そして明日もまたアクセルを踏む

陽澄すずめ

そして明日もまたアクセルを踏む

「このたびは、本当に申し訳ありませんでした」


 そう言って巽は、大きな身体を腰から直角に折り曲げた。

 隣では、元請運送会社の社長が同じような姿勢で立礼している。

 目の前には、木製の応接テーブルを挟んで、荷主である製菓会社のお偉いさんが二人。


「いや、まぁ、駄目になったもんは仕方ないですからね。次から気を付けてもらえば、うちとしてはそれで良いんで。損の出た分、またご連絡します」

「承知しました。今後このようなことがないよう、安全管理を徹底いたします。引き続きよろしくお願いします」


 巽は誠意を込めて一語一語を丁寧に告げ、最後にもう一度きっちりと頭を下げた。

 久々に袖を通したスーツや首元を締めるネクタイは身を守る鎧のようでもあり、筋肉の強張りを嫌でも意識する。背中が汗ばんで感じるのは、室内に漂う湿気のせいだけではあるまい。



 この製菓会社から元請運送人を通して、巽運送に仕事が下されてきたのが二ヶ月前。

 積荷はアイスクリーム。夏に向けて出荷が増えるため、元請の手が足らない分のおこぼれをもらった形だった。

 巽運送は大型トラックでの長距離輸送がメインであり、中型の冷凍車両は二台だけだ。くだんの配送を、巽は若手ドライバーに割り当てた。


 ところが、つい数日前。

 荷主の工場でトラックに荷物を積み込んだ後、走行中に冷凍装置が停止した。

 当然、アイスクリームは全解凍。荷台に満載した商品全てが廃棄処分となってしまったのである。

 後から担当ドライバーに話を聞いたところ、「そう言えば、出発前に冷凍のスイッチが何回か入らなかったんすよ」とのこと。

 原因は電気系統のトラブルだが、気付いていたのなら防げたはずの事故だ。


 ただ、巽とて、使用頻度の低い冷凍車両の点検がやや疎かになっていたことは否めない。

 何にしても責任者は社長である自分なので、こうして元請と一緒に荷主を訪ねて謝罪した、というのが顛末だった。



 製菓会社の事務所を後にし、元請の社長と別れて、巽はトラックを走らせた。これから、別の客先で集荷を行う予定となっている。

 小さな会社なので、社長自らハンドルを握らないと業務が回らない。

 業界全体として人手不足で、食い扶持に困らないのはありがたいが、常日頃から激務を強いられている。

 今回の件の損害賠償が全額負担となるのも、零細企業としてはなかなかキツい。常温でアイスクリームを運んだら溶けるのは当たり前であり、偶発的な事故とは看做されないため、運送賠償保険も対象外になる。

 働けど働けど。

 いろんな意味で、こういうのを自転車操業と言うのではなかろうか。トラックだけど。


「あれ巽さん、ネクタイ珍しいんじゃないの? やだ、男前が上がるわー」

「あぁ、ちょっと先に用事があったんで。慣れないと肩凝りますね、はは」


 懇意にしている得意先にて、顔馴染みの事務員のおばちゃんの世辞を苦笑いで躱す。いつもより淡々とフォークリフトで荷積みを済ませ、再び運転席へと戻った。

 クラッチを踏み込み、シフトレバーはニュートラル。スタータースイッチをONにしてから、ギアは二速へ。

 呼吸するのと変わらないほど手慣れたはずの発進操作も、今日はどことなく重い。

 咥えた煙草に火を点ける。肺の底から吐き出した煙は、まるで溜め息みたいだった。



 今年の梅雨はやけに長い。どんより曇った空からは、程なくしとしと雨が降り始めた。

 太陽は知らぬ間に落ちてしまったらしく、辺りに蔓延はびこる澱んだ宵闇がどうにも辛気臭い。

 こういう時に限って、高速道路の事故渋滞に巻き込まれる。のろのろ進む間に、吸い殻の山が灰皿の上に嵩んでいく。

 積荷の納品予定は明朝なので時間はあるが、目的地がひどく遠く感じられた。


 思い返すと、ずっと走り続けてきた人生だった。がむしゃらに甲子園を目指した高校時代も、挫折して運送屋トラッカー の道を選んだ時も、大切な家族を失った日でさえも。

 いつまで走り続けるのか。辿り着いた先に何かあるのか。

 終わりの見えない日常に、時々胸を掻き毟りたくなる。


 名古屋近郊にある自分の会社に一旦戻り、楽な作業服に着替えてから、またすぐに出発する。

 既に夜は更け、東海北陸高速道は同業者の大型車両ばかりだ。

 午後十時ごろに到着したサービスエリアで、少し早めの仮眠を取ることに決めた。


 フードコートで天ぷら蕎麦を掻き込み、コインシャワーで汗を流す。

 ひと気のない喫煙コーナーで、就寝前の一服をする。

 雨は止んだが、湿気が肌にまとわりついている。どうにもすっきりしない。

 一本だけでは飽き足らず、二本目の煙草に火を点けた時、腕時計型端末が着信を告げた。


【久梨原 才華】


 表示された名前を目にして、巽の心臓がどきりと高鳴った。慌てて喉のつかえを払ってから、がっしりした指の先でそっと通話キーをタップする。


「おう、サイカさん」

『巽さん、こんばんは。今、電話しても大丈夫?』

「いいよ。どうしたの」

『ううん、ちょっと巽さんの声が聴きたくなっただけ』


 しっとりと落ち着いたアルトの声音に、ほわほわ体温が上がってくる。

 電話の相手——サイカは、一年と少し前にひょんなことで知り合った女性だ。国の研究施設『ふくしま特別研究都市』で働いている。


「何なに、どうしたの。何かあった?」

『んー……まぁ、ちょっとね』


 サイカは言葉を濁しながらも、今日の出来事をぽつぽつと話してくる。

 これまでにも、時おりサイカが電話をかけてくることはあった。近況報告だったり、仕事の軽い愚痴だったり。


『自ら望んで戻った職場だから、多少の理不尽は呑み込むけど。それにしたって、この街にいると気分転換もしづらいでしょ。だからよく巽さんのことを考えるのよ。今どこを走ってるのかな、とか』

「そりゃ、嬉しいけどさ」


 俺の仕事もそんなに良いもんでもねぇぞと口を突きかけて、やめた。卑屈な言い方になってしまいそうだった。

 サイカは、なかなかあの街から出られない。国家機密の研究施設ゆえ、自由が制限されている。

 動き続ける自分と、動かない彼女。抱える悩みの性質は、きっと相容れない。


 電波の向こうで、カラカラと引き戸を開ける音がした。


『うわ、この時間なのに蒸し暑いわ。風がないせいかしら。……あっ』

「何?」

『今日は満月なのね』


 自室のベランダに出て、夜空を見上げるサイカの姿を想像する。どうやらあちらは晴れらしい。

 つられて巽も、空を振り仰ぐ。


「んー、こっちは曇ってて月は見えねぇな。……あ、いや」


 空の高い位置にある雲の切れ間から、白い光が漏れ出しているのを見つけた。それは徐々に拡がっていき、朧げながらもまるい形を取る。


「月、ちょうど見えてきたよ。ほんとだ、満月っぽいな」

『そう……良かった』


 囁くようなサイカの言葉が、ふわりととろけて聴こえた。

 何となく、互いに無言になる。

 手にした煙草を、一口、二口。

 遠く離れたところにいても、甘い沈黙を共有することはできる。


 伸びた灰をとんと落とし、巽は口を開いた。


「俺、明日富山なんだよ。港の近くまで行くから、海の写真でも送るわ。海沿いの公園に引退した帆船も停まってるし」

『本当? 私、日本海側ってあんまり行ったことないのよ。いいなぁ』

「魚が美味いんだぜ。でかい魚市場があってさ、ヤバい海鮮丼が安く食える」

『何それ。私も食べたい』

「海鮮丼の写真も送るわ」

『えー、写真だけ?』


 本気で不満そうに返されて、思わず吹き出してしまった。

 サイカの声は楽しげで、心地がいい。ずっと聴いていたい。


『ごめんなさい、たくさん喋って。巽さん、もう寝るところよね』

「いや、いいよ、全然」


 ふふ、と柔らかな笑みが耳朶をくすぐった。


『ありがとう。元気出たわ。明日も頑張れそう』

「奇遇だな。俺も全く同じ」

『もう、調子いいんだから』


 いや本心なんだけど。


『それじゃあ、おやすみなさい』

「あぁ、おやすみ」


 通話が終わると、辺りに静寂が滑り込んでくる。甘やかな余韻の混じる閑けさだ。


 もう一度、視線を上げる。

 雲が去りゆき、月は今やすっかり姿を見せていた。

 満ちては欠け、欠けては満ちてを、終わることなく繰り返す。美しい真円の輪郭が、きりりとその環を閉じている。

 明日は、きっと晴れる。


 巽は煙草の最後の一口をゆっくりと肺の隅々にまで行き渡らせ、細く長く吐き切る。そして短くなった吸い殻を灰皿に落とすと、ぱちんと両頬を叩いた。


「よっし」


 いつまで走り続けるか分からない。その先に何があるのかも。

 自分の日常は続く。彼女の日常も続く。

 駆け抜けていくその時々で、いろいろな景色が見られるだろう。


 明日、アクセルを踏む理由がある。

 ここから走り出すには、それだけで十分だ。



—了—

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