まだ息をしている

宇乃夏

まだ息をしている

 その年、あたしはかねてからの夢だった新人賞を取り、ついに作家として本を出した。関係者一同に報告するため、あたしはその日地元・福島県を訪れていた。数年ぶりに血を踏むせいもあったのか、あたしは着いた日に深い眠りについて、夢を見た。これは夢だと、夢の中でも気づいた。


                   ○


 目の前を通過していった電車は、越してきた都会では滅多に見ない鈍行列車。古びた腰掛けも、薄汚れた窓も、久しく見ていない電車。短い車両が見えなくなると、目の前に見慣れた駅が現れた。「双葉駅」と錆び付いた金属の文字が並ぶその駅は、高校の最寄り駅。毎日の部活を終え、夕方になると、電車到着時間の差し迫る古びたこの駅へ部活終わりの疲れた身体を酷使して走ったことを思い出す。六時半の電車を逃すと次が到着するのは一時間後で、ひと駅隣の町に帰るのに徒歩で二時間超を要することも、身をもってよく知っている。改札口を抜け、外に出ると、静かな町の商店街が目に映った。閑散としている、という言葉の代名詞のような場所だ。駅の周りには、電車を逃した学生がひまつぶしできる場所はない。あたしは面倒くさがりで大抵ダッシュを諦めていた。汗も乾いて寒くなってきた身体を駅傍の電話ボックスへ預け、おちょくるように駅の時計から出てくる定刻の人形パレードを、真紫の自販機で買った寒天ジュース片手に見るのが常だった。あの頃よりも、一時間を長く感じたことはない。社会人になった今、退屈な時間を過ごすことが苦手なのはこのせいだろう。

 あの頃から何一つ変わらない街並み。当然だ、この風景はあたしの記憶が生み出した夢だ。あの頃以来、この町には一度も訪れていない。この夢の中では、記憶通りの綺麗なままの故郷が映っている。辺りを見渡すと、制服をまとった高校生達が右手の真っ直ぐに伸びた坂道を歩いて行くのが見えた。その列の一員だった頃を思い出す。朝連に寝坊した野球部の先輩たちが、早朝とは思えないスピードで全力疾走しているのをよく見た。同じ時間帯で来る友人の思い人の後姿を、目で追っていたことも懐かしい。過去の思い出に浸りながら、線路つたいに流れていくその列の、最後尾をあたしは歩いた。一キロ程の道のりには、学生時代に飽きるほど眺めた風景が溢れていた。町を彩る桜の木、幽霊屋敷と呼ばれていた無人の社宅、先輩の嘘で高校の体育館だと信じ込んでいた東電社員の独身寮、雨降りの時によく恋人達が待ち合わせたトイレとベンチだけの小さな公園。真夏に友達と肝試しに行った小さなお寺、出来た頃に少し流行ったパン屋、町の図書館に通ずる横道、クラスの男子が引きちぎった自衛官募集の広告板。駅から一本道の通学路以外では、休み期間中の部活の外周走のときに使ったズル道や、卒業後に閉店したと知った本屋、寄り道の出来る安いスーパー、隣町の病院で働いていた母が仕事帰りによく車を停めて待ってくれていたよけ道。細かい部分はあまり覚えていないのだろう。証拠として、記憶が再現するこの夢には、目先の道より先がない。否、ないわけではない。覚えていないのだ。移ろい行く日々の中で、きっと通学路の向こうは記憶の端の方に追いやられているのだろう。それだけの月日が経ってしまっている。

 細い路地に面した短い横断歩道を渡りきると、学校の入り口が見えた。杉の木と桜の木に縁どられたこの学校の周りを走る、伝統のマラソン大会があたしは苦手だった。女子のノルマである四キロの数字さえ嫌だった。六号線を通り抜け、田んぼのど真ん中にある厚生病院を一回りし、険しい山道を登るそのコースは、走る間にそれまでの人生で読んだ本を反芻しても足りない程長かった。田舎道のあまりに目指すべきものがなにもなかったので、十キロを走る男子は、遠く離れた海まで行った。折り返し地点で手に絵の具をつけ、不正がないようにその色で海まで行ったかを判断されるルールがあった。一部の男子は途中の物陰に潜んで先頭組を待ち、同じ色を塗って帰る組もいた。かつての卒業生だったあたしの父もやったという、伝統のズルだ。

 コの字型をした校舎の真中は庭で、花壇には四季折々の花が咲いていた。下駄箱を過ぎてすぐの通路は、雨の日はシャッターがおりるが晴れの日は解放され、そこから生徒たちは各々の教室に向かっていく。一階は三年生、教室のベランダは校庭と隣接していた。教室にも校庭にもたくさんの思い出がある。一年の体育祭では女子対抗の棒取り大会を全身血まみれで戦った話は、今や飲み会でのあたしの持ちネタだ。敵将の先輩を棒の頂点から蹴り落したのだ。二年生の文化祭では隣の四組と合同でお化け屋敷を作り、三年のファッションショーでは男装をした。「宝塚にむいている」とまじまじと世界史の先生に言われた。誇らしかったのを覚えている。昔から容姿にはそれなりに自信があった。下駄箱で靴を脱ぎ、南側の教室へ流れていく生徒たちから外れ、あたしはひとり西側の通路へむかった。教務員用の手洗い場を過ぎ、外へ繋がる戸口を開けて、犬走りに出た。通路からは、学び舎の象徴でもあった満開の桜が見えた。なるほどこの夢は、やはりあたしの記憶に基づいて形成されているらしい。その証拠にあたしは、白い夏のセーラーに身を包んでいた。

 犬走りは、図書室に通ずる通路になっている。プレハブ戸の図書室の扉を開けると、新刊の紹介コーナーがある。そこには、数年前に発売された見覚えのある文庫本とファッション雑誌が置いてあった。その中の一つを手に取り、もうひとつ奥の扉へ進んでいった。本の並びが好きで、図書館へ行くだけで頭が冴えた。本のタイトルを眺めているだけでインスピレーションが湧いた。その頃速読を身に着けたいていの本を数分で読んだので、あたしの来館回数と本の貸借履歴は比例しなかった。しかしあたしがその頃からじっくり読みたいのは小難しい純文学であった。他にもシェイクスピアの晩年の作品について、論文を書いたことを思い出す。読んだ現代文の先生は”前衛的にて優秀だ”と妙な言い回しであたしを褒めた。図書館の司書は持ち出し禁止本の書庫の鍵を手渡しあたしを怪訝そうに眺め「読んでわかるの?」と聞いた。あたしの答えはいつも決まっている、理解できるかどうかではない、読んでどう感じるかなのだ。「人生はただ歩き回る影法師、哀れな役者だ。出場の時だけ舞台の上で、見栄をきったり泣きわめいたり、そしてあとは消えてなくなる」———その文から感じた事を、今も頭の片隅でずっと落とし込んでいる。

 図書室全体を見渡したあたしは、部屋の真ん中の一番前の席、いつも座っていた場所を見つめた。早朝の図書室を利用するのは、だいたいが決まった顔ぶれだった。毎朝この場所で、待ち合わせをしていた。

 カリカリと、ペンの音を立てながら、教科書をめくったり辞書を引いたり。時々動きを止めて考えるように指をくわえ、また熱心に書き始める。先生から注意された回数数知れず、地毛の茶系の髪が、南側に入る光に照らされて更に薄まって見える。

 夏服に包まれた彼女が、底に座っていた。朝日に照らされて光が跳ね返る。髪同様に茶色い睫毛も、その晃、白の色と光の色が反射して、窓を通り抜けてくる真夏の朝日だというのに、こんなにも眩しく見えるのはなぜだろうと———…

「おはよう」

 彼女のその声に、あたしは夢の中で目を覚ました。


 ≪回想あるいは思い出≫


 高校最後の文化祭では、学校全体の競合出し物として、ファッションショーをやる予定になっていた。これは学年の代表者を各クラスから出して発表を行うもので、当日、あたしは仏頂面のまま学ランを着て女子トイレの鏡の前に居た。ショートカットで中世的な顔立ちだったあたしに、クラスの女子が面白がって白羽の矢を立てたのだ。髪をワンデイスプレーで金髪に仕上てる手伝いをしていた友人たちは、

「カッコいいじゃん」

「うん、イケメン。この彼氏はアリ」

 などと良い言葉ではやし立てはするが、目の前の鏡に映る顔は含み笑いだ。

「腹黒い女なんぞ願い下げじゃ。女子全員で共謀して票入れやがって」

 あたしがかみつくと、二人は手を叩いて笑った。

「いいじゃん、佐々木センセが『宝塚向きだね』って褒めてたよ」

「笑ってんだよ! あたしが優勝したら賞金全額もらうからな」

「金でんだっけ」

「たしかトロフィーっしょ? 手作りの」

「なにそれ、まじでいらんやつ」

 友達がアイロンで髪を伸ばすのを鏡越しに見ていると、入口のドアが開いて五組の女の子が入ってきた。顔見知りでもないので会話こそしないが、その子が個室に入っていくと、友達の一人が小さな声で話し出した。

「五組で思い出したけど、そういえば、国立受かったんでしょ? ほら、あんたが仲のいい、五組の可愛い子」

 すぐに誰をさしているかわかった。国立大学を目指す特進の五組には、あたしの中学生の頃からの付き合いの友達がいた。海端に住む真面目なお嬢様気質の彼女は、勉強熱心で成績が良く、いまどき紙の重い辞書を何冊も持ち歩いているような子だ。中学の時は本当にお嬢様らしく丁寧な言葉で話していた。近年あたしの口調が移ってきてしまっているが。それから顔が可愛い上に無自覚な天然さが特徴で、そこからくるカマトトな性格も相まって女友達はほとんどいないのだ。対してあたしは、口が悪く男子のような外見に加え自分の好きなことしかしない自由主義な性格で、自分に課した目標にがんじがらめになっている彼女を適度に助けることが出来たので、あたし達は相性が良かった。彼女には文学好きのあたしと丁々発止するような頭の良さもあり、その部分も気に入っていた。あたし達は毎朝図書室で落ちあい、朝の小テストの勉強を一緒にしたり、少し早く出て屋上でジュースを飲みながら話をしたりする関係だった。平たく親友だと、周りの友達には思われていた。その彼女が文化祭前の週に、国立大学を推薦で受かったというニュースを聞いた。

「すごいよねぇ、今期一番乗りじゃん。やっぱあの子頭いいんだ」

「なんでナツと仲いいんだろうね、タイプが全然違うのにさ」

「おい、駄弁るな! アイロンが熱いんだよ!」

「この格好のまま顔出して来なよ」

 五組の出し物はメイド喫茶をやるらしく、その時間に彼女が給仕を終えると知っていたあたしは、メイクアップが一通り終わると、友達の目をかいくぐってクラスを抜け出した。店前に知り合いがいたので話していると、どうやらあたし同様彼女も、メイド代表としてファッションショーにかりだされているらしかった。すぐに顔を見せた彼女は、どこへ発注したのか、彼女は可愛らしいメイド服を着ていて、それがすこぶる似合っていた。

「誰かと思ったらナツじゃん。どこぞの不良に絡まれたと思った」

「なぜか金髪にされたんだよ」

「雰囲気は出てるよ」

「なんのよ。メイドさん、可愛いじゃん」

「気持ち悪いメイドもいるよ。見る?」

 彼女は教室の中を煽いだ。中からは男の野太い声が「いらっしゃいませ」「ご主人様!」と聞こえてくる。要らないよ、と返す。彼女がさも面白いものを見たかのようにニヤリと口を歪める。

「腹減ったからメシ行こうよ」

「いいけど、午後のファッションショー出るからこの格好のままね」

 あたしは彼女を見て、仕方ないね、と言った。メイド服と男装の金髪学ランがごはんを食べる様子を想像して笑いがこみあげてくる。何が仕方ないの、嫌なら行かないわよ、とキャンキャン横で騒ぐ彼女を連れて、どこからか漂ってくるたこ焼きの匂いをたどって歩いた。

 あたしの妹と、彼女の弟のクラスが一緒で、ミニカフェをやっていたそこへ顔を出し、二人で一艘のたこ焼きを食べた。

「ファッションショー出るの意外。あんた、そういうのいやじゃん」

「いやだったけど。クラスの男子が、是非わたしのメイド姿を、って推薦されちゃったのよ。隣の相田さんがなんて言ったと思う? 『男子からも大学からも推薦されていいわね』だって。それでまた女の子達から無視されちゃうし、本当にただの迷惑よ。ただでさえクラスからは浮いてるのに」

「まだやってんの、頭のいい連中は妙だねぇ。けどその洒落は面白くないかな」

「ナツの方こそ、派手なくせに目立つの嫌いじゃない。意味不明なことばっかりするから、悪目立ちしてるけど」

「いや、あたしは謀反にあっただけ。なので、逃げるつもり」

「なにそれ、ずるいわ」

「あんたも来る?」

 彼女は真面目な優等生なので、ボイコットのような不真面目なことは普段しない。あたしたちは考え方だけでなく趣味も全く合わなかった。例えば二人の男の趣味なんていうのは、濃い顔立ちの男性が好きなあたしに対し、彼女はさっぱりとした優男が好みだった。同じ俳優について盛り上がった記憶はほとんどない。が、女子というのはそうであっても男の話をする。『毒キノコと食用キノコ』というのが、あたし達の男に対する共通認識だった。微妙なところには手を出さないのが良いという意味である。あの頃の男絡みの恋愛について思い出せることは少ない。楽しい時も悲しい時も、いつも隣にいたのは彼女だった。彼女は頭も良く、子犬みたいな可愛い顔をしていたから言い寄ってくる男は多かった。しかし、結局のところ高校を卒業するまで、あたし達は食用キノコには出会わなかった。


 たこ焼きを食べ終え、後輩のクラスが作成した、未来の電子機器のコーナーを見て回っていた。勝手に床を掃除してくれるテクニカルクリーナー、これはのちの未来でルンバと呼ばれる電子機器になる。まさに未来予想だ。学生の発想力と言うのはやはり素晴らしいものなのか。そんな展示品を、彼女と二人、ダサいねぇ、なんて大きなお世話を言いながら見ていた時、後ろから男子二人組の友人に声をかけられた。

「うわ、不良とメイドがいる」

「ハロウィンは終わったぞ」

「いや、こっちの台詞だよ」

 片方は海賊の恰好、もう片方はまたメイド服を着ていた。二人はいつもセットの双子の様な友人だった。彼らとは、あたしも彼女も共通の、中学時代からの知り合いで、時々四人で放課後に地元のゲームセンターに行ったりした友人たちだ。

「心外だよなーおれだって可愛いよ」

「キッツ」

 彼らはそう言って笑った。海賊の方が、俺も女装すれば良かったかな、というと、馬鹿言え、他の奴らを見ろ、すげぇ気持ち悪いだろ、お前もたいがいだよ、と言い合う二人をよそに、あたしは彼女にそっと言う。

「珍種のキノコだな、どう?」

「いいとこみそ汁のナメコね」

「加工されてるって意味?」

 あたしの言葉に、彼女が噴き出した。突然笑い出したメイド服の女に、男子たちはのけぞる。二人は、変なやつらだなぁと言って笑った。

「お前ら、午後のファッションショーに出るんだって?」

 メイド服が聞いてくる。あたしは参加する気など毛頭なく、追手から逃れるためにこうして校舎中を歩き回っている。

「出たくなくて逃げ回ってんの」

 とはいえ、不良ルックや男装、厳ついメイドはこの学校中至る所にいるが、女子の可愛いメイドが歩いているのはあまりないので、彼女がクラスメイトに見つかるのも時間の問題だろう。

「しかし、あんたの格好、目立つんだよな」

 すると彼女はあたしに可愛くない顔をする。

「諦めて一緒に行こうよ」

 あたしはジャージを羽織った海賊の方に、その上着を彼女に貸すように言った。上半身ジャージさえ着ていれば、追手からの時間は稼げる。彼は散々悪態をつきながら、結局は貸してくれた。代わりに彼女の頭に乗っていたカチューシャを貸すと、意外と気に入ったようだった。そして、後でちゃんと返せよ、と言って二人は廊下へ消えて行った。

「ナツ、待ちなさいよ!」

 そのとき、突然後ろからクラスメイト達の声がした。振り返ると、廊下の端から、何人かが駆けてくるのが分かった。

「午後からのショー、逃げる気でしょ!」

「うわ、追いかけてきた」

「普段の行いが悪いのよ。観念して行こうよ」

 焦る彼女の顔を見て、あたしは隣で笑っている。そしてその手をぐっと握った。

「イヤ」

 そして走り出す。あたし達は廊下を全速力で抜けた。教室の窓が過ぎていく。学生たちのざわついた声が聞こえる。

「まって、まってよ」

 階段を二階駆け下りたあたりで、彼女の呼び止める声に、あたしは立ち止まった。

「やっぱり逃げるなんて良くないよ、戻ろう」

「あんた、ショーには出たいの、出たくないの」

 あたしは彼女を問い詰める。彼女は複雑な表情をしている。そしていつものように真面目なことを言う。

「出なきゃならないでしょ?」

「どうして」

「決まったことだから」

 あたしはいつも、彼女のその言葉を飲み込まない。彼女はいつもこうだった。ルールに従う。自分の気持ちは後回しだ。だから、あたしはいつも言う。

「あんたがどうしたいのかを聞いてんの」

 踵を返して歩き出すと、それでもあたしの後ろからついてくる。階段をはね折りて、中庭の犬走りに出る。この先を左に曲がればショーの会場、右に曲がれば校庭に出る。

「どうすんの」

 あたしはもう一度彼女を振り返り、言葉の続きを要求する。彼女は一呼吸おいて、ぐっと唇を噛んで、あたしに向き直る。

「出たくない。このままナツと文化祭まわっていたい」

 けど、という言葉。

「わたしだけじゃ、逃げられない」

 あたしは彼女の手を取り外に向かう。

「逃がしてやるよ。あたしが」

 そう言って笑うと、彼女も笑った。校庭の先は白い光に満ちていた。


 走りついた校庭には、文化祭の模擬店と小さなステージがあった。これは運動部が主体になってやっていたことだ。あたし達は人ごみの中に紛れ、追手から行方をくらませた。歩きながら、過ぎゆく人達が身につけているいろんな仮装を眺める。

「ねぇ、だけど勿体ないと思うわ」

 男装の後輩の集団を眺めながら、彼女が口を開いた。手を繋いだまま離すのを忘れていた。

「あなたの男装、完璧だと思わない? もっといろんな人に見てもらうのがいいと思うわ。頑張れば女の子を口説けると思う。誰かに声かけてみない?」

「いいね、成功したらデートプランでも考えてくれ」

「上手く行くと思うわ」

 彼女は真剣に考えこんでいる。

「あんたセンスないからなぁ」あたしは揶揄う。「この前だって図書館と海辺だった」

「ねずみ花火、楽しんでたじゃない」

 そんな感じで、人ごみの中で他愛のない話をしたことを覚えている。

「ナツってヒーローみたい」

「ヒールの間違いじゃない? こうしてあんたを悪い道に引きずり込んでるっしょ」

 彼女のその言葉を、今でもあたしは覚えている。けれどあたしは照れくさくって、少し笑いながら茶化したのだった。

「ナツの声を聴くだけで、勇気がわいてくるの。ナツと一緒に生きられたらいいな」

 彼女の言葉に、あたしは答えないでいる。二人ともなにも、食用キノコからアプローチされたことがないわけではないのだ。彼女は顔が可愛くて男子からは人気があったし、歯に布着せぬあたしのような女を好きという男だっていたのだ。けれどあたし達はお互いの時間を大切にした。彼女とは親友よりも深い関係を築いていた。あたしは彼女を笑わせるために生きていた。はたから見たら妙な関係だったと思う。あたしは彼女のことが好きで、その「好き」はほかの女の子の友達とも、憧れの先輩に対する感情とも異なっていた。彼女も同じものを抱えていたことを、高校を卒業した後に聞いた記憶がある。二人にとって文化祭のこの逃避行は最高の遊びだった。この時も、逃げた先に面白いことを思いついた。あたしは、彼女の手を引いたまま校庭の真ん中に立った物見台の上に連れていった。順番待ちをしていた王子様コスプレの一年生の椅子からマントをとって羽織り、その連れから女王の冠を奪って彼女にかぶせる。戸惑う彼女の手を引っ張り、告白コンテストをやっていた舞台の最前列に躍り出たあたしは、仰々しく、その前に膝をついた。

「お姫さま、いやマイプリンセス」

 場を乗っ取り突然出てきたあたし達に、やじ馬の歓声。彼女は突然のことに引き攣った表情で、あたしを不安そうに見つめていた。上に羽織ったジャージが、彼氏のものだったら格好もつくだろうに。その浅黒い肌には、白黒の洋服もあまり似合わない。もっと丸みを帯びてふっくらした身体なら似合うのに、彼女は華奢で、肩幅も広い。

「あなたは私の泥中の蓮」

 そしてあたしは、なぜかその言葉を選んだ。気持ちの半分は本音だった。

「あなたを愛しています。命に代えてもお守りいたします」


                  ○


 夢の中でペンを持つ手を止めた彼女は、あたしを見て笑っていた。茶色の大きな瞳がもの言いたげに動いて、そうしたと思えばまた、手元の教科書に視線を落とす。図書室の空気は変わらない。あの頃と同じ本の匂いがして、同じようなメンバーがいて、定位置の席に座っている彼女がいる。あたしはいつもそうしていたように、その左隣へ腰かけ、雑誌を机に投げて、彼女の隣に座った。

「幽霊にしちゃよくできてるね」

「何の話? 勉強中なの、相手できなくて悪いわね」

 よく聞いた言葉だ。全クラス共通の毎朝お決まりの小テストを、勉強して臨む真面目な彼女と、一切の予習なしで挑むあたしの、お互いを馬鹿にし合ったお決まりの会話の返しだった。

「自分の時間をどう使おうが自由よね」

 よく見た腹の立つ彼女の笑顔に、あたしもお決まりの言葉を返した。すると彼女がペンを走らせながら、ふふふと笑った。あたしは机に投げた雑誌を広げ、適当なページをぱらぱらとめくる。流行りのファッション、音楽、人気俳優などの特集を見ながら、懐かしいな、と思う。

「文化祭の日の夢を見たよ」あたしは彼女の隣で話を始めた。

「へぇ、いつの?」彼女はこちらに視線を向けないまま答える。

「うん、あんたとファッションショーから逃げ回ったときの」

「懐かしいわね。よく覚えてるわ」

 彼女が勉強の手をとめてあたしを向いた。今にも吹き出しそうな表情だった。

「あの後、わたしたち、付き合ってるって噂になったわよね」

「期待通りの効果だったね。しばらくは愉しめたよ」

 初めてこの話を聞いた時、友達はみんなめっぽう面白がった。現場を見ていない友人たちも手を叩いて笑っていた。あのお遊びが想像以上の爪痕を残したことに満足だった。それでも、もしかしたら彼女が傷つくのではないかと思って、あたしが自分からその話を彼女にすることはなかった。

「本当、酷いなぁ。あたしにも相手を選ぶ権利ってもんがあるんだけどねぇ」

「なんですって? こっちのセリフよ」

 彼女は憤慨した表情で立ち上がった。椅子から転げ落ちそうになるほど笑っているあたしを見て、彼女もすぐに手を叩いて笑った。すると司書が管理室から三メートル定規を持ってきて、あたし達は脳天に一発ずつ天誅を食らった。静かになさい、次こそは出禁よ、とあの頃とおなじ司書が言い去っていった後、小声でくすくす笑い合う。

「あなたの悪戯には本当、困ったものだわ」

「良いビンタもらったよね」

 あの告白ごっこで、彼女は周りの人たちが拍手し始めたのをものすごく恥ずかしがって、彼女はその場であたしの顔を思い切り引っ叩いた。あたしは吹き飛んだ。その行動に、周囲は爆笑し、何かのイベントだろうと、大体の人はすぐに去って行った。彼女はしばらく口をきいてくれなかった。

「巻き込まれる身にもなってよね」

「あんただって楽しんでるじゃない」

「厭よ、馬鹿にして」

 彼女は言い放つと、怒った様子で机に向き直った。あたしは彼女のペンの音に耳を澄ませながら、椅子に寄りかかって図書室をぐるりと眺めた。天窓から先が霞んで見えない。良く見ると司書の人も、周りに座る生徒も影法師のように姿がはっきりとしない。真っ白な図書室。あたしはこの学校が数年後にどうなるかを知っている。 

 あたしは隣の彼女を見て、このままの時間が続けばいいのにと思いながら、会話を続ける。

「なんでそんなに真面目に勉強したの?」

「勉強して良い大学に入るため」

「理解できないね。良い大学に入って、それからどうすんの」

「入ってから考えるわ。良い大学に入った方が、将来の選択肢は多いもの」

「なるほど、賢いね」

「やりたいことが明確な学生なんてそんなに居ないわよ。あなたは珍しいわ」

 あたしはずっと、作家志望だった。生まれてから今までずっと。彼女にそう言うと、そうね、と言われる。彼女はあたしの作家としての価値観を信頼している。

 彼女と、いつも一緒にいて、いつもふざけた話をしていた。あたしは不真面目で、彼女は真面目。あたしは自分の役割をわかっていた。いつも彼女の隣にいて、彼女の邪魔をして、笑わせることだ。

「そろそろ時間だわ」

 彼女が言った。その手には腕時計をしていた。気づけば周りに人はいなかった。白い光がこぼれる図書室に、あたしと彼女だけが取り残されていた。

 あたしはバッグの中に教科書をしまう彼女を見つめていた。「人間の存在とは、夢と同じような儚いもの。この小さな人生は、眠りによってけりがつくものなのだから」———これが本当に夢なのか、なんだかぼうっとする頭の片隅で考えていた。彼女の、ペンをしまおうと持つ細くて長い指と、光に霞んで白くなっている彼女のまつげを見た。色素の薄い彼女の髪やまつ毛は、光にあたると茶色にうつる。それを見た先生達に幾度となく、黒色に染めるように言われてきた。ある日そんな習慣にうんざりした彼女が、カツラ疑惑の教師に言った。『先生も取ったらどうですか』。こんな場面で、そんなことを思い出してくすくす笑うあたしを、彼女は真顔で見ていた。そしてその色と言うのは、言葉では言い表せない、詳しい名前を知らない色をしていた。そういえば、こんな色の髪だっただろうか。

 手を伸ばせば届く距離に彼女がいる。今、たとえば彼女の手をとって、ここから一緒に走って行ったら、一体どこへたどりつくのだろう。茶色い毛先が桃色の頬にかかっている。そういえば、彼女はこんな髪型だっただろうか。思い出せない。このまま見つめていたら、ずっとここにいてくれるのではないかと考えた。

「覚えてる? あんた、あの時あたしをヒーローみたいだって言ったの」

 あたしは彼女を見ずに言う。あたしはその言葉を、それから数年後に裏切ることになる。この十年、ずっと考えてきたことだった。

「覚えてるわ」彼女は言った。「いつもそう思ってたもの」

「だからあの日、あたしに電話をしてきたのね」

 助けてほしくて。

 高校を卒業してから、二年後の話だ。三月十一日。冬休みで多くの友人が実家に帰省していた。彼女もそうだった。前の晩、電話をした。北極圏から見える星の話をした。あたしは仙台にいて、先輩の卒業パーティに行くところだった。彼女はペットの子犬を探すために、海端の家に戻った。三月十二日の朝、連絡の取れない彼女を心配し実家まで戻ろうとしたとき、原発事故が起き、町民の避難が始まった。

 彼女は五体満足で見つかった。家のあった場所からさほど離れていない場所で横たわっていた。その胸の中には同じ体温の愛犬を抱えていた。靴は片方脱げて、全身泥だらけだったという。死因は出血死だった。彼女のケイタイが、運よく普及した。最後の発信履歴は、三月十三日、あたしだった。

 何度も飲み込もうとしたことだ。けれどいつまで経っても、ふとした瞬間に想う。彼女は波の中で、やっと見つけた愛犬を必死に抱きしめながら、何を思っていたのだろうか。誰もいなくなった街の瓦礫の端で、寒さに耐え忍びながら、一体いつまで、どんな風に、何を思って生きていたのだろうか。なぜあたしは、即死でなかった彼女を救えなかったのだろうか。冷たくなった愛犬を抱きしめながら、どんな孤独の中で、誰を思って、死んでいったのだろうか。

 目の前で日差しに照らされる彼女は美しかった。

「ナツの声が聞きたかったの」

 あたしはその言葉を聞いて、あたしはこれが妄想なのか夢なのかがわからなくなる。

「ずっとナツのことばかり考えてた」

 あたしはテーブルに頬杖をついたまま、ただ、光に溶け入る彼女を見つめていた。彼女はいつもと変わらず、澄んだ笑顔で薄く唇をあげて、あたしの顔を見て、立ち上がって、カバンを手に持つ。白い光にあたって儚く美しい、その瞬間の彼女を、あたしは生涯忘れることはないだろう。

 ただただ、絶望的に愛しかった。

「それにしても、すごいじゃない」

 彼女があたしを見ずに言った。

「夢をかなえたのね」

 あたしは彼女を無言で眺めている。彼女の言葉を聞いて、あたしは微笑む。

「なんだ、あんたのところにも届いてるの」

 このまま彼女の手をとり走り出して、未来が変わるなら、どこへでも連れて行く。この町じゃないどこへでも、あんたが行きたかったどこへだって連れて行く…――


 ―――眩暈のする愛おしさを感じた次の瞬間、あたしは実家のソファの上で、天井を見つめていた。時計の音が、カチコチと耳に響く。彼女をまとった儚い光だけが、脳裏に焼き付いていた。身体を起こして窓に目を見やると、かつてあの図書室で感じた彼女のぬくもりが光となってあたしを照らしていた。

 もし夢の中で、彼女の手を取り走っていたら、と思いを馳せる。今まさに手の届く距離にいた彼女の空気を思い出し、ゆっくりとこの日々を噛み締めていく。


(了)



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