第3話

 深い夜が落ちた森の中に、草葉の擦れる音が広がる。


 風が流れているようにも、森が笑っているようにも聞こえた。


 キョウはひたすらに、シカの足音を追った。

 後ろからは、先ほど声をかけてきた男の息遣いが聞こえる。少し、荒い。疲れているのかと、キョウは思った。声をかけたいところだったが、心配しても意味はない。足を止めてやることはできないのだ。


 見上げると、枝葉の隙間から、月の明かりが差し込んでいた。

 暗闇に慣れてきた目には、眩い。


 黒と青で浮かび上がった森は、大きな獣のようだった。

 いつの間にか、周囲から音が消えていっている。森が、喰ったのだ。後ろを走っていたはずの男の気配も、無い。いつ喰われたのだろうか。キョウは首を傾げながら、ただ走った。


「キョウ、きているか」

「いる」

「川の音が聞こえる」

「それはまずい」


 キョウが言うと、シカは足を止めた。


「みな、行くな。川へ行くな」


 シカが通る声で言った。

 敵がいるかもしれないので、叫ぶことはできない。


「行くな。行くなよ」

「水か! 水! ああ、天の助けだ!」

「行くな」

「うるさい!」


 シカの声をしりぞけ、近くを走っていた兵が飛び出していく。

 追うようにして、幾人かも川の音がする方へ走った。シカはもう一度止めたが、声は跳ねのけられた。


「無駄だ。シカ」

「ああ。勿体ないことだ」


 キョウの言葉に、シカが頷く。

 二人はゆっくりと進みながら、川の音がするほうに耳を立てた。小さな川なのだろう。水の跳ねる音は小さく、弱い。飲み水に適する、澄んだ川に違いない。


「川へ行ってはいかんのか」


 すぐ傍まで来た誰かが、短く尋ねてきた。


「退き先の川だ」

「ふうん?」

「敵が潜んでいる。理由は知らん。何度か、味方が死んだ」


 シカが言うと、キョウは頷いた。

 傍に来ていた誰かは、ううんと唸ると川の音がする方へ顔を向けた。黒と青で浮かび上がった姿を見る限り、味方の兵らしい。男の向こうには、何人かが同じように立ち尽くしていた。


「見ろ。すぐそこで森が切れている」


 キョウが先を指差す。

 川の音がする方向だった。森の切れ目には、月の明かりが降り注いでいた。光の下で、先を走っていった者たちの声がする。彼らは、嬉々とした声を上げていた。光の中で水も飲めるとあれば、そうもなるだろう。


「行こう。森から抜けるなよ」

「いいのか。あいつらは」

「もう間に合うまい」


 キョウが言うと同時に、川の方向から断末魔が聞こえた。

 嬉々とした声は、もう聞こえない。断末魔は次第に消えて、川の音だけがまた聞こえ出した。

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