第11話 朝はやってくる(SIDE千波)
いつから、他人を怖いと思うようになったのだろう。
子どもの頃は、千波はコミュ力の塊だったらしい。
公園に行けば誰にでも話し掛けるものだから、地域に溶け込みやすくなってとても助かったと母が言っていた。
今の千波が思うに、それは何も知らない子ども故の無鉄砲さで、コミュニケーション能力と呼べる立派なものではない。
真のコミュ力の塊というのは、現在千波を腕に抱き、髪を撫でたりキスをしたりと好き放題している、優しい森のクマさん。
「……私、昨夜吐いたって言ったよね」
吐いた後は口を濯いだし歯も磨いたが、なんだか嫌だ。
千波が彼の口を右手で塞げば、とろけるように笑った耕平が、リップ音を立てながら手のひらから手首、腕へとキスを降らせていく。
「おはよう、千波」
声がしっかり覚醒しているということは、彼はあの後、眠れなかったのかもしれない。
「おはよう。昨夜、ごめん。なんか、夜ってダメで」
「どうして書斎だったんだ?」
「……あそこは耕平くんが、一日の大部分を過ごしてる部屋だから」
「だから?」
この先を言うのはすごく恥ずかしいのだが、純真無垢なぬいぐるみのクマさんのような瞳が、答えを待っている。
「本人を起こすのは申し訳なくて。だから、耕平くんの存在を感じる部屋に、行った」
「千波は、俺が大好きだと」
「まぁ、そうなりますね」
「そっか」
あまりにも嬉しそうに、頬を染めた彼が笑うから、千波の胸がきゅーっと苦しくなる。
すっかり忘れていた、甘い恋の痛み。
「飯は、食えそう?」
「うん。全部吐いちゃったから、お腹空いた」
「朝から雑炊が食いたいって言ったら、嫌か」
「……優しいね」
「優しいのは、退屈?」
「誰かに言われたの?」
「俺がフラれる理由、大概それ」
驚いて、胸元に顔を埋めている耕平の旋毛をまじまじと見つめてしまった。
優しいのが退屈なんて、千波には理解できない。
「言った人は、贅沢者だ」
「どうして?」
「だって多分その人は、優しさを与えられるのは当然だと思ってる。そういう場所にいるんだろうね」
千波にとって他人から与えられる優しさは、欲しいと思っても手に入らないものだった。
千波よりも長い、緩やかな癖っ毛に指を通しながら、千波は口を曲げる。
「こんなにいい男を捕まえたくせに退屈だって? 意味がわからない」
「千波」
「ん?」
「愛してるよ」
耕平から向けられる感情が、格上げされた。
「物好きだね、耕平くんは」
嬉しかったけど照れ臭くて、憎まれ口を叩いた千波は、ベッドから抜け出す。
「雪かきしに行く?」
顔を洗うため一階に降りる千波の後ろをついて来る耕平に、振り向かずに聞いた。
「昨夜も降ってたからな」
「耕平くんの筋肉は、雪かきで育ったの?」
「座り仕事だから、筋トレしてる。締め切りに余裕がある時は、伸行んとこ手伝ったり、慎太郎んとこ行ったりもするしな」
「伸行くんは漁師で、慎太郎くんは牧場の……チーズケーキの奥さんの、旦那さん?」
「そうだよ。……昨日は、ごめんな?」
洗面所で、並んで歯を磨く。
鏡越しに、千波へ心配そうな視線を向けている耕平に気付いて千波は、隣にある大きな温もりへ寄りかかる。
何も言わないまま歯を磨き、口を濯ぐついでに顔を洗った。
千波の後で口を濯ぐ耕平の背中に抱きつき、頬を擦り寄せる。
「あのねー。人間が怖いのは本当だけど、大丈夫だよ。昨夜は多分、ちょっとびっくりして、頑張り過ぎた」
水を止める音がして、千波は耕平から離れる。タオルで顔を拭いた耕平が振り向いたから、背中へ手を回して、正面から抱きついた。
「私ね、自分を作るっていうか、相手が求める自分になろうとする癖?みたいなのがあって。それで、勝手に一人で疲れちゃうの。ボロが出るのが怖くて、同じ場所に長く勤めないで転々としてた」
耕平の優しい手が千波の後頭部を包み、幸せだなと感じて、詰めていた息を吐き出す。
「耕平くんの優しさは、すごいね。私は君のそばだと楽に息ができる。受け止めてくれるから、嘘の自分を作らないでいられる」
ありがとうと告げて見上げれば、耕平は、ただ静かに微笑んでくれた。
「そもそも耕平くんとは、出会いがあれだったから」
「あれ?」
「うん。雪の中で、究極のバカをやってる瞬間。私がどうしようもないバカだと知られているから、取り繕いようがない」
背伸びをして、掠め取るようなキスをして、離れる。
昨日ゆかからもらった化粧水を使ってみようと思い立つ。
二階へ戻り、化粧水で肌を整える千波の後ろで、耕平が着替える音がした。
「行ってくる」
「いってらっしゃい」
千波の耳にキスをした耕平を見送ってから、気合いを入れて立ち上がる。
「少しずつ、がんばれ、私」
ウォークインクローゼットへ踏み込み、昨日一日で増えた千波のための荷物を眺めてから、千波も身支度を整えた。
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