第2話

 走る背を、赤い陽が射してくる。

 敗走がはじまったのは夕暮れで、辺りはすでに暗くなりつつあった。


 森の夜は、早い。

 赤い陽もすぐに落ちるだろう。陽の灯りがあるうちに、さらに森の奥へ行かねばならない。奥へ潜めば、今夜だけでも敗残兵狩りの目を避けられるだろう。


「どれだけ生き残った」

「知らん」


 キョウの声に、シカが短く応えた。

 周囲から、草葉の擦れる音が聞こえる。それぞれは、離れて走っていた。もし敵の追い打ちが潜んでいれば、気付いたころには命が断たれている。皆、敗走からの恐怖に、警戒心は最大となっていた。今悪戯に近付けば、味方と分かっても刃を振ってくる者もいるだろう。


「もう、卒(百人隊)も什(十人隊)もない。俺らの伍長(五人隊の隊長)すら生きているか」

「死んだろう」

「見たのか」

「いや」


 シカが頭を横に振る。

 話しながらも、二人は走った。草葉が擦れる音しかしない中、二人の声はよく通った。わざと、通る声で喋っていたのだ。

 会話があれば、人の心に余裕が出来る。落ち着けば、人は集まる。味方が集まれば、生き残れる力が増すのだ。

 敗走中、無理にでも会話をするのは二人の取り決めであった。そうやって、勝ちも負けも生きてきたのだ。


「そこにいるのは、キョウか」


 草葉の中から、声が届いた。

 方向は分からない。走るだけでも精いっぱいなのに、心をすり減らして喋っているのだ。声も音も、近いか遠いかしか判別できなかった。


「どこだ」

「後ろだ。キョウ」


 振り返る。

 赤い陽が、キョウの目を刺した。


 血のようだ。


「止まれんぞ。このまま走れ。付いてこれるなら、来い」

「分かっておる」


 声が応える。

 誰の声かは、分からなかった。だが、知っている気もした。

 雑兵の名を知っているなら、敵兵ではないだろう。キョウは少し安堵した。わずかに、身体が軽くなったような気もする。


 森の暗闇は、徐々に増していった。

 赤い陽の灯りは、息で掻き消したように失われていく。視界が黒くなり、同時に頭の中まで黒くなった。激しい鼓動だけが、まだ生きているのだと知らしめてくる。


 灯りが消えたと同時に、草葉の擦れる音が消えた。

 声も聞こえない。

 自らの息だけ、妙に大きく聞こえた。


「シカ」

「なんだ、キョウ」

「後ろに味方がいる」

「敵かもしれん」

「それは、そうだ」

「ゆっくり、歩け。いつも通りだ。もう、あまり喋らんぞ。俺の足音だけ追え」

「わかった」


 キョウが頷く。

 シカの顔は、見えなかった。少しの間を置いて、足音が前を進んでいく。


 離れたところからも、かすかに人の気配がした。

 小さく、草葉の擦れる音が聞こえる。時折、彼枝を折る音が、大きくひびいた。そのたびに、周囲の人の気配は、ぱたりと消えた。しばらくの間を置いて、また人の気配が動きだす。


 シカの足取りは、軽い。

 夜目が効くらしいのだ。まるで、逃げるべき方向が分かっているかのように、シカは進んでいく。


 遅れて距離が離れても、シカの足音は分かった。

 長い付き合いなのだ。キョウは離れすぎないように、シカの足を追った。

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