最終話

 夏の終わりの夕べ、熱いような少し涼しいような静かな風が吹いてくる。日本の夏は年々暑くなる。暑さの中に放り込まれるたびに、地球はもうすぐ腹を立てて壊れるのかもしれないと感じている。草むらの中からリーリーと虫の声がかすかに聞こえた。同時に、耳を澄ますと、ひぐらしの声が響いてくるのがわかった。


 夏は、今年も終わるのだ。


 僕は、あのとき待ち合わせに来なかった彼女のことを、待っている間ずっと考えていたことを思い出した。なぜ来ない。なぜ僕を待たせる。なぜ彼女はここにいない。電話をかけても誰も出てこない。もしかして、もう二度と来ないのか。もう二度と二人で話すことはないのか。もしかして、僕は見限られたのか。そして知る、彼女の事故。僕はなぜ守れなかったのか、彼女を。そこにいなかったのだから、仕方がない。仕方がないことはわかっている。だけど、そこにいたかった。夕方の風が、僕の汗ばんだ額をなでていく。そこにいたかった。彼女のそばにいればよかった。彼女をなんとかして守りたかった。守るなんて、生意気なことは言えないけれど、何か役に立ちたかった。彼女にとって、意味のある存在でいたかった。


 ひぐらしの声が、泡のような響きで僕の耳をくすぐる。僕の近くを、年老いた夫婦がゆっくりと通り過ぎていった。ふいに手の中の万年筆が、するりと滑る。柔らかい乾いた土の上にぽとりと落ちた。急いで拾い上げ、指先でそっと汚れをはらう。



 この万年筆に、新しいインクを入れよう。そして毎日使おう。何に使えばいいのか。手帳か。日記か。それとも、手紙か。彼女に手紙を書こうか。手紙、なんて柄ではない。絵葉書でもいい。夏の風景を切り取った美しい絵葉書を買おう。そして彼女に送ろう。彼女がもしも喜んでくれたなら。



 喜んでくれたなら、僕は彼女に告げよう。僕の今の率直な気持ちを。



 彼女がくれた万年筆を胸ポケットにしまい、僕はベンチから立ち上がる。夕闇が静かに近づいてきていた。ひぐらしが鳴いている。その声を僕は、不思議な繭の中から聞いた。



 夏が去っていく。彼女と僕の長かった「ともだち」の時間を連れて。





【完】



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夏の終わり 鹿島 茜 @yuiiwashiro

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