最終話

 今夜はあなたに会いに行ける。そうメールをして数時間が経過した。いつもならこんなにも時間はかからないのにと、不思議な感じがした。会議を済ませる頃には返信があるだろうと思われたが、スマホは黙ったままだ。

 会議の終了後に事務室でメールボックスを覗いたら、久しぶりにあなたからの手紙が入っている。メールの返信がないというタイミングでアナログの手紙が届くのがなんとはなしに不吉で、私は嫌な予感を抱きつつ研究室へ向かった。

 ペーパーナイフで丁寧に封を切り、便箋を取り出す。なにが書いてあるのだろうか。大きく深呼吸して、私は手紙を開いた。



 前略


先生、突然に姿をくらませるご無礼を、心からお詫び申し上げます。

私は先週、東京に引っ越しました。詳しい住所は申し上げられません。どうかお許しくださいませ。

先生のことを、今でもお慕い申し上げております。

ずっと一緒にいられればどんなにいいかと、今も泣いてばかりおります。

先生、私は、先生の子どもを授かりました。小さな町の中で、人に知られずに、子どもを産み育てることは困難です。東京であればなんとかなるかもしれないと、学生時代の友人を頼りに引っ越してきました。

どうかご心配にならないでください。そうは言っても心配だと仰るかもしれませんが、もうこのまま私を忘れていただきたいのです。

雪の精のまま、先生の前から去らせてください。わがままをお許しください。

しばらくの間、私を愛してくださって、心から感謝申し上げます。ありがとうございました。

先生のことは、一生忘れません。

暴力から逃れられるきっかけも頂戴しました。

新しい仕事や一人暮らしもしてみて、自分に自信も持つことができたのです。ありがとうございます。

どうか私を探すことなく、このままそっとしておいてくださいませ。

末筆ながら、先生のお身体のご健康を、ずっとずっとお祈りしております。


かしこ



 私は冷や汗を流しつつ、なんども電話をかけた。通じてはいるが、出てはもらえない。メールをしても、返信はない。どうすればいいのかわからず、誰も相談できる人はおらず、なにもできなかった。わかるのは切手に残された「新宿」の消印だけだった。

 妊娠していることを知らされて、平気でいられる男はいない。探偵でも雇えば調べはつくか。つくに決まっている。しかしその後、なにができるというのか。

 なにひとつできないまま、私は自分を責める毎日を送るしかなかった。仕事はできるが、生活は荒れた。妻に心配をかけ続けた。酒が増えたし、血液検査の数値が悪化していった。一気に老け込み、見た目がすっかり老人くさくなってしまった。


 一年以上の時間がいつの間にか経過して、その冬の初雪が降った。

 持病の検査に病院へ行った帰り道、駅の改札を通過すると、駅前で薄いピンクの傘が目に入る。ああ、ゆりさんの傘のようだ。あなたはなにをしているのだろう。ぼんやりと立ち止まってピンクの傘を見つめていたら、その人は視線を感じたのか、こちらを振り返った。

「ゆり、さん」

 間違いなかった。少し雰囲気は変わっていたが、あなただ。あなただった。あなたは私を見て少し驚き、そして薄く微笑んだ。

「先生」

 私はもう走れるほど元気はなかった。持病で、胸が苦しかったので。

「先生、お久しぶりでございます」

「帰ってらっしゃったのですか」

「はい、先月」

「あの、子どもは、子どもが産まれたのでは」

 あなたはひどく寂しそうな顔をして、ゆっくりと口を開く。

「死産でした。あの子はもういません」

 なんということだ。私は涙が出てきそうだった。

「私も身体を壊しまして。慣れた土地に帰ってきました」

「そうでしたか」

 そうでしたか、ではない。言うべきことはほかになかったか。私はうまく言葉が選べず、ただ黙って頭を下げた。

「先生、なんですか。お顔をお上げください」

「申し訳ない、なんと言ってお詫びすればいいのか」

「どうしてですか、どうして先生が謝るのですか」

 どうしてだか、よくわかっていなかった。あなたは手を伸ばしてきて、無理やり私の頭を上げさせた。あなたを苦しめたのは、きっと私だ。どんなに苦労しただろう。陳腐な罪悪感が胸の中に広がって、いやな気持ちだった。

 しかし目の前のあなたは、優しそうに微笑んでいる。背伸びして、私の耳元に口をよせて、そっと囁いてきた。

「今でも先生のことが好きです」

 息をのむ。好いてもらえるような男ではないのに。いいだけ好きにして、なにも助けてあげられなかったというのに。

「本当です、だからまた、お手紙します」

「ゆりさん、こんな私など」

「先生が好きなんです、今でも」

 大きな目が、ぱちぱちと瞬きする。化粧のしかたが変わったのだろうか。それとも、口紅の色か。髪の毛も少し短くなっているようだ。それでもふんわりと艶のある長めの髪に、私は再び触れたいという思いが湧き上がる。

「これからも、私を好きでいてください」

「ゆりさん」

「私に飽きないで。またお手紙します」


 数日後、大学のメールボックスに手紙は届いた。あの日と同じ、桜色の封筒だ。少し重みがあるので気をつけて開いてみると、鍵がひとつ入っている。そして桜色の一筆箋に、我が家からそれほど遠くないアパートらしき住所が書いてあった。


『いつまでも、お待ち申し上げております。 ゆり』


 わずかな添え書きを読み、私はその一筆箋を胸に抱きしめた。あなたがいる。会いたい。こんな老いぼれた私を、求めてくれる雪の精のようなあなたが。

 もう、どうなっても構わない気がしていた。あなたと一緒にいられるのならば。仕事さえしていれば、なんとかなる。仕事柄、定年はまだ先だ。なんとかなる。どうにでもなる。どうにでも、してみせる。


 あなたの新しい部屋を訪れる。あなたは笑顔で迎えてくれた。玄関先で抱きついてくる。私はあなたのあたたかい頬に触れ、唇に触れた。

「先生、ずっと一緒にいてください」

「頼むから、もう消えないでくれ」

「消えません。たとえ先生がいやがっても、絶対」

「嫌がらないよ」

 嫌がるなんてできるわけがなかった。どうにでもしてやろうと思った。あなたにたとえ殺されても、私はそれでいいと考えていた。雪の精に殺されるのならば、本望だ。雪は死のような静寂を連れてくる。


 あの日あのとき、あなたに魅了された瞬間から、私の命はあなたに吸い取られる運命にあったのかもしれない。

「愛してるよ、ゆりさん」

「嬉しい、先生。私もです」

「死ぬときは、あなたのそばで死にたい」

 あなたは私に静かに口づけた。深く浅く、息が止まるほどに、苦しい口づけだった。息が、苦しい。それでもいい。


 もう一度、私の前に姿を現してくれた。それだけで、もう、いいのだ。


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雪の華 鹿島 茜 @yuiiwashiro

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