6
茉莉花と別れたあの夜が脳裏にまざまざと思い出された。別れようとして別れたわけではなく、未だになぜあんな言葉を言ったのかは解らなかった。
外回りの仕事など出来るメンタルではなく、結局一軒も回らず仕舞いだ。それでも時間を無駄にしたくはなく、溜まったデスクワークを片づけるべく社へ戻る。同僚達はいつもと同じ、一瞥すらくれることなく我がの仕事に励んでいる。健二も書類に手をつけようとしたが、やはり身が入らなかった。
思案に浸っていたのは何秒ほどか、諦めて書類を片付けかけた途端、立て続けでまた着信が鳴った。また非通知だ。いい加減、苛立ちを込めて健二は乱雑に携帯を扱う。
「もしもし?」
接客の基本を無視した刺々しい声が出て、しまったと思った。
『もしもーし? そちらさん、山上さんで合ってる?』
まるきり美桜と同じ軽薄そうな口調で、男の声が聞こえた。調子の良さそうな弾んだ声音と、相手の様子を一切関知しない物言いがそっくりだ。健二は眉根を寄せ、けれど言葉を出すより先に通話相手の話が勝手に始まっていた。
『山上健二、二十九歳。丸福商事に勤めて五年目の中堅選手ってトコ? 業績もそこそこ優秀じゃーん。で、住所は……』
「イタズラやったら切りますで」
遮るように宣告する。
『ちょ、ちょっと、いきなり切らないでよ! お客だったらどーすんの!』
相手は慌てたようだったが、知ったことではない。声に覚えもない、知人ではないと瞬時に判断が出来た。もしかしたら新規の客か、友人あたりの悪ふざけかとも思ったが、そうだとしても、付き合ってやれるだけの心の余裕が今はなかった。無言電話の犯人かという疑惑が真っ先にあり、健二の声はたっぷりと棘を含んでいた。
出方を窺う健二の耳に、スマホを通じて相手の低い声が囁きかけた。
『……アンタさ、自分のウチに高校生くらいの女の子連れ込んでるんでしょ? 家出人でしょ? 警察にタレ込んだっていいんだよ?』
「……あんた、誰や?」
相手の声が一段低く、妙に込み入った事情にまで踏み込む素振りを見せると、それに応じる健二の声もさらに低くなった。回答代わりのくぐもった笑いが電話の向こうから聞こえた。
男の声は最初の軽薄さに戻り、一気に要件を告げた。
『Vチューバー。罵倒観音って名乗ってんだけどもさ、知らない? でさ、本題突入。あのさ、ちょっとでいいから取材させて欲しいんだよー。おたくの会社、半ブラックみたいだけど、お昼休みはあるでしょ? 出来れば今日中に片付けたいんだよね』
やはり一方的に、健二の都合などお構いなしの物言いだ。
『ローテ組んでるっても、割と融通も利くみたいじゃん、そこ。ね、出れるでしょ? 今日の休み、何時頃?』
業務の内容にも詳しそうな言い方で男は捲し立てた。この相手が狙い定めて電話をかけてきたのは明白で、どこで調べたものか営業課がローテーションで仕事を回していることまで知っていた。健二はさりげなく周囲の同僚を見回して、左手で口元を覆った。低くした声をさらに小さくした。
「今からや」
『んじゃ、今から会おうよ。場所はそのビルから百メートルほど行った先にあるファミレスね。場所、解るよね。先にメシ食ってて。ちょい渋滞で遅れそうなのよー。話はすぐ終わるからさ、よろしくねー』
事情説明さえ省いて、相手は自身の要求をツラツラと述べ立てた。渋滞に捕まっているということは、すでに対面を見越して行動しているということだ。健二の予定など端から問題にしていないことを物語っている。
美桜のことで強気になっているのだろう、悔しいがこちらも従う以外に取れる方法はなかった。
クライアントということにして、時間の都合を付けておいた方がよさそうだ、と。長引く対峙を予想して、電話に注意を向ける傍らで健二は計算を弾いていた。
通話を終えると、さっそく動き出す。わざとバタついた動作でデスクを片付け、慌てた素振りで周囲に言い放った。
「すんません、急遽で今から打ち合わせに出ます」
上司が曖昧に頷くのを視認して、健二は慌ただしく部署のデスクを離れた。直属の上司と同僚には客との会食だと出掛けに偽りの情報を与えておき、移動の間にスマホの検索画面を弾いた。
馬頭観音、と聞こえたが表示されるのは有名な寺社などで撮られた仏像の動画やサイトばかりで、関連しそうなアカウントは引っかからなかった。
確か、Vチューバーと名乗っていたが、そちらから探すのは時間的にも無理がありそうだった。ヤツラのチャンネルを精査するのは骨が折れる。
ユーチューバーという輩が出現したのも最近だと思うが、ここへきて、本人は出てこずにアニメ絵などを使ってアテレコ状態で代理のキャラに喋らせる、新たな形式の連中までが出てきている。
ネットで自己表現を行う方法は日増しに増え、今では健二にも把握しきれないほど数多くの手法が存在するようになった。Vチューバーという存在も知っていたつもりだが、いつの間にこんなにも総数が増えたのだろうかと、ずらりと並ぶチャンネルの多さに軽く驚愕した。
ここ十年ほどでネット環境やコンテンツは目を見張る発展を遂げ、かつては企業間でなければ手が出ないと言われた各種の技術も、個人で簡単に扱えるようになってきている。
昨今は何でもサイクルが短いというが、ついにネット関連事業も叩き売りの様相を示し始めたといったところだろうか。あらゆるものが完全に飽和状態としか思えなかった。
Vチューバー界隈というものもまた、健二にはよく解らない世界だ。検索しようにも関連ワードが解らない。操作に戸惑い、早々と諦めた。モタモタと慣れない作業に手間取るよりは、他にやるべきこともある。
相手は健二のことを事前に調べ上げているようだし、顔も知られていると思ってよさそうだった。ファミレスの奥まった席に陣取って、念のためで自身のスマホをカメラモードにし、証拠動画の撮影を準備して待った。
油断のならない相手だ、用心に越したことはない。ちょうど昼時の混雑する時間帯は終わり、店内はガラガラだ。こちらに興味を持たない男女数人がそれぞれで寛いでいるばかりのこの店なら、なるほど、多少込み入った話でも出来そうだった。
健二が到着して十分ほどが経過したか。手早く昼食を済ませて待機していると、怪しい素振りで周囲を窺うライダースーツの男が入店してきた。ヘルメットを小脇にして素顔を晒している。見たところでは同年代だった。
男は健二を見つけると、軽く会釈をよこして近付いてきた。やはり顔を知っているらしい。
「いやぁ、ごめん、ごめん。首都高乗ったのが間違い、おまけに事故だとかで渋滞しちゃってさー……、待った?」
これも美桜と同じ、どこか脈絡を欠いた、こちらの調子を崩してくるかのような話し方をする男だった。
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