第15話 英雄と言う業《Ⅳ》

 血迷ったことを言っている時雨の横でふと、何かを期待するような、けれど言い出すことを躊躇っているような灰と視線がぶつかった。

 兄、と言うにはお互いの関係が近すぎる。父でもない。うまい言葉が見つからない。だが灰だけ仲間はずれは胡蝶も嫌だ。

 ……と、なると。


「灰」

 噛み締めるように、二つの音を発した。時雨と松仙が驚いたようにこちらを見る。灰も現実が受け入れられないと言うようにこちらを見ている。


 もしかしたら名前なのが気にくわないのかも知れない。でも仕方ない。相応しいのが見つからなかったのだから。

 だからこそ、何故だかそうすべきだと思った。

 たっぷりの、春の木漏れ日を集めたような、或いは甘くて酸っぱくてくすぐったい、形容できないこの感情を含ませて、また唇を開く。さっきよりもずっと、その感情をこめて。


「灰」


 優しさでもなくて、親しみでもなくて、惜しむような、切ないような、けれども何か甘く優しいその感情に彩られたその音が、特別な音になればいいと思いながら口にすれば、先の松仙のように彼の頬が赤く色づいた。

「……う……あ…………っ……」

 慌てたように口を動かす彼に首を傾げる。

「灰? どうかしたのか?」

「そ、の、呼ぶな……変な、気持ちになる」

「……?? 嫌だったか? ならもう呼ばないけど」

「そうじゃない! ……そうじゃない、が……もう呼ばなくて、平気だ」

 灰の言葉に心底理解できずに戸惑う。

 別に時雨や松仙のように見るからに阿呆もとい阿呆の反応をして欲しいわけではない。ただ、喜んでもらえなかったのならば……。

 ……或いは、嫌われてしまったのならば。


 胡蝶が俯くと頭の上に重みがのし掛かってきた。

「うんうん。落ち込むよねぇ、あの言い方は」

「なっ……」

「まあでも仕方ないよ。胡蝶の情緒発達レベルだと理解できないだろうしねえ」

「わ、私が悪いみたいに言うな!!」

「あ、灰、逃げた」

 廊下の方に姿が消えた。時雨が仕方ないな、と言いながら立ち上がって伸びを数回する。

「ボク、灰を追いかけてくるよ」

「頼んだよ、時雨」

 時雨もまた出ていった。思わず不愉快だと言う感情のままに頬を膨らませてしまう。松仙はその様子に苦笑した。

「難しい?」

「…………」

「胡蝶」

「………………人の心は、ひどく難解で、複雑だ」

 絡み合い、ほどけることはなく、奥行きが広まるのに、平面的で、平然と、裏と表を許容し、本当のことを隠したがる。

「……………………オレは多分、そのほとんどを理解できていない」

 金色に煌めく瞳が無気力に俯く。思いの外暗くなったその声に松仙は頭をそっと撫でた。


***


「こーんなところにいたの? 風邪引くよ、灰」

 かけられた声に自暴自棄になって飛び出したはずの神之瑪しののめ 灰は瑪瑙の瞳を持ち上げた。

「……よく分かったな」

「狼の鼻をなめないでよね。これくらいなら匂いで分かるよ」

「なるほどな。家出なんてしたことがないから、分からなかった」

 洋館の隅のコンクリートで膝を抱える灰を笑いながら時雨もまた、隣に腰を掛けた。

「キミの情緒発達もまだ未熟だったかい?」

「………………そんなことは、無い。あれが何か、オレには分かる」

「そっか。大人になったんだね、キミも」


 もう春だと言うのに少し冷え込んできた夕暮れに、息を吐く。そう言えば花冷えと言う言葉があるのだと、どこかで知った。

「でも、あの言い方は良かなかったとボクも思うよ」

「…………」

「怖い?」

「はっ……怖い?」

 鼻で時雨の疑惑を笑った灰の顔が苦しそうに歪む。その腕に刻まれた黄金の紋章を、布の上からかきむしるように身体を小さくする。

「怖いに決まってるだろう。私は良いんだ、私は。彼女に幾らでも、この感情を、心を、魂だって切り分けられる。構わない。けれど……けれど。もしも彼女が、自分の気持ちに気が付いてしまったら?」

 震えた声で彼は吐き出した。

「彼女が、オレと他人との価値の違いに気が付いたら?」

「傲慢だね」

「本気でそう思ってるのかね?」

 灰の黄昏の、痛みすら含んだ瞳に時雨は口を閉ざした。頭の中で彼を傷付けない言葉をまた、模索する。


「……ううん。認めるよ。確かに胡蝶のあの声には、ボクらを呼ぶのと全く別種の感情が込められてた。でもキミはなぜ、それを恐れるんだい?」

「………………父と母は私を愛さなかった」

「灰。それは言い訳だね?」

 俯いたまま、答えない。

 やがて、おずおずと、怯えるように、また口を開く。

「彼女からの、気持ちを受けとるのが、怖いんだ」

「どうして?」

「……………………誰も、本当は傍にいてほしくない。オレは怖い。怖いよ、時雨……オレは最近、良いかなって思う」

「良いって?」

「…………大切な君たちのためなら、死んでも良いかもしれないって思うんだ」

 息が、止まった。


 神之瑪しののめ 灰はずっと死にたくないと言っていた。死にたくない、死にたくないと。世界のために生け贄になるのは嫌だと。心の底からの願いだったはずだ。

「覚悟が緩くなる。もし、もしも……もしも、彼女が、本当に、私を、愛してくれたら? その彼女が辛い目に遭ったら? 私は、私はその時……躊躇いなく、彼女を見捨てられるのか?」

 黄昏の瞳からこぼれ落ちる涙が頬を伝い、地面に落ちていく。

「無理だ、時雨。オレは、私は大切に思ってくれる君達を捨てて、君達のためにきっと死ぬ。オレは多分、それで良いって思う。オレはエゴイストだから。でも、なら……それなら」

 死の恐怖ではない。

 彼はもう、それがない。


「……遺された君達は、どう思うんだろうな」

「キミ達は、いつも……同じことばかりを気にするんだね」

 いつか、遠い日の雨の降る森の中で心配そうに己を見ていた旧友がいた。彼はずっと、気にしていた。遺された者のことを。

「それなのにボクや胡蝶を内側にいれたの?」

「我ながら大した矛盾だと思う」

「……昨日の夜、胡蝶にいなくなるなよって釘を刺されちゃってさ」

「………………いなくなろうとしたのか?」

 笑って答えに代える。


 時雨は正直、もう己は要らないだろうと思った。

 自分がいなくても神之瑪しののめ 灰は笑える子供になった。自分にできるのは、ここまでだと。


「ねえ、灰。キミが、彼女か、世界かを迫られたら間違いなく彼女を選べば良い。キミも死なないで、彼女も救うなんて、虫の良い結末を探せば良い。いなくなるのが怖いなら、いなくなるなよ」


 銀髪をそっと撫でる。血の繋がった、愛しい家族。時雨にとって愛しい群れ。時雨にとって二番目に己と対等な人物。


「ボクは祈るよ。キミの幸福を。他人を傍に許せるってのは凄く特別なことなんだ。だから、ボクはキミや胡蝶に、そういう未来を過ごしてほしい……廃棄区画や戦争なんてものから生まれたキミ達は、例えどんなに血濡れてても、幸せにならなきゃ」


 そうでなければ嘘なのだ。

 冷徹なる軍人。地上に君臨した地獄から生還した二人は、特に。

「まあ、キミも難儀だね……〈朝比奈計画〉の被害者にして唯一の成功例、神之瑪しののめ 灰」

「今は君の息子をしてる」

 黄金の屈託のない瞳に時雨は笑みを溢す。

「それもそうだね。さ、遅くなる前に戻ろう。あんまり時間がかかると桜華がうるさいや」

 夜の帳が空を覆う。傍にたっていた木に止まっていたらしい鷹が飛び立った。


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