ジャージ姿のマリー

烏目浩輔

ジャージ姿のマリー

 商業施設の多い駅前はいつも賑やかでぎらぎらしている。だが、このあたりは駅から離れているため、連休の昼間であってものんびりだ。生活道を行き交うのは近隣住人ばかりで、その足もとには落書きが残っていたりする。小さな子供がチョークで描いたものだろう。


 佳奈かなが電車に三時間揺られて実家に着いたのは昨日の昼過ぎだった。ゴールデンウィークの連休を利用して二泊三日の予定で帰省した。昨日は夜までだらだらすごしていたが、今日は夕方から地元の友達と会う約束がある。それまでにいきたい場所があって、こうやって住宅街に歩を進めている。


 十分ちょっと歩いていると、行手にコンビニが見えてきた。何年か前までは小さな酒屋だったコンビニだ。その奥にある十字路を右に曲がれば、途端に古い民家ばかりが目立つようになる。どこかから漏れ聞こえくるこもった音声はラジオのものらしい。

 民家を横目にさらに歩を進めると、やがて苔むした長い石段が現れた。ずっと昔に石段を駆けあがりながら段数を数えてみたことがある。全部で百三十五段もあってうんざりした。

 石段をのぼり切ると立派な神社に到着するのだが、佳奈の目的地はその神社ではなく石段のほうだった。


 佳奈は今から約十年前に実家を出た。遠方の企業に就職したのをきっかけに一人暮らしをはじめたのだ。両親が寂しがるので長期休みにはなるべく帰省するようにしているが、そのたびにここに足を運んでいるのは石段にしのぶぶものがあるからだった。まさかあの人にまた会えるとは思っていないが、懐かしさに駆られて自然と足が向く。


 佳奈は石段の下から三段目に目をやった。あの人がタバコを吸いながら腰をおろしていた場所だ。

(変な人だったな……)

 一風変わった彼女を思いだすと、おかしさがジワっとこみあげてきた。まわりに人がいないのを確かめて、ひとりでくすくすと笑う。


 本当に変な人だった。

 

     * 


 今から二十年ほど前のこと――。

 当時の佳奈は小学六年生だった。冬休みが終わってすぐの一月半ばに、ひとりでトボトボと通学路を歩いていた。悩み事があるせいで気持ちがどんよりと沈み、下校の足取りがどうにも重かった。

「はあ……」

 項垂れたまま何度目かのため息をついたとき、佳奈は足もとに落ちているそれに気がついた。長方形の小さな紙で、名刺のようにも見えた。身をかがめて拾いあげてみると、ピンク色の文字でこう印刷されていた。


   魔女のマリーです。

   あなたのお悩み解決します。

   料金は応相談。


 ひっくり返して裏側も見てみると住所がしるされていた。マンションかアパートの住所らしく、最後が一〇一号室で終わっている。また、住所の下にはこんな文言もんごんも印刷されていた。


   マリーはここにいます。

   ご相談はお気軽に。


 佳奈は魔女という文言に興奮した。

(魔女ってあの魔女のこと? 魔女が悩みを解決してくれるの?)

 大人になった今は魔女なんてものは実在しないとわかっている。しかし、当時の佳奈は子供だったうえに、ちょうど悩み事も抱えていた。だから、本気でこう希望を持った。


 きっと魔女が悩みを解決してくれる。


 そして、佳奈は家に帰る足を方向転換した。マリーという魔女に会って悩み事を相談してみたかった。

 親切そうな大人に道を尋ねながら、名刺に記された住所に向かった。なんとか辿り着いたそこは、二階建ての古びた木造アパートだった。

 目的の一〇一号室もまもなく見つかった。


 一階のすみっこにある暗がりに、クリーム色のドアがひとつある。そのドアに『魔女のマリー』という文字が見て取れた。極太の油性ペンらしきものでドアに直接書いてあるのだ。そこが一〇一号室のようだが、薄暗くて少し不気味だった。


 佳奈はドアの前に立ってチャイムを鳴らそうとした。だが、ここにきて躊躇ためらいが生じた。幽霊が出そうなアパートでちょっと怖い。それに魔女なんて本当にいるのだろうか。

(やっぱり、帰ろう……)

 踵を返そうと思ったとき、ドアの向こうで声が聞こえた。

「なんでドアの前に立ってんねん。気になるやんか。用があるんやったら、さっさと入ってきて。鍵、いてるし」

(え、私に言ってる?)

 心の中で言ったとき、またドアの向こうで声がした。

「そうや、あんたに言ってんねん。さっさと入ってきて」

 それとほぼ同時にドアがギーとイヤな音を立てつつゆっくり開いた。

(どうして勝手に開いたの……)

 佳奈は気味悪さを覚えながらもドアの中を覗いてみた。


 小さな玄関に一セットのサンダルが脱ぎ捨てられている。その向こうにある部屋の奥には女の人らしき人影があった。腕で頭を支えて横向きに寝転んでいるようだが、部屋が薄暗いせいで女の人の顔はよく見えない。


「なにをボーっと突っ立ってんねん。早よ入りや」


 そう声をかけられた佳奈は、反射的に玄関に足を踏み入れた。怒られた気分になって、つい声に従ってしまった。

 玄関に入るとまた勝手にドアが閉まった。背後で響いたガチャンという音に驚いて肩が跳ねあがる。

 ドアが閉まって密閉されたせいか畳のカビ臭さが気になった。部屋はやけに殺風景で冷蔵庫とテレビしかない。未だ寝転んだままの女の人は、そのテレビを観ているようだ。


(この人が魔女のマリー……?)


 部屋の薄暗さに目が慣れてくると、女の人のあれこれがよく見えた。マリーという名前から西洋人を想像していたが、どこからどう見ても日本人の顔立ちをしている。年齢は二十代半ばだろうか。上下あずき色のジャージを着て、口に火のついたタバコを咥えていた。

 長い黒髪だけにはそれっぽさがあるものの、イメージしていた魔女とずいぶん違う。本物の魔女はあんな感じなのだろうか。佳奈は玄関に突っ立ったままそんなことを考えていた。すると――


「それで、見知らぬ少女、ここにはなにしにきたんや?」

「えっと……」


 佳奈が名刺を拾ったことを告げようとしたとき、女の人は「いや、ちょっと待って」と佳奈を制して、ほっそりとした身体をノソノソと起こした。そのままあぐらをかいて、テレビをじいっと観ている。ここからだと画面を確認できないが、音声からして競馬中継を観ているようだ。

 女の人は「よし!」とガッツポーズをしたあとこちらを見た。

「悪いな、中断して ……ていうか、いつまで玄関におるねん。とりあえずこっちにおいで。そこにおったら話しにくい」


 佳奈は恐る恐る部屋にあがって、女の人の近くに腰をおろした。緊張しているせいで自然と正座になる。テレビに映っているのはやはり競馬中継だった。

 今度こそ下校中に名刺を拾ったことを伝えると、女の人はタバコを灰皿でもみ消して尋ねてきた。

「拾った名刺、見せてみい」

「はい……」

 佳奈が拾った名刺を差しだすと、女の人はそれを受け取って、「確かに私のや」と小さく呟いた。

「まさかとは思うけど」

 女の人は佳奈に冷たい視線を向けた。

「この名刺を見て魔法を依頼しにきたんちゃうやろな……」


 佳奈は魔法を依頼しにここまでやってきた。だが、なんだかそう言ってはいけない雰囲気がある。

「えっと、私……あの……」

 まごつく佳奈を見て、女の人は察したらしい。

「依頼しにきたんかい」

「す、すみません……悩み事があったので……」


 女の人はため息をついた。

「あのな、魔法はガキんちょに依頼できるほど安くないねん。金さえだしてくれたらいくらでも悩み事を解決したるけど、ガキんちょのあんたには絶対に無理な金額や」

 佳奈はカチンときた。今になって思うと小学生は確実に子供だが、六年生というのは背伸びをしたいお年頃だ。何度も〝ガキんちょ〟と子供扱いされたせいで意地になった。

「私、家に帰ったら三万円あります。お年玉を貯めてますので」

 鼻高々にそう言ったのだが、その鼻はすぐさま折られた。

「ゼロがふたつ足りんわ。最低でも三百万や」

「さ、三百万……」

「そうや。魔法は安くないねん。三万円なんて話にならん。けど……」

 女の人はさっき渡した名刺をじっと見た。

「佳奈はこれを拾ったんやもんな……」


 あれ? と佳奈は思う。私、名前言ったっけ? それを尋ねる間もないまま話は続く。


「この名刺を拾うのは選ばれたモンだけなんや。つまり、佳奈と私には縁がある。魔女はそういうものを大切にしなアカンねん。今回は特別におおばんいや。三万円の格安で魔法の依頼を受けたるわ。それに、ちょうどさっき大金も手に入ったとこやしな。そういう意味でもあんたとは縁があるのかもしれん」


 女の人はジャージのポケットからタバコ取り出した。一本咥えて使い捨てライターで火をつけると、テレビを指差してニッと笑った。

「さっきな、万馬券を当ててん。三百万円近く儲けたわ。それをあんたの魔法代ということにしてもいい」

 女の人はふうっと紫煙を吐いた。

「ていうか私って凄くない? 三百万円の大穴を的中やで。凄すぎるやろ」

「す、凄いです」

 三百万円は相当な大金だ。驚く佳奈に向かって、女の人は自慢げ言う。

「やろ? 私ってめっちゃ凄いねん。お馬の天才やと思うねん。いや、お馬だけちゃうな。なにをさせても私は凄いねんなあ。我ながらおそろしい女やで」


 女の人は一頻り自画自賛したあと、ふとなにかに気づいた顔をした。

「そういや、自己紹介がまだやったっけ?」

「あ、はい」

「名刺に書いてあるからもうわかってるやろうけど、一応言っとくと私はマリーってもんや。長年魔女をやらせてもらってます。みなさんのお悩みを解決するのが私の仕事です」

 またふうっと紫煙を吐く。

「……それでなんや?」

 マリーは佳奈の発言を待っているようだ。しかし、なにを言ったらいいのかよくわからない。

「え、えっと……」

「察しの悪い子やな。悩み事があるんやろ?」

「そ、そうでした。悩んでいることがあります」

「聞いたるから早よ言いや」

「あ、はい。あの……えっと、悩んでいるのは――」


 佳奈はもうすぐ行われる学校行事のことで悩んでいた。悩んでいる内容や行事の日取を詳しくマリーに伝える。すると彼女は「つまり、こういうことか」と確認してきた。


「一ヶ月後に小学校で行われるクラス対抗リレーを、中止にしてしまいたいってことやな?」

「はい、そうです。そのリレーでビリになったクラスが、学校まわりの掃除を一ヶ月間しないといけないんです。私は足が遅いから、きっと私のせいで負けちゃいます。それでなくても私は鈍くさくて、いろいろ陰口を言われてて……とにかく、私のせいでリレーがビリになったら、もっとみんなに嫌われちゃう……」


 マリーが「なるほどな……」と頷く。


「でもな、クラス対抗リレーをなくすことはできへん。楽しみにしてる子もきっとおるやろうから、佳奈の願いを叶えて、リレーそのものを中止にするのはよろしくない。魔女はそういう不公平なことはできへんねん。けど、佳奈の足を速くしてやることはできる。足が速くなれば嫌われることもないやろ。それでどうや?」


 みなに嫌われないのであればどんな方法でもいい。佳奈は首を縦に降ってマリーに告げた。

「お願いします。足を速くしてください」

「じゃあ、早速特訓や」

 マリーはのそりと立ち上がった。

「特訓……ですか?」

「そうや。今から特訓しにいくで。ほら、あんたも立ち」

 佳奈は立ちあがりつつ尋ねた。

「あの、どこに……?」

「この近くに神社があるねん。そこの石段が特訓にちょうどええと思う」


     *


 そうやってマリーに連れてこられたのが、今ここで見あげている長い石段だった。実家に帰ってくると当時が懐かしくなり、ほとんど習慣のように佳奈はここに足を運ぶ。


 あのときマリーは佳奈に石段の上まで走れと指示した。走るのが無理であれば歩いてでもいい、とにかく一番上までいってこいと言った。石段を使って佳奈を鍛えるつもりらしかった。

 

「こんな石段、あがれません……」

 ずっと上まで続いている階段だ。体力に自信のない佳奈は弱音を吐いたが、それはさらっと一蹴されてしまった。

「やってみんとわからんやろ。一歩ずつゆっくりでええ。とりあえず石段の一番上までいっといで」

 背中を平手でバンっ叩かれた佳奈は、仕方なく石段をあがりはじめた。


 石段は思いのほか急勾配だった。いくらも進まないうちに太ももがパンパンになり、半分ほどあがったところで体力が限界に達した。

(これ以上は本当に無理……)

 だが、振り返ってみるとマリーが仁王立ちしてこちらを見あげている。止まるのを許さないというプレッシャーを差し向けていた。佳奈は泣きそうになりながらまた石段を進んだ。

 なんとか一番上まであがったときには、足腰がふらふらで、吐く息がゼエゼエと濁った音を鳴らしていた。冷たい風が吹く冬だというのに、額を拭った手が汗でベッタリと濡れた。しばらく神社で休憩しようかとも考えた。だが、だらだらしているとマリーに怒鳴られるに違いない。


 休憩は軽く息を整えるにとどめて、佳奈は早々に石段をくだった。転ばないよう注意しながら一番下までおりると、マリーは石段に腰をかけて競馬新聞を手にしていた。

「ご苦労さん」

 一言だけ佳奈を労った彼女は、赤鉛筆で石段の上を差し示した。

「もう一度上までいっといで」

 またあがるなんて絶対に無理だ。そう思ったものの、断れる雰囲気ではない。佳奈はもう一度石段の上まであがり、それから息を切らして下までおりた。必死であがっておりてきたというのに、マリーは再びこともなげにこう指示した。

「はい、もう一回や。一番上までいっといで」

 そうやって佳奈に何度も何度も石段をあがらせた。


 それはリレー大会の前日まで行われた。マリーは毎日毎日「上までいっといで」と佳奈に指示し続けた。自分は石段に腰かけてタバコを吸いながら、ときには缶ビールを飲んで顔を赤らめながら。


 今になって思うとあんなものは魔法でもなんでもない。単なるシゴキだ。小学生から三万円をふんだくっておきながら、単にシゴいただけなんてひどい話だと思う。

 しかし、そのシゴキのおかげで体力がついた佳奈は、クラス対抗リレーでそこそこ走ることができた。劇的に速く走れたとは言えないまでも、佳奈のせいでクラスが負けるということはなかった。


 リレー大会が行われた翌日に、佳奈はマリーの住むアパートに向かった。リレーの結果を報告したかったのだ。しかし、マリーはもう一〇一号室にいなかった。佳奈に一言も告げずに引っ越したらしく、部屋はもぬけの殻だった。


 その後のマリーがどうしているかは今も不明だ。しかし、リレー大会から一週間ほど経った頃に、佳奈宛の手紙が家のポストに入っていた。差出人の記載がなかったその手紙には、極太の油性ペンでこう書いてあった。


 よく頑張った。花マルや。


 マリーが本当に魔女だったかと問われると、そんなわけがないとしか言いようがない。きっと、小学生から三万円を騙し取ったチンケな詐欺師だったのだろう。ただ、彼女があのとき言った言葉は今でも佳奈の心に残っている。


 高校や大学の受験で学力的に苦労したとき、就活でなかなか内定をもらえなかったとき、仕事やプライベートで問題があったとき、そういうときに彼女のあの言葉が頭の中によみがえるのだ。


「やってみんとわからんやろ。一歩ずつゆっくりでええ。とりあえず石段の一番上までいっといで」


 当時の佳奈は走るのが遅いと言って腐っていた。グジグジと腐るだけでなにもしようとしていなかった。そんな佳奈にマリーはこう言いたかったのかもしれない。


 なにを最初からあきらめとんねん。まずは努力をせんかい。


 もしかしたら、チンケな詐欺師は三万円でそれを教えてくれたのかもしれない。諦める前になにかすることがあるだろうと。


 佳奈はずっと上まで続く長い石段を改めて見あげた。

(ひさしぶりにあがってみようかな……)

 そう思いながら足を踏みだす。





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ジャージ姿のマリー 烏目浩輔 @WATERES

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