の距離はさっきよりずっと近いというのに、男がそれを取ることはできない不思議。単純明快なその理由を噛みしめながら、怪物はゆっくりと目を閉じた。



おわり

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剣は二度、大地に刺さる ろん @longinus2001

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