第16話 新しい年

 大晦日は一日天気が荒れていて、千波と耕平はベッドの中で着替えもせず、たくさんの映画を観た。

 食事は前の日に立松家で作ったおせちを食べ、夕飯にはそばを食べる。


「こんなに映画を一気に観たの、初めて」

「俺も」

「動画配信サービスって便利だね」

「東京にいた時は、契約してなかったのか?」

「うん。人の声をずっと聞いてるのって、なんかダメで。だから、映像より漫画派だった」

「今日は、よかったのか?」

「うん。楽しかったよ」

「ちなみに俺の声は?」

「好き。安心する」

「そ、っか」


 赤面した耕平に気付き、千波は微笑んだ。


「耕平くんと一緒だと、大丈夫なものが、増えていく。不思議」


 穏やかな千波の顔を見て、耕平も柔らかな笑みを浮かべる。


「千波は、他には何がダメ? 何が嫌い?」

「たくさんあるよー」


 くすくす笑いながら、千波が仰向けに寝転ぶ。

 耕平も、隣で同じように寝転んだ。


「好きものは少ないのに、嫌いなものばかりで。やりたいことはなくても、やりたくないことばかり」

「たとえば?」

「接客が大嫌い」

「ああ。だろうな」


 千波らしいと、耕平は笑う。


「会社の電話に出るのも、嫌だったなー」

「うちの母ちゃん、感じがいいお嬢さんねって褒めてたのに」

「接客も電話応対もそつなくこなせるよ。でも、好きか嫌いかと、できるできないは別でしょう?」

「うん。なるほどな。他には?」

「他に? 他にはねー、普通って言葉」

「普通なんて、その人の尺度で変わるだろう?」

「私もそう思う。普通はこうだろうっていうの、お父さんの口癖なの」

「……千波は、親父さんが嫌いなのか?」

「嫌いというか、苦手かな」

「おふくろさんは?」

「嫌いではない」

「兄貴」

「大好き」


 千波の口から出た大好きの言葉が珍しくて、耕平は起き上がる。

 耕平の反応を見上げ、千波が楽しそうに笑った。


「昔はね、お兄ちゃんと結婚するって、本気で考えてた」

「俺のライバルか。したら、兄貴が結婚した時は、寂しかった?」

「ううん。私にもお姉ちゃんができるのかって、わくわくしたよ」

「姉ができた感想は?」

「感想は……」


 表情をかげらせ、もぞりと千波が動く。

 耕平の腿へ頭を載せて、甘えるように、指先で耕平の手の甲を撫でた。


「最初は、うまくやれそうだったの。でも段々、会うのが苦痛になっちゃった」

「どうして?」

「会うたびに少しずつ、ああこの人、私をバカにしてるんだって、気付いたから。性格が合わなかったんだね」


 脚の上にある千波の頭を撫でながら耕平は、東京で生活していた頃の、千波を想う。

 少しずつ少しずつすり減って、傷付けられて、段々頑張れなくなっていったのだろう。


「耕平くんは、嫌いなものはあるの?」

「ある。暑いのが嫌だ」

「沖縄に行ったら大変?」

「汗だくになって、へばるな」

「他には?」

「話の通じない相手」

「私もそれは嫌いだな」

「じゃあ次、好きなものは?」


 耕平に頭を撫でられて気持ち良さそうにしていた千波が、うーんと唸る。


「耕平くん」

「待って。それずるい。不意打ち過ぎる」

「だって、好きなものってあんまりから。咄嗟に思い付かない」

「他に、ないの?」

「あ、思い付いた。ぼーっとするの、好き」

「よく、リビングの窓から外を眺めてるよな。何考えてるのかなって、思ってた」

「何にも考えてないよ。夕飯何作ろうかなとか、動物横切らないかなって、たまに考えるぐらい」

「漫画をよく読んでたんだろ? オススメ、教えてよ」

「えっとねー」


 二人で耕平のスマートフォンを覗き込み、千波がよく使っていたというアプリをダウンロードする。


「千波用に、新しいスマホ、買うか?」

「いらない」

「続き読みたい漫画、ないの?」

「どうしても読みたい物は、ないかな」

「そっか」

「うん」


 耕平が千波の顔を覗き込み、キスだなと気付いて、千波は目を閉じた。

 優しく触れ合い、すぐ離れたことに物足りなさを感じて目を開ける。


「年が明けたら、森野千波にならないか」


 千波の反応をうかがう、耕平の視線。


「耕平くんとの結婚は、私にはメリットばかりだけど、耕平くんが得るものがなさ過ぎるよ」

「そうか? 俺は千波とだったら、すごく幸せになれる予感がしてる。現に今、かなり幸せだ」

「私、何もできないし、何も持ってない」

「千波は千波しか持ってない」

「なんだそれ」

「一人じゃ重くて背負いきれないんだったら、俺にも一緒に、千波の人生を背負わせて欲しい」

「……重いよ。重過ぎるよ、きっと」

「添い遂げるなら、俺は千波がいい。この辺りじゃ店がないから、一緒に札幌に指輪を買いに行くのはどうだ?」

「とても、素敵な提案だと思う」


 耕平が安堵したように息を吐き出して、千波を抱き締める。


「頑張ってここまで来てくれてありがとうな、千波」


 千波は何も応えられず、だけど何度も頷きながら、顔をくしゃくしゃにして涙をこぼしていた。


   ※


 目が覚めて、耕平の存在を感じる瞬間が、この上なく幸せだ。


 耕平よりも早く目が覚めると、千波はしばらく彼の寝顔を眺める。

 どうしようもなく愛しくなって、眠る耕平の唇に、キスをした。

 すぐに離れようとしたのに背中に耕平の手が回されて、キスが深くなる。


 耕平の男らしい額を撫で、柔らかな髪を撫で、唇を重ねながら、千波は微笑む。


「あけましておめでとう、耕平くん」

「あけましておめでとう、千波」

「今年もよろしくね」

「こちらこそ、よろしく。なぁ千波。もう少し、イチャイチャしよう?」

「お雑煮作る約束したじゃん。森野家のお雑煮を教えてよ」

「まあ、腹は減ったな」


 大きなあくびをしながら、耕平が起き上がる。

 千波も起き上がり、ベッドを出ようとしたが、耕平の腕が腰に巻き付いて阻止された。

 大きな手が不埒な動きを開始するのを、つねって止める。


「私、あんな……卑猥な年越し、初めてなんだけど」

「卑猥って言うな。愛を交わしあったんだ」

「健全な元旦を過ごしたい」

「愛を交わすのは不健全じゃないぞ」

「ねぇ、あれが気になるの。神棚にあるお菓子。今日食べるんでしょう?」


 耕平の書斎には神棚がある。

 毎朝耕平が掃除して、水を変え、手を合わせているのだ。


「口取り菓子? そんなに気になってたのか」

「関東にはない風習だから」

「和菓子、好き?」

「あんまり食べないけど、羊羹は好きだよ」

「したっけ、神様からいただくか」


 顔を洗い、歯を磨き、着替えてから二人並んでキッチンに立ってお雑煮を作る。


「お餅、とろとろにするんだね」

「千波の家では?」

「焼いたお餅に汁を掛けて食べる」

「とろとろがうまいのさ」


 千波にとって初めて食べる具沢山のお雑煮は、甘じょっぱくて癖になる味だった。


 朝食の片付けの後で、雪かきのために外へ出る。

 この後の口取り菓子をおいしく食べるため、千波も一緒にやることにした。


「毎朝雪かき、うんざりしない?」

「するよ。春が来るとほっとする。千波もここで春を迎えたらわかるよ」

「その前に流氷を見ないと」

「待ってれば、じきに来るさ」

「あれ乗りたいの、船。自分で払うから、一緒に行かない?」

「俺が払うのに」

「いいの。旅の終わりの、区切りにしたいから」

「そっか。わかったよ」


 雪かきを終え、家に戻って緑茶を入れる。

 書斎に向かう耕平について行き、千波も神棚に手を合わせた。


 ダイニングテーブルに置かれたお菓子の箱を見て、千波は顔を輝かせる。

 タイ、エビ、サクランボなどを象った可愛らしい和菓子が、小さな重箱のような入れ物に詰められている。


「これ、形に意味はあるの?」

「タイは、めでたいで縁起物だろ。エビは長寿」

「サクランボは?」

「夫婦円満。竹が、子孫繁栄。笹は商売繁盛だったかな? 昔は、北海道ではおせちの材料なんて手に入らなかったから、その代わりの物だったとか。いろんな由来があるらしいけど要は、縁起物」

「へえ! どれ食べよう?」

「願いを込めて、半分ずつ食べる?」

「そうしよう!」


 甘いお菓子を食べて一息ついたところで、耕平が提案する。


「健全な元旦を過ごすなら、初詣に行くか」

「行く! こんなに雪が積もってても、初詣ってできるの?」

「できるよ。ちゃんと除雪されてるから。初めてだし、稚内にある有名な神社に行こうか」

「片道、一時間ぐらいかかるよね?」

「まあ暇だし。ドライブしよう」

「うん!」


 元旦は初詣に行き、二日は耕平の友人の集まりに参加した。

 年始早々顔を合わせるのは、同級生の友達夫婦とその子どもたちと、伸行の親族。

 耕平にとっての恒例行事だが、千波の反応次第では、今年は参加しないつもりだった。


「人付き合いってきっと、慣れでしょう? これまでは努力する必要性を感じないから避けてきたけど、今は違うから」


 耕平と共に生きると決めたのだから、変わりたいのだと、千波は告げた。


 集まる場所は、伸行の家だ。

 耕平が勝手に玄関を開けたことに千波は驚いたが、来客に気付いて飛び出してきた子どもたちの姿にさらに驚き動揺して、耕平に身を寄せる。


「コウ兄、やっと来た! あけましておめでとうございます! 今年もよろしく遊んでくれ!」


 一番年上の男の子の言葉にならい、二人の男の子が新年の挨拶を繰り返した。

 その後ろから、倫子の娘の新菜ともう一人別の女の子が姿を現し、走ってくる。


「ちなちゃんだ!」


 新菜が脚に抱きついたことで、千波はよろけた。それを耕平が片腕で支える。


「誰?」

「知らない人がいるー」

「ちなちゃんだよ。にーなのおともだち!」

「父ちゃーん! コウ兄が女の人連れてきたー!」


 一番年上の男の子がリビングに向かって叫んだ声に、伸行の声が「東京から来たお嫁さんだべや! きちんと挨拶すれ!」と答えた。


「新菜以外はみんなはじめましてだな。この人は俺の大事な人。千波ちゃんだよ」


 新年の挨拶と初対面の挨拶を終わらせ、耕平に上がるよう促され、千波も靴を脱ぐ。

 立松家での様子を知っていたから、耕平たちにとってはこれが通常なのだろうと、千波は納得した。


 リビングに行くと、知っている顔と知らない顔が混在している。


「来たか耕平! あけおめ!」

「おー、伸行。あけおめ」


 耕平と一緒に千波も頭を下げ、大人たちへ新年の挨拶をする。

 その間耕平はずっと、千波の手を握ってくれていた。


「伸行とゆかには男の子が三人。一番上は、今年中学に上がる。二番目はその一つ下で、一番下が今小一」

「新菜ちゃんと遊んでる女の子は?」

「あの子は桃子と智之んとこの長女。五歳だったかな。もう一人女の子がいて、陽菜乃と同い年」


 名前も聞いたが、千波は人の名前と顔を覚えるのが苦手だ。おいおい覚えていこうと、心の中で自分を励ます。


「おいチナ! 遠慮しねぇでどんどん食えよ!」


 いつの間にか呼び捨てになった伸行から皿と箸を渡され、千波はお礼を言った。

 リビングに置かれた長机には、ごちそうが所狭しと並んでいる。


「あけましておめでとう。千波ちゃん」

「倫子さん! あけましておめでとうございます」

「大騒ぎでびっくりじゃろ。大丈夫?」

「こんなに大人数のお正月って初めてで、かなり、びっくりはしてます」

「ウチらは毎年女同士で、静かな部屋に避難するんよ。桃ちゃんとゆかちゃんとね。よかったら一緒にどう?」

「ご迷惑じゃなければ、ご一緒したいです」

「それじゃあ森野くん、千波ちゃん借りるけん。あ、車はどっちが運転するの?」

「私が運転します」

「え? いいよ、千波。飲んでこいよ」

「お正月なんだから、私は耕平くんに、友達と楽しく過ごしてもらいたい」

「したっけ、お言葉に甘えようかな」

「うん。楽しんで」

「千波も。帰りたくなったらすぐに言うんだぞ」

「うん」


 耕平の心配そうな視線に見送られ、千波は倫子と共に三階へ上がる。

 三階の一室へ入ると、そこには桃子とゆかが酒の入ったグラスを傾けていて、一階の喧騒が遠く聞こえた。


「あけましておめでとうございます。お邪魔します」

「千波ちゃん、いらっしゃーい」

「あ、その服私があげたやつしょ? よく似合ってるー」


 千波の手持ちの服は、ほぼ桃子からもらった物だ。

 ズボンはサイズが合わなかったため、もらった物はほとんどがワンピースで、華やかな色や柄が多い。千波が自分では選ばないようなデザインだが、素敵な服ばかりで、着ると気分が上がるのだ。


「私、服なんて全く持ってないから、桃ちゃんからもらえて助かったよ」


 カーペットが敷かれた部屋の中心に小さなテーブルが出されていて、その上には料理が乗った皿とグラスが置かれている。

 倫子と共にテーブルのそばへ腰を下ろし、グラスにジュースを注いでもらった。


「耕平とはどうなの? うまくやってるかい?」


 ゆかから問われ、千波は思わず頬を染める。


「うん。実は、籍を入れることになって。だから改めて、これからよろしくお願いします。ここでの生活のこと、いろいろ教えてもらえると嬉しいな」

「そっかぁ、おめでとう! 改めてよろしく! 耕平もやっと結婚かぁ」

「いやもうこれはきっと、コウくんがタイミング逃してたのは絶対、千波ちゃんと会うためだったんでしょやー」

「出た。桃子の夢見がち」


 桃子とゆかが嬉しそうに笑い、倫子からも、祝いの言葉が掛けられた。


 その後はゆっくり食べ物をつまみながら、子どもの頃の思い出話や村のこと、それぞれの夫や子どもたちの話などを聞く。


 長いこと話し込んで疲れはしたが、前回のようにぐったりすることはなく、千波にとっても楽しいと思える時間を過ごせた。



 それから数日後、千波は、東京にいた――。

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