疾走、東京、失踪

里場むすび

Runners, Hunters, and The Hermit

 東京の街中を一人の男が疾駆する。時刻は午前3時。まだ宵闇の気配の色濃く残る魔の刻なれば、男は全力で走っていた。

 ——どうして、どうして、どうして!

 顔にそんな言葉を浮かべながら、今にも泣き出しそうな顔で彼は冷たいライトの灯るビル群の間を走り続ける。

 すれちがう人影はまばらであるが、いないわけではない。しかし、誰も彼を気にかけようとはしない。

 おそらくは、見えていないのだ。この街の人々に、彼の姿は。

 どんなに大声で叫んでも無視されたことが、この仮説の何よりの証拠である。

 彼の姿を、彼がここにいると認識しているのは、彼自身を除けば他にはたったの二人——彼を追う狩人と、その主である。


「良い。良いぞハンター。そのまま誘導せよ」

「御意」

 鈴のように可憐な女の声を聞いて、歌霊従血仙かりょうじゅうけつせんは満足げにうなずいた。東京スカイツリーの展望デッキの上に佇み、彼は青白い美貌とその白い髪を夜風に撫でさせながら高らかに歌う。

 祝福を。

 歓喜を。

「……もう間もなくして、贄よ。貴様の生存本能がこの街を地図から消すのだ」

 心底愉しげに、異郷の仙人は喉を鳴らした。


 狩人の女はチャイナドレスをはためかせながら夜の街中を疾走した。今宵の贄は大学駅伝の走者だ。生半可な鍛え方をしていない。そうそう体力切れを起こしはしまいが——それでも注意は必要だ。

 バテさせず、上手いこと決まったルートを走り続けさせる。

 それが最優先事項だ。

 狩人は地を蹴った。歩道のタイルが粉々に砕ける。

 その細くしなやかな足には、見た目からはとても想像できぬほどの膂力が込められていた。彼女が走るたびに、アスファルトやタイルは砕け、小型ミサイルでも打ち込まれたかのような破壊跡を残す。

 そうなった路は、走りづらいものだ。

 逃げなくてはならないと思い込んでいる贄にとって、選びたい道ではない。

 ゆえに彼は必然、同じ道を通ることはしない。

 誘導されていることにも気付かず、かつて通った道とは別の道を選択させられている。


 ——要となるは、五芒星だった。

 東京の街中に恣意的に配された霊地の数々の効力を喰らうためには、新たな霊地五つと新たなる五芒星で上書きすることが必要だった。

 霊地五つは、すでに用意済みである。

 あとは贄に五芒星を描かせ、それぞれの霊地に繋がりを作るだけ。

 こればっかりは、その土地の人間、そして仙人でも死者でもなく、何者でもない生者に任せなくてはならない。

 ゆえに、今宵。東京の命運は彼に託されていた。


 だが、そうとは知らず贄は走る。逃げて、生きるために。


 ——贄は、すでに疲労困憊だった。

 彼は元々、心の弱いたちで何かあればすぐに逃げだすような男であった。すぐに誰か他人に甘えようとする軟弱者であった。

 ゆえに、今宵。彼はまたしても逃げ出してしまった。

 彼の視界の中に、一人の女性が現れた。一体なんの因果か。彼女は彼の元恋人だった。砕かれたアスファルトを不審げにしていながら、車道を挟んで反対側の道路を歩いている。

「——っ」

 彼女の名を呼ぶ。無論、返事は来ない。

 彼は、決められたルートを破って彼女のもとへと全力で疾走した。

 それ即ち、五芒星の崩壊を意味する。

 狩人の蹴りが男に炸裂する。元恋人に縋りつかんとした男の腹は異常な膂力の足によって貫かれ、丸い穴を作った。

 血飛沫が彼の元恋人の頬を汚す。

 しかし、彼女はそれに気付くこともないまま歩き去っていく。

 絶望とともに、男は死亡した。


「……ハンター。彼の遺体を我が元に」

「御意」

 儀式の失敗によって、東京という土地から霊的に認知されたことを歌霊従血仙は悟る。それは、東京の上書きが金輪際できなくなることを意味していた。

 ——間もなく、朝日が昇る。隠蔽術の効力も切れる頃合いだ。狩人が今宵の贄を持ってきたら、すぐにでもここから去らねばなるまい。

 彼は、諦観の念とともにスカイツリーの展望デッキの上に座り込んだ。


 ◆


 後日、某大学の駅伝ランナーが失踪したというニュースが報じられた。しかしそれも、「東京の道路が五芒星を描くように破壊されていた」という妙にオカルトめいたニュースに上書きされ、人々の記憶から忘れ去られてしまった。

 ——彼の幽霊がでる。

 そんな噂が彼の友人たちの間を流れるのは、もうしばらく先のことである。


(了)

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