第3章 過去の彼女と、向かい合う

第17話 行きの道を辿る(SIDE耕平)

 家事以外は窓辺に座り、のんびり雪景色を眺めている姿しか知らない耕平は、やると決めた時の千波の行動力に驚かされた。


「気温が五度と聞いて暖かいと思う日がくるなんてなぁ。運動靴、持ってきてよかった」


 車の外へ出て「寒くない!」と感動している千波の横顔を、耕平は注意深く観察する。


 伸行の家で正月を過ごした深夜、千波はまた嘔吐した。

 胃痛がするのは前からよくあるのだと言って胃薬を飲む千波へ、病院で検査してもらおうと耕平は提案したのだが、やんわり拒絶された。

 体ではなく心の問題だとわかっているからこそ、医者にはかかりたくないと千波は言うのだ。

 病院には行かないけど、嫌なことはさっさと終わらせたいから東京に行ってくると告げた千波を一人で行かせるのが心配で、こうして耕平は、共に東京までやって来た。


 千波は、自分で自分を追い込んでしまうところがあるのだと、短い付き合いの中で耕平は気付いていた。

 今、千波がこうして無理をしてでも前に進もうとする要因に自分がなっていることも、自覚している。

 だが、早くどこかへつなぎとめなくては、ある時ふらりと消えてしまう。千波にはそんな危うさがあるのも事実。


 耕平にも、何が正解なのかはわからない。

 それでも耕平は、出会ってからやっと一月が経った及川千波という女性を失いたくないと、強く望む。


「切符で電車に乗るなんて、子どもの頃以来だな」


 都内のホテルへチェックインして荷物を置き、ここまでの移動手段として使っていた耕平の車は、ホテルの駐車場へ置いてきた。


「北海道に、早く帰りたいね」


 明るく取り繕った表情の合間、たまにこぼされる千波の本音。聞き逃さないようにしようと、耕平は決めている。


「やっぱり東京は、人が多いよな」


 先頭車両の端に立つ千波を腕の中へ囲うようにして、耕平は窓の外へ視線を向けた。


「耕平くんが電車に乗ると、吊り革じゃなくてその上の棒をつかむんだね。どこに立ってもよろけずに済みそう。サラリーマン時代は、満員電車に乗ってたの?」

「なんかデカい人が乗ってきたって、迷惑そうな顔をされてたな」

「満員電車の中ってギスギスしてるもんね」


 目的の駅にたどり着き、千波の案内で改札を抜ける。

 松の内ではあるものの正月休みは終わっていて、平日の昼間でも人の多い商店街を抜けた先。一棟のマンションへ、二人は入った。


 オートロックの自動ドア横にあるテンキーボックスへ、千波が部屋番号を入力する。

 少しの間の後にスピーカーから聞こえたのは、画面の映像を確認したのだろう相手の、慌てた声。


「お前っ、千波!」


 応答したのは、男性だった。


「うん。千波だよ。開ーけーてー」


 明るい声だ。

 だが、手が微かに震えていたから耕平は、ほっそりした千波の手を握った。


 自動ドアが解錠され、エレベーターへ乗る。


 エレベーターが止まった階では、一人の男性が待ち構えていた。


「とりあえず、うちの中へ入れ」


 千波の姿を見てほっとした後、耕平を見上げて眉根を寄せた男性に導かれ、マンションの一室へ入る。


「千波ッ! 俺たちがどれだけ心配したと思ってるんだ!」


 玄関のドアが閉まった途端、男性が怒声を上げた。


「だから、年賀状送ったじゃん」

「あれじゃ何もわからないだろ! 住所もなく、消印見て驚いたんだからな!」


 男性は千波の腕をつかみ、廊下を進んでリビングへ入る。


「痛い。お兄ちゃん、痛いよ」


 耕平も靴を脱ぎ、慌てて二人の後を追った。


「北海道って、旅行か? 仕事はどうした? 今までどこにいたんだ!」

「怒鳴らないでよ」

「怒鳴りたくもなる! 連絡は取れないし、家に行ったら引き払われてるし、警察にも行ったんだぞ! いい年した大人の取る行動じゃないだろッ」


 ハラハラしながらも、耕平には見守ることしかできない。


「死のうと思ったんだけど、助けられたの」


 千波がはっきりそれを告げるのを聞いたのは、初めてだった。

 察してはいたものの、本人の口から聞くとやはり、動揺してしまう。


 目の前の男性は耕平以上にショックを受けた様子で、つかんでいた千波の腕から手を離す。


「死のうと、したのか」


 あまりに衝撃を受けると、人はこうも表情が抜け落ちるものなのかと、千波の背後に立ちながら耕平は思った。


「……その人は?」


 視線が向けられ、会釈で応える。


「森野耕平と申します」

「この人が、私を助けたの。今は彼の所でお世話になってる」

「生きていたくないとは昔から言ってたけど、冗談だと思ってたのに……」


 何をどう処理していいのかがわからないのだろう。男性は、ダイニングテーブルの椅子を引いて、力が抜けたように腰を下ろした。


 千波が振り向き、耕平に男性を紹介する。


「兄の及川海晴おいかわかいせい、三十七歳。海に晴れって書いて、カイセイだよ。ほんと、海が好きな親だよね」

「千波がマイペースなのは知ってるけど、今お兄さん、それどころじゃなさそうだぞ」

「事実を咀嚼するのって、時間がかかるよね」

「ご両親にも、同じことを言うのか?」

「それはお兄ちゃんから状況を聞いて決めようと思ってたんだけど、お兄ちゃんがこんなにショックを受けるのは、流石に想定外」

「相当心配したんだろ」

「あいてっ」


 こつん。千波の頭を軽く握った手の甲で小突いてから、耕平は椅子に座る男性の前に正座した。


「海晴さんとお呼びしてもいいですか?」

「へ? あぁ、どうぞ。あぁすみません。妹の命の恩人に、何のお構いもせずに……」

「気になさらないでください。千波さんが、死を望むような発言を始めたのは、いつぐらいからなんですか?」

「いつから……。確か、中学の頃から少しずつ、口癖のように言っていました。大人になってからは、千波の刹那的な生き方を心配していたんですが」


 千波が黙ってキッチンへ向かおうとしたのに気付いて、慌てた海晴が手首をつかんで止める。


「何をするつもりだ!」

「お茶淹れようかなって。安心してよ。人様の家の包丁使って、突然自分の喉元掻っ切ったりなんてしないから」


 海晴の顔面が蒼白になる。


 自分の冗談が相手に与えたダメージを見て取って、千波は気まずげに視線を反らした。兄の手が離れようとしないため、少し迷ってから、海晴の隣の椅子へ腰を下ろす。


「どうして、死のうとしたんだ?」


 座った千波へ、海晴がぶつけた質問。


「生きてることに、必要性を感じないから」


 千波は淡々と答えた。


「俺や母さんたちが、悲しむとは考えなかったのか?」

「考えたよ。考えたからこそ、ここまで生きてきたの。でなければ、もっと早くに生きるのをやめてた」


 だけどと、千波は言葉を続ける。


「自分以外の人間がこうむる悲しみと、私自身が背負い続ける、終わりのない苦痛。それを天秤にかけたら私は、終わらせるほうを選ぼうと思ったの」

「何が、そんなにつらいんだ?」

「何がって……生きてることがつらい。存在していることが、私にはつらいの」


 溜めた息を吐き出すように、千波は言葉を吐き出す。


「どうしてみんなが頑張れるのか、私にはわからないんだよね。私は産まれることを望んだ覚えはないし、死ぬほうがコスパが悪いから生きてるだけ。なのに生きるために必要だからって、労働という苦痛に従事するのも意味がわからないんだよ。でも生きている限り何もしないわけにはいかないでしょう? だって、どれだけ望んでいなくとも私は、及川千波という人間は世界に存在してるんだから。その状態で何もしないを選ぶなら、それは死ぬのと変わらないって、気付いたの」


 千波の視線は、兄と、耕平の反応もうかがっているようだった。


「どうしてそこで死と結びつけるのかが、兄ちゃんには昔からわからない。何もしなくていいよ。生きててくれれば、いいんだ」


 兄の切実な言葉を、千波は呆気なく否定する。


「それは綺麗事だよ、お兄ちゃん。生命活動とは切り離した何もしないをするとしよう。それは誰かに寄生することで、私を生かすために誰かが被害を受ける。生きることを望まない人間が、頑張って生きている人に迷惑を掛けるなんてもっと意味がわからない」


 普段の会話と変わらない声音。普通の会話をする時の表情で、千波は自分の主張を口にした。

 耕平は、目の前で繰り広げられる兄妹の会話を、黙って見守る。


「自殺だって、迷惑を掛けるじゃないか」


 海晴は、泣きそうな表情になりながらも反論した。


「いっときだよ。生きて迷惑を掛けるよりも短い時間なんじゃないかな。骨になれば、それで終わりだよ」

「いっときなわけあるか! 遺された俺たちはずっと悔やむことになる。なんで助けられなかったんだろう。どうして、気付いてやれなかったんだろうって」

「だから透明人間になったの。私の存在がみんなの日常に存在しなければ、私が消えてもそこまでの痛手にはならないでしょう?」

「そんなわけないだろう! 俺は気付いたぞ、千波がラインから消えたことに! 母さんだって、千波が車を買うんだって、書類を持ってきた時に何かおかしいって思ったんだ。それで俺に連絡してきて……。年賀状だって、笑って写ってるお前を見て、どれだけほっとしたか」


 片手で顔を覆い、声を震わせ涙をこぼす兄を見て、千波はまつ毛を伏せる。


「でもね、お兄ちゃん。私はつらかったんだよ。ずっとずっと、つらかったの。頑張ったよ、生きなきゃって。大好きなお兄ちゃんやお母さんの、傷になりたくなくて。汚いシミとして、残りたくなくて、たくさん、もがいた。考えたの。だけどもう私……頑張れなくなった」

「一言、相談してくれたらよかったんだ」

「相談して、何が変わった? それぞれの生活があって、それぞれに、それを守るので精いっぱいな中で。どうにかできるような問題じゃないんだよ」

「それでも! 千波は、独りじゃなかったんだ」

「独りじゃなかったからこそ、苦しかったのかもしれないよ」

「俺たちが……お前を苦しめたのか?」


 兄の言葉を否定するため、ゆるゆると、千波は首を横に振る。


「大切なものがあったから、諦められなくて。諦められなかったからこそ、苦痛は続く。そんな感じ。全部、私の問題」


 妹に掛けるべき言葉が見つからなくなったのか、海晴は右手を伸ばし、千波の手をそっと握る。

 兄の手が触れて、千波の顔が一瞬、泣きそうに歪んだ。


「ごめんね、お兄ちゃん」

「謝らなくていい。だけどどうか……諦めないでくれ。兄ちゃん、一緒に考えるから」

「うん。お兄ちゃんは、そう言うと思った。でも私は、重荷になりたくないの」

「なら、どうしたらいいんだよっ」

「そこでね、そこに正座している彼に話がつながるんだけど」


 海晴が涙で濡れた顔を上げて、困惑したように、千波と耕平を交互に見た。


「この度、私は彼に寄生して生きることとなりまして」

「ごめん。ちょっと兄ちゃん、千波の言葉がわかんない」

「寄生って言い方、なんか嫌だなぁ。でもまぁ、寄生してくれて構わないんだけど」


 兄と耕平、それぞれの顔を見て、千波は微笑む。


「とりあえず、まだもう少し、生きるのを頑張ってみようと思えるようになったってこと」

「そうなのか? もう妙なことは、考えないか?」

「約束はできない」

「俺が約束します。つらいよりも楽しいが増えるように、生きるのも悪くないもんだって、千波さんが思えるような人生を、俺が一緒に歩みます」

「えーっと……森野さん、でしたか?」

「はい」

「千波の命の恩人だとは伺いましたが……」


 混乱して口ごもる海晴へ、千波が告げた。


「私、彼と結婚することにしたの」


 驚いたのか、ほっとしたのか。

 泣いていいのか、笑うべきか。

 どんな反応をすればいいかがわからない。そんな表情で涙を流しながら海晴が立ち上がり、椅子に座ったままの千波を両手で抱き締める。


「このっ、バカ妹! おかえり! 生きててよかった! だけど結婚の件はちょっと待て。理解が追い付かねぇんだよ、このバカ!」

「ごめんね、お兄ちゃん。ただいま」

「おかえり。おかえり、千波っ」


 しばらく、海晴の涙は止まらなかった。

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