第21話 理解って、抱いて、愛して《 Ⅰ 》

 胡蝶は師匠のことが好きだった。エメラルドグリーンの、アシンメトリーのショートカットの美青年……それが胡蝶の師匠だ。

「師匠、師匠」

「なにかしら、ナナシちゃん」

「いつか大人になりましたら、ナナシが師匠のお嫁さんになってあげますね」

「あんた、そこは嘘でもお婿さんって言いなさいよ」

「無理です。ナナシのお嫁さんorお婿さんは相手の生物学上の性別に則って定められます」

「頭が固いわね……」

 頭を抱えた師匠に、胡蝶はなにも分からず首をかしげるだけだった。


 師匠がいい大人だったのか、それとも悪い大人だったのかは置いておいて、少なくとも、胡蝶を全てのリスクから守ってくれたことは確かだ。

 彼は心の底からなにかを悔いていて、その懺悔として最善の方法を取り、胡蝶の世話をして、魔法を説いてくれた。

 男のように振る舞えと教えてくれたのもこの人だった。胡蝶にはこの人が、全てだった。


 胡蝶が路地裏に引き込まれた時だって、師匠は来てくれた。

「ちょっとあんた。その子はアタシ専属の子よ。あんたらが買える程安くないの。とっととどっかにいってちょうだい」

 蜘蛛の子を散らすように去っていった彼らに唾を吐いて、それから抱き締めてくれた。

「……アンタ、ばかね。嫌って言えば良かったのに」

「でも、ここはこういう場所です。それに……願い、願われたなら。望み、望まれたのならば。私はそうあるべきじゃないのですか? 師匠」

「そんなわけないじゃない。誰がアンタのことを貶めるのを許されてるの? いい、ナナシ。いずれ来るから教えておくわ」

 抱き締めたまま、彼は言う。


「貴方はいずれ、大切な人に出会うわ。唯一無二。他に並ばないほどに、大切な人。そして、貴方は彼を失うことが運命付けられてる。ねえ、胡蝶。きっと世界の全てがそのことを肯定する。でも、でも……貴方は怒りなさい。呪いなさい。嘆きなさい。命の全てをもって、この世界を呪いなさい」

「師匠? どうして??」

「……貴方にはその資格があるわ。世界の誰にもその権利は阻害できない。誰にもそのことを理解できない。アンタだけが……死ぬことを定められた英雄の死を、本気で嘆けるの」


 ねえ、師匠。教えてください。

 貴方は何を分かっていたのでしょうか。

 貴方は何を見ていたのでしょうか。

 そして貴方は誰だったのでしょうか。

 あの廃棄区画であんなに上等な衣を、結局私は見たことがありませんでした。なにかの神官のような神聖な衣に身を包んだ人も、あそこにはいませんでした。

 そうして私を救い出せるはずだったのに、私をあそこに置いていったのはなぜでしょうか。ねえ、師匠。

 貴方は。


 縄を首で括った遺体が揺れている。その前でなす術もなく、ただ座っている。座り、続けている。


 貴方は、この結末も、分かっていたのですか?


 答えはない。返ってくるはずもない。師匠も、あの人も、ここにはいない。答えを知ることは永遠にない。果たされない約束ばっかりが積もっていく。

 でももう、どうだって良かった。

 甘く黒く溶け落ちるような感情が胡蝶を飲み込んでいく。そうだ、もう、疲れた。誰かが去っていくのを見届けるのは、疲れた。もうなにも考えたくない。もうなにも。

「………………感じたくない」

 色と寄る辺を失い、羽をもがれた蝶ははらはらと静かに黒い沼の中に滑り落ちていった。


***


「アナタ、ちょっと胡蝶に冷たいんじゃないの」

 社員食堂を出ようとしてかけられた言葉に夜蝶は逃げ出したくなった足を辛うじて、踏みとどまった。


 アゲハの社員食堂は社員のために二十四時間食べられるように開かれている。代わりにメニューはある程度固定されており、夜に行けば夜型の社員に背徳のインスタントラーメンを振る舞ってもらえるし、昼に行けば健康かつ豊富なランチセットが社員を待つ。朝は和洋選べるきっちりした朝食が出てくる。

 勿論それだけでなく、遅めのブランチとしてパンケーキを焼いてくれる団員や、早めの朝御飯として簡単な朝食を振る舞ってくれたりもする。

 勤務時間を拘束しないという胡蝶の自由な発想が、この食堂には大変良い効果として反映されていた。ちなみに夜蝶は夕方から夜にかけて労働基準に触れない程度に働くのが好きだ。


 そして声をかけてきたのは、この食堂を取り仕切る女主人の華蝶かちょうだった。彼女は夜蝶とそう変わらない時期に入団した女性だ。

 猫背の夜蝶とそう身長が変わらない彼女は責めるように目を細めている。

「なんでおれが糾弾されなきゃなんねーんだよ……」

「あら、どんな理由であれ女の子をぶつような子は糾弾されてしかるべきでしょ?」

 何故この女はそのことを知ってるのか。思わず眉間のシワが深くなる。


 数日前、食事をとろうとしない胡蝶のことを平手でぶったのだ。既に口止めは終わったはずだったが……どこかで漏れたのかもしれない。

「それに白蝶はくちょうから抗議文が来てるわよ。ここのところかなり長い時間医務室に入り浸ってるようね、あの子。貴方、一応専属護衛なんだから」

「身を守っておけば護衛になんだろーが」

「夜蝶? 私達幹部は全員対等。そうよね?」

 華蝶はコードネームの由縁となった花のように鮮やかな紅色の髪をくるりと指先で弄ぶ。

「何が言いたい」

「さあ。場合によってはアナタを素揚げにするつもりって話だけど」

「お前の場合、洒落にならねえんだよ」

「ふん、私の胡蝶に冷たいアナタが悪いのよ。それともなに? ここで働いてるのにアナタまだ、、気にしてるの?」

 足が止まる。

「ふふ、ひどい顔」

 睨み付ける夜蝶を、華蝶は嘲った。


 アゲハの構成員のほとんどが廃棄区画の出身だ。だが例外も多くいる。その一人が、夜蝶だ。

 夜蝶の雇用条件は他とは違う。彼はただ、胡蝶が道を踏み外したときに殺すためだけにここにいる。夜蝶は、復讐のためにアゲハに入団したのだ。


「あの話はすんな。おれの方がお前を殺しそうになる」

「さすがは暗殺者のプロね。怖いわ……」

 華蝶は黄緑の瞳を細めた。彼女は廃棄区画出身だが、立ち位置はどちらかと言えばこちらよりだ。もっとも、彼女は絆されているが。

「でもここにいれば嫌でも、あの子がどんな子か分かるでしょう? それでもまだ許せないの?」

「許せる許せないじゃねえよ。おれが許してどうなるんだ」

「どういう意味?」

「…………おれが許したら、罰したいあいつから、誰があいつのことを守ってやれるんだってことだよ」

 華蝶の目が見開かれる。定食の乗っていたお盆を返却口に乗せればすぐに奥に撤収された。華蝶は言葉の意味を口の中で数回反芻してから、やがて呆れたように溜め息をついた。

「………………素直じゃないのねえ」

「っるせえ。A定食、うまかったけど脂っこかった」

「はあ。分かったわ。今後の参考にしておくわ。珍しいことが聞けたからね」

 華蝶の言葉に何も言い返せなかったのは偶然だ。

 別に、後ろめたい訳じゃない。



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