5
自宅に戻ると、いつものように隣の住民の怪しい視線に出迎えられた。美桜が無言でつかつかと歩み寄り、隣室のドアを蹴り上げた。健二は驚かされ、慌てて少女を部屋へ引きずり込む。突拍子もないことをする娘だが、今日に限っては後から愉快な気持ちになって、二人で笑った。
ひとしきり笑った後で、下から見上げている少女と目を合わせた。ワルぶった顔は健二の今の表情を映した鏡のようだ。
「……ま、ええわ。文句があるなら言うてこい、っちゅうねん」
「そうだよ。あいつが悪いんだからね」
言って、美桜は半身をひょいとドアの外へ出した。隣室の扉に白くスニーカーの靴底が跡になっていて、彼女はもう一度足を伸ばしてその靴跡をねじって消した。小窓から覗いていた無表情な瞳は消えていた。
ひと月前に来た隣人が今までになく不気味さを帯びていく。この暴挙に対しても無反応な態度が、逆に疑わしさを濃厚にした。幾度かは顔を合わせている、小太りな体型や丸顔は手配の写真と似るべくもないが、整形して体格も変わったのだとすれば現在どんな姿になっているかは知れない。用心に越したことはないと気を引き締めた。
改めて玄関に戻ると、いつものように美桜はスニーカーをぽいぽいと脱ぎ捨てて、今は彼女のお気に入りの場所となったロフトの上へと駆け登る。隣人がもしかしたら自分を狙う凶悪な殺人犯かも知れないというのに、美桜は無邪気なものだった。
「あたしの場所ー!」
嬉しそうに健二のベッドを占領して、少女は布団を抱きしめた。家には断固として帰りたくないというその理由も、未だに教えてはくれない。聞いたところで冗談のような作り話をして逃げるばかりで、健二を信用してはくれなかった。
少しばかり残念な気持ちも湧くが、そのうち帰る気になれば話してくれるだろうと気長に待つことにした。甘いのだろうか。なんだか良識がどんどんズレたものになっていく気がして、慌てて首を振った。美桜は家出娘だ、出来るだけ早く帰すべきなのに、この体たらくなのだ。
室内には夏のむっとした空気が充満して、すぐに背中が汗を吹く。クーラーの電源を入れ、さっそくと冷蔵庫を開けて、ビールを取り出した。寿司屋でも飲んだが、今日は気分が良いからお替わりだ。
「風呂入ってしまえや、俺が先入ってまうで」
「一緒に入るー」
「アホ」
軽口の応酬に心が癒やされる。謎めいた少女だが、一緒にいれば鬱々とした日々がずいぶんと救われる。後で茉莉花に連絡を取ってみようか。ふと思いついた。いや、途中で家出娘が声を挟めば取り返しがつかない、やっぱり止めにしておいた。
焦ることはない、そんな具合で楽観する心は肥大した。柔らかで、暖かな気分で、幸せな楽観だった。
美桜の後にシャワーを使い、さっぱりした気分で居間へと戻ると、男の一人住まいを忘れ果てた小娘のあられもない姿が目に入ってくる。キャミソールとボクサータイプの下着一枚で、女子高生はソファの真ん中に寛ぎ、ふんぞり返っていた。
「おいこら、幾らなんでもその格好はないやろ。俺、男やぞ」
「暑いんだもん」
やんわりと注意を促すも、相手はぺろりと舌を出しただけで動こうともしない。健二もそれ以上は言わず、先にキッチンへ回って冷蔵庫を開けた。冷えたビールを取るだけのつもりだから電灯も点けずにいる。美桜の声が背後に被さってきた。
「ねぇねぇ、チューハイとか置いてないのぉ? お風呂上がりにきゅーっとやりたかったのにさぁ、気が利かなすぎーっ」
「未成年やろが」
構い半分で、ふいに思いついて冷蔵庫の中身をチェックした。美桜が立ち上がって近付いてくる。健二は気にせず、携帯の画面を操作して必要品のメモを記していく。近所に二十四時間営業の店はないから手間は掛けたくない、一度で買い物が済むようにとの工夫だ。
にゅう、と美桜の白い腕が回り込んできた。
「ちょっと貸してっ」
「お前のケータイ使えや」
「あれ、トバシのヤツでもう容量切れちゃったもん。あたしのは前話したキモオタに、バッキバキにされたからさぁ」
見る? などとしれっと返され、絶句する。さっきまで感じていた和やかな空気さえ吹き飛んだ。そんなことなど気付かぬ風で、美桜は平然と続けた。
「家出中だし、身分証もハンコもないしで、どうにもなんないじゃん? しょーがないからトモダチに頼んでさぁ、ヤミで買ってもらって使ってたの。高いんだよね、アレ」
どうやらヤバい男トモダチでも居るらしい発言に、自然と喉が上下した。
「……お前、まさかクスリとかもやってんのとちゃうやろな……」
「勧められたけど、あんなのゲッソリ痩せするし、いいコトないじゃん。目も充血しっぱなしだし、歯もボロボロ抜けるんだよ? やるわけないじゃん」
そういう問題ではない、言いかけた言葉を飲み込んで、健二は手にしたビールを代わりに飲み干した。いやに詳しい否定理由が、さらに頭を混乱させる。ふわふわとした空気は逃げていき、代わりにヒリつくような現実が急激に舞い戻った。
未成年の家出娘を家に置いているだけで危ないのに、その少女がヤクの売人とも繋がっているかも知れない。
気が動転して思考がうまく纏まってくれない、目の毒としか言えない美桜の現在の状況も拍車をかけて、冷静さを焼き切っていく。何をどう捉えればよいのかさえ解らなくなる。誤魔化しのように軽口で逃げた。
「……どうでもええわ、もう……。それより、そろそろ何か着てくれや」
「あ、やっぱ気にはなるんだぁ。いいよぉ、触っても」
チラ見えの胸元を強調するように突き出して、美桜がしなだれかかった。身を躱しながら、健二は空き缶をゴミ箱へ放り込む。狙いは外れ、高い音をはね返してアルミ缶は遠く台所の床を転がった。ナイスシュートォ、などと少女の無邪気な声が笑い飛ばす。暗がりを指差す白い腕の生々しさから目を逸らした。
恐らく少女は冗談で言っているだけなのだ、戯れの仕草も無防備な心の表れでしかない、それを本気にするほど愚かではない、必死に自身へ言い聞かせる。そんな健二の心情も知らず、美桜は無邪気に抱きついてはしゃいだ。
「あはは、マジでいいんだよぉ? あたし、お礼とか出来ないし」
横抱きにしがみついた美桜の頭を、鷲掴みに掴んでぐりぐりと引き剥がす。
「いい加減にせぇ、って。せっかく我慢してんやから、誘うなって」
冗談めいた口調に紛らせて本心の焦りを覆い隠す。そのまま少女の肩を掴んで無理矢理背を向けさせた。キッチンの薄暗がりが醸す雰囲気は、少しばかり今の健二には不利だった。
この焦った気持ちを少女に悟らせるわけにはいかない、妙な強迫観念に囚われる。彼女が愉快そうに上げた嬌声は、男を狂わせるノイズのように胸を掴む。ドキドキと高鳴る心臓を無理やりに深い呼吸で押し止めようとした。本当に、この娘は人の気も知らずに。焦り、そう思った。
こちらを向いて抱きつこうとする少女と、背中に隠れるように肩を掴んでこちらを向かせまいとする中年男の奇妙な電車ごっこが続く。
「ザンネーン、泊めた時点で犯罪だしー」
意地の悪そうな声で、美桜ははしゃいでいる。男の欲望など想像だにしないかのようだった。このじゃれ合いに付き合っていた健二の方でも、ようやく平常心を取り戻した。軽口の応酬が続くうちに、空気は危険なゾーンを抜けた、そう思った。
「刑法百何十条とかで、犯罪です!」
「脅すなや、やめてくれて、ほんまに」
笑いながらで返したが、美桜が偶然に放った言葉はヒヤリと冷たいものだった。
ふいに、急に支える腕が重くなり、少女は体重を預けてその場を動かなくなった。真顔に戻って、健二を振り返った。
「カノジョ居るから?」
「……そんなんちゃうわ」
コンマ数秒というほどの間が、粘ついて、引っかかった。
「ええ、くそ」
手を放し、美桜を一人置いて逃げるように移動した。暗闇へと転がった缶を拾うついでに電灯を付け、今度こそゴミ箱へ投げ捨てると再び冷蔵庫を開けた。ビールはさっきのもので最後だ、逆効果を思いつつも呑まずにはおれず、今度は戸棚を開けた。
言い知れぬ不安に突き動かされている。とっておきのウイスキーに手を伸ばして、ふと、容量が減っていることに気付いた。
とっておきの、年代物の黒で、張り込んで買った数万円相当の、現在では稀少価値もあり、もう手に入らないかも知れない品だ。たまに取り出してはチビチビと楽しむだけで、大事に、大事に呑んでいた酒が。
ごっそり減っていた。
「お前、コレ飲んだやろ⁉ 未成年のくせに!」
途端、モヤモヤしたものは吹き飛び、ドロボウ猫への怒りがめらめらと燃えた。
「なんでバレるの⁉」
「計っとるわ、ボケ!」
「きもっ!」
心底嫌そうな感想が飛んできた後に、言い訳が続いた。
「ほんのちょっとだけだよ⁉ オレンジジュースで割って呑んだだけだもん、ちょっとしか呑んでないよ! 後に残んないから、ちょっとお替わりしちゃったけど、ホントにちょっとだけだもん!」
「オレンジジュース⁉」
声がひっくり返った。
よりにもよって、最高級の黒をオレンジジュース割り。悪魔の所業だ。
いや、問題はそこではない、いや、そこもあるにはあるが、今はそこじゃない。角瓶の中身の話ではない。こういうイイ酒はそれ相応の態度をもって大事に呑むのが礼儀なのだが、それをとやかく言うつもりはないのだ、今は。そうだ、少なくとも今は言うつもりはない。
自身の中で混乱はどんどんと、どうでもいい方向へと雪崩を打っていく。美桜の話す言い訳はすべて、この混乱を加勢するかのようだった。
「いいじゃん、あたし卒業はしてないけど、もう十九だよ? 成人年齢も下がったんだし、もう大人じゃん! お酒も飲めるし、男の人と寝たっていいんだからねっ!」
正当化を続ける少女を黙らせるべく一喝する。
「そのリクツが通るんやったら、俺はとっくにお前の家に連絡入れとるわ!」
少女はぐっ、と息を詰めた。
「家に連絡……しよぉとか、思ってたの? まだ?」
なおも低く唸るように言った。
声の調子から、不利を悟ったのだと感じた。そうだ、余所様の大事な娘さんを預かっている身としては、彼女の素行に無関心ではいられないのだ。決して角瓶の中身がごっそり減ったことだけで怒っているわけではない。
「当たり前やろ、親御さん心配してへんわけないって。俺は預かっとるだけや」
あるいは、その親が問題なのだとすれば然るべき施設へ保護してもらう方がいい。
何度同じことを言ってきたか、回数さえ忘れたほどだ。大事にしていた秘蔵品とはいえ、角瓶を撫でながらでは説得力に欠けるかも知れないが、健二の本音としてはそっちの方が重大だったのだ。
美桜はだんまりになり、拗ねてしまったのか横を向いた。
いったい何を期待していたものか、さっきは凄い目で睨まれた。まるで酷い裏切りにでも遭ったかのように大きく目を見開いたかと思えば、次には殺意すら感じさせる目付きに変わった。うっすらと涙まで溜めて健二を睨んだ時の、美桜のその表情が忘れられない。
もの言いたげに、けれど言うことを諦めてしまう癖でもあるかのように、何も言わずにそっぽを向いてしまった。この少女に見え隠れする、真実のカケラを見た気がした。
いたく傷付けられた彼女なりのプライドを物語っているようでもあり、チクリと胸が痛んだ。
カラダで払うと気安く言い放つ彼女には、健二にはわかり得ない別次元の拘りがあるのだろう、それは解ったものの、この一線だけは譲ってやるわけにいかなかった。子供に手を出すほど落ちぶれてはいないと自身の胸にも太い釘を刺した。
「もう寝ろて。俺は、手出しはせぇへんで」
先手を取った宣言に、少女からの反論はなかった。
家出娘の戯れ言を頭から信じるほどお目出度くはない。彼女を信用しないわけではないが、ワケありを隠していたことも忘れてはいない。
家への連絡も毎日のようにせっついてやらせているから、いい加減鬱陶しがるくらいなら帰ればいいとさえ思う。
口に含んだ酒は苦々しかった。諦めたのか自棄なのか当てつけなのかは知らないが、助けを求めることもせず、自身を投げ売りにする彼女のやり方は気に食わなかった。
祈るようにグラスを額に押しつける。火照った肌に氷の冷たさが刺す。ずっと、脳裏には茉莉花の横顔が貼りついていた。
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