第二章
1
『――A市での事件に進展があった模様です。警察発表によりますと……』
翌日、仕事帰りに通りかかった商店の前でまたニュースの続報に触れた。
『本日未明、山中より新たに発見された女性の遺体は、不明だった松野さんの長女、麻美さんの遺体であることが判明しました。警察は慎重に事件の経緯を探っており、引き続き、重要参考人として被疑者、紺野唯史を全国指名手配とし、行方を追っています』
立ち見のテレビ画面には中学生くらいの陰気な少年の顔が映っていた。それしか手に入らなかったのか、学生服の写真の下に氏名と24歳という数字が示されていた。
古ぼけた写真の淀んだ瞳に生気はなく、思い詰めたように唇が引きつっている。
見た目の印象など勝手に事件内容に引きずられるもので、心に闇でも抱えていそうだなどと、当てずっぽうな感想を無意識に付け足していた。
ニュースは続けて、男が被害者長男の後輩にあたり、長女とも顔見知りであった可能性などを指摘した。
続けてアナウンサーが告げたのは推論めいた言葉だ。
関係者への取材と称して、彼が中学時分にはグレ始めたことや、高校も中退しているなどと言った、妙に印象操作な情報を付け加えた。
この事件は二週間が過ぎた今もまだ解決しておらず、前日に被害者宅を訪れたはずのこの男が現在は消息を絶っていると、同じ情報を繰り返し報道した。
重要参考人という言葉はそのまま犯人を指すほどに固定観念化しているが、最近は物騒なニュースが多く、この言葉を聞く機会もまた多くなっているように感じた。
突っ立ったままの健二の後ろで、家路を急ぐ人々の雑踏が賑やかに流れていく。
一人取り残されていた健二は、事件報道をあらかた聞いた後で、ようやく群れに加わり歩き出した。最近増えたばかりの家族が、こんな時には急に心配になってくる。
事件のあったA市から東京まで、電車なら一本で向かえるはずだ。
距離を思えば奇妙な焦りで、A市など遠く離れた他県の片田舎なのに、なぜか心が気味の悪いざわめきを訴えた。
普段使いの鍵は美桜に預けてある。帰りに大家へ連絡して許可を得て、靴屋で合鍵を作ってきたところだった。ポケットの中でスペアのキーを握りしめる。
健二が戻る夕方七時までには帰宅するようにと約束をして、昼食代を持たせておいたが、彼女を一人残してきたことが急に心に懸かりだした。
独りの時には気にならなかったことだ。茉莉花と付き合っていた当時にさえ、二人共に忙しくしていて、こんな不安を覚える暇などなかった。
健二の職場は通常七時に始業、一時間の休憩を挟んで七時に終業し、月に四五回の深夜居残りシフトが有る。よくある普通レベルの会社で、昨今これはブラックではないのだそうだ、笑ってしまう。
おまけに社員の都合も考えない転勤の話が出ていて、健二に打診された行き先は名前に聞き覚えもない東南アジアの小国だった。
コロナ騒動で吹っ飛んでしまったが、いつ何時復活してくる話なのかも解らない。君には期待していると言いつつ、増える職務に対する手当のほうは据え置きのままで無視される会社だ。理不尽を感じはしても、とうの昔に摩耗した。
株主だの役員だの、彼らの家族だのまで含めた余剰人数分を上乗せにしておきながら、実質は社員だけが働くのだから重労働に疲労困憊は仕方がない。
会社は借金で回っており、借金が社会的信用であり、信用にかかる保証を彼らが出してくれているというマッチポンプの素敵な関係だ。世の中がそう出来ている。
そんな与太話を家出娘に話して聞かせると、彼女はわけも解らないだろうに、ケラケラと面白がって笑った。彼女の家がある東北の地方都市よりもなお何もないだろう東南アジアの小国へ、一緒に行きたいとねだったりした。
考え出すと、資本主義の体裁の許で、赤の他人に生き血を吸われ続けているようにも思えて、無性に体中がむずむずしてくる。諦めの悪い自身の奥底にある何かが常に愚図っていて、反抗を止めないせいで生まれてくる不調だ。どうにもならないと解っている不条理ほど、気持ちの悪いものはない。
社会の仕組みを一人で変えられるべくもない、無力な自身が見えてくるだけだ、そんな言葉で誤魔化して生きてきたが、最終的には身体の不具合となって表面化した。
精神科での見立ては神経過敏からくる皮膚の痒みだそうだ。掻き始めてしまえば首といわず頭といわず全身を掻き毟ることになるから、ぐっと我慢するしかない。ストレスからの神経性皮膚炎。
それが数年ほど続いていて、多少気掛かりなことが起きてもストレスに感じるようならスルーする癖が独りでについた。この辺りの鬱陶しい事情は美桜には話さずにおいた。
蓄積された倦怠感を引きずって帰路につく。玄関のドアは鍵なしで開き、だのに昨夜拾った女子高生はまだ外をほっつき歩いているらしく、彼女の靴はなかった。
「あんの、アホ」
開けっぱなしで出掛けたと思った。しかし、靴を脱ぎ、奥へ通ってみて健二は愕然と動きを止めた。
玄関に居た時には気付かなかったが、居間は惨状だ。倒されたテレビの下では、角にでもぶつかったものか、テーブルの天板だったガラスが粉々になって散乱していた。
本棚やローボードに入ったビデオデッキなどが動いた形跡はないから、地震ではない。誰かが故意にテレビだけをローボードから引き倒したとしか思えない。床一面が破片でキラキラと光っていた。
呆然としていたその背後で、玄関ドアの開く音と共に脳天気な美桜の声が聞こえた。
「ただいまー」という軽快なセリフ調子と気配とがセットで玄関先に腰を下ろし、彼女が靴を脱ぎ始めたイメージを健二に連想させた。
耳を欹てて少女の動作を探りながら、健二の視線は惨状となった室内を巡っていた。
「あれー? 帰ってるのー?」
やがて顔を覗かせた美桜のその顔が引きつった。
「わっ、なにこれ⁉」
驚きの度合いから、美桜がやったという可能性を排除した。壊してしまったことを誤魔化そうとするなら、彼女の場合はさっさと逃げてしまう方が早いのだ。
美桜は唖然とした表情のまま、惨憺たる室内にその足を踏み入れようとした。健二はちょうど際の、被害を免れた廊下との境界線に立っている。
「入ってくんな、ガラスで怪我する」
踏み入ろうとする美桜を片手で制した。
「え……空き巣?」
無責任な言い方が、火に油を注ぐ。苛立ちが沸きだして次第に大きくなっていく。
「いや。荒らされてはないみたいや。けど、鍵はどないした?」
「ご、ごめん。そう言えば、カギ閉めたかどうか自信ない……」
上目遣いに詫びを入れるその表情は心細げに見えた。ちくりと刺さる後悔の念を健二が振り払うより先に、美桜は突拍子もない調子で言い放った。
「と、とりあえず警察に!」
「バカ言うなや、お前、家出してんねんやろ」
「そっか、そうだっけ」
よほど動揺したものか、美桜はしおらしかった。調子乗りなところや図々しい面はなりを潜めて、少女はしょげ返って俯き、ぽつりと詫びの言葉をこぼした。
「なんか……ごめん」
後悔の針がまた胸を刺した。ばつの悪さと八つ当たりな気分が半々だ。微かに顔を背けて少女の姿を視界から消した。
謝罪には返答をせず、その場に少女を残して健二はスリッパを乱暴につっかけた。
居間へと進み、ガラスの上を踏んだ。倒された三十八インチの大型液晶テレビの他に、被害はないようだ。ざっと見渡して、箪笥もクローゼットも、一見では触れられた形跡さえないことを確認した。
けれど、誰かが侵入したこともまた確実で、テレビの背面にはピンクの塗料でFuckと殴り書きが残されている。
恨みを買う覚えもなかったが、少しばかり思案した。何の気なく振り返ると、心配げにこちらを見つめている美桜と目が合った。あり得ないと思いつつ、確認の為に問う。
「もしか、心当たりとかは?」
「ないよぉ、こんなの……、なんか、キモい……」
泣きそうな声で訴えるのだが、ボキャブラリー貧困らしい彼女がその単語に何の意味を込めたのかは不明だ。文字通りで気持ちが悪いのか、怖いのか、不気味と言いたいのか、不安なだけなのか。健二の苛立ちにくべる為の薪にすら思えた。
「俺かてこんなん、ここ住みだしてから初めてや」
吐き捨てるように言ってから、また後悔した。棘があった。続きの言葉は、義務として言って当然のことであるのに、なんだか言い訳じみていて格好が付かなかった。
「トラブるかも知れんし、やっぱウチに帰った方がええんとちゃうか……」
「嫌! ……家は、嫌」
頑なに拒絶するその瞳に、不安だけではない強い光が見て取れた。一瞬のことだ、隠すように美桜は視線を逸らし、自身の服のポケットを探りだした。
「そうだ、友達んトコ連絡……あ、ダメだ、喧嘩して絶交してるんだった」
一瞬だけ見えた何かの心情はすぐ、目まぐるしく変わる豊かな表情の波に飲まれた。慌てて取り出したはずのスマホも手の内に遊ばせるだけだ。
別所への緊急避難を考えついたようだったが、アテはないのだろう。言い訳のような独り言を繰り延べながら、少女は健二の顔をチラチラと窺い見ていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます