ケンちゃんを追う

花岡 柊

ケンちゃんを追う

 えっ。今なんて言ったの。この家を出て行くって言わなかった?

 突然、どうしてそんなことを言うのよ。


 ケンちゃんは、いつだってそうだ。何を考えているのか解らないぼんやりとした顔で、突然思いも寄らないことを口にする。

 長い手足と、ひょろっとした高い身長。指なんて、肌はすべすべで細くてきれい。ピアノでも弾いてるの? って訊かれたのは、一度や二度じゃないはず。だって、私も訊いたもん。

 暖簾みたいな前髪で隠してる瞳は、純粋な子供みたいにキラキラしている。

 鬱陶しくないの? って言ったら、見られる視線の方が鬱陶しいなんて応えちゃう。自分が周囲の視線を集めることを理解しているんだ。それは、主に女性の視線なのだけれど。要するに、ケンちゃんはカッコいい。


 私が「こんにちはっ」て言って、わざと右手と左手の指先でケンちゃんの前髪を開いて瞳を見ると、ケタケタと可笑しそうに目を細めて笑うんだ。それから「毎度〜」って、まるで近所の八百屋さんみたいに応える。


「甘いイチゴは、ありますか?」


 冗談交じりに訊ねたら、イチゴはないけどって甘いキスをくれるから、おでことおでこをくっつけて二人でクスクス笑った。


 ローテーブルの上には、ついさっきケンちゃんがサイダーを飲んでいたグラスが置きっ放しになっていた。グラスの中では、残ったサイダーの炭酸がシュワシュワと音を立て続けている。その音は、ケンちゃんの代わりに私へ文句を言っているみたいだ。


 ブツブツ。ブツブツ。


 確かに私はいい加減なところがあるし、ちょっとだらしないところもある。あ、あと。料理もそんなに得意じゃないし、掃除も好きじゃない。

 六時には帰るね、なんて言いながら、ふらりと立ち寄った本屋で面白い本を見つけて読み耽り。気がつけば、帰ると言った時間よりもずっと遅くなってしまったこともあるし。玄関では、靴を脱ぎっぱなしにするし。着ていた上着をベッドへ放り投げたままにしていることだってある。

 そうすると、私の上着を手にしたケンちゃんがハンガーにかけて片付けてくれるんだよね。ふふ、いつもありがとう。


 出汁を入れ忘れたお味噌汁を作ったり、ドライカレーなのかと見がまう「鶏そぼろ丼」を作ったりもした。


「これ、ドライカレー?」


 どんぶりに入っているにもかかわらずそんな質問をされた私は、健ちゃんが楽しみにとっておいた冷凍庫の中のちょっと高級なアイスを有無も言わさず食べたよね。その時ケンちゃんの口から洩れた「あ……」ていう衝撃の声は今も忘れない。


 鶏そぼろ丼を諦めてドライカレーにチャレンジした時は、スーパーで大袋入りのレーズンを見つけたことが嬉しくなって山ほど入れちゃったよね。そしたら、ひき肉よりも多くなってしまったレーズンに、なんの料理かわからなくなったよね。

 ケンちゃんてば、とにかくレーズンばかりを先に消費して「ほら。ちゃんとしたドライカレーになったよ」って笑ってくれた。その時は、ケンちゃんて優しいよね。なんて、嬉しくなったけど。今思い返してみたら、っていうのはちょっと失礼だよね。まー、いっか。

 

 ケンちゃんのセーターを、普通の洗濯物と一緒にグルグルと洗濯機で洗ったら縮んじゃったこともあったね。ケンちゃんは手足が長い分、余計に短さが際立って。お腹もちょっと出るくらい丈も短くなっちゃって。二人で爆笑したよね。


「こんなに面白い恰好をさせて。俺は今から芸人を目指すのか?」って、ケンちゃんはふき出しながら笑ってた。

 ケンちゃんが芸人を目指すなら、私相方になってもいいよ。隣で縄跳びしてたらいい?


 そうだ。掃除機をかけたら、ケンちゃんお気に入りの靴下も一緒に吸い込んじゃって。紙パックの中から取り出したら、アーガイル柄の靴下が埃まみれになってたよね。「あ〜あ」なんて二人で声を揃えたらうまい具合にハモっちゃうから、ケンちゃんてばその靴下の埃をパンパンと払ったかと思うと、さっと履いて。「よし、カラオケ行こうっ」て、私の手を引いて出かけたよね。あの日は、三時間も歌って、二人とも声がガラガラになったよね。楽しかったなぁ。


 ケンちゃんとは、こんなにも楽しい思い出がいっぱいある。なのに、この家を出るって。どういうことなの。一緒に居たら楽しいことしかないはずなのに、離れてしまうなんて嘘だよね?


 ケンちゃんが玄関先でスニーカーを履いている。私に背中を向けて、一緒に住むこの部屋を出て行こうとしている。


 なんで。

 どうして。

 お願い、出て行かないで。


 これからは、約束した時間にちゃんと帰宅するし。脱いだ靴は、綺麗に揃えるし。上着だって、放り投げたりしないでハンガーにかけるから。

 それにお味噌汁には出汁を入れて、味見だってするよ。鶏そぼろには、お醤油を入れすぎたり、焦がさないように気をつける。ドライカレーには、レーズンがたくさんあるからと入れすぎないようにする。

 セーターを洗う時は、洗剤にも気をつけるし。他の洗濯物と一緒にグルグル洗わず「優しく手洗い」のボタンだって押すから。ケンちゃんが履こうとしていた靴下を、掃除機で吸い込んだりもしないよ。

 だからお願い。この部屋を出て行かないで。


 口にできない思いを胸の中で叫んでいるうちに、ケンちゃんが玄関のドアを開けて出て行った。バタンと乾いた音を立てて閉まるドアが、まるで冷たい鉄の塊みたいに私を拒絶する。

 一人取り残された私の頬には涙が伝って、嗚咽も漏れてきた。


「ケンちゃん……。行かないでよ、ケンちゃん。いやだよ。一人にしないで。好きなのに……。ケンちゃんが好きなのに……」


 薄い壁の向こうから聞こえてくる、遠ざかっていく足音。ザスザスって、靴底を少しだけ引きずるような歩き方。ほんのちょっと地面を擦るような音を聞き分けられる私は、いつも健ちゃんの帰りがすぐにわかるんだよ。

 だから、離れていく音だって、痛いくらいにわかっちゃうんだから。


 足音が遠ざかる。静かな室内。ケンちゃんのいない部屋。

 頭の中が寂しいって、叫んでる。グワングワンって、眩暈がするみたいに叫んでる。


「待って、ケンちゃんっ」


 あとを追おうと走り出したら、ローテーブルに足を引っ掛けた。その衝撃で、ブツブツ言っているグラスが倒れてしまった。テーブルに広がった透明な液体が、いくつもの小さな泡を立てている。

 汚れたテーブルを拭くのも、グラスを立て直すこともしないで、私は靴も履かずに玄関を飛び出した。

 転げるように外に出たら、ケンちゃんの姿はもうずっと遠くにあって。私は焦って足を前に出す。ケンちゃんとお揃いの、アーガイル柄の靴下が汚れていく。


「ケンちゃん!」


 叫んだけど聞こえていないみたいで、ケンちゃんはリズムを刻むように体を左右に揺らしながら遠く離れていく。


 靴を履いてる時には気にもならなかったけど、小さな石の粒や凸凹のコンクリートが足の裏に刺さって痛い。そのまま走り続けたら、ケンちゃんとお揃いの靴下が破れてしまうかもしれない。そう思うと悲しいけれど。もっと悲しいのは、ケンちゃんがいなくなること。この部屋からいなくなってしまうこと。私の前からいなくなってしまうこと。


 だから私は走った。小さな石の粒に痛みを感じても。汚れた道路でシミを作る靴下に悔しさを覚えても。私は、ケンちゃんに向かってひた走る。


 待って、ケンちゃん。お願い待って。


 手の甲で乱暴に頬の涙を拭った。

 離れていく背中が小さくなっていく。

 私は、ケンちゃんの背中も好き。ちょっとだけ猫背でガッチリとしていて。頬をくっつけたらあったかい。


「ケンちゃんっ」


 ようやく追いついた私の焦った顔と息遣い。それと、靴下のままの姿を見たケンちゃんがとても驚いた顔をする。

 今指先でケンちゃんの前髪を除けたなら、鳩みたいにバチッと開いた目をしているに違いない。


「どうしたんだよ」


 ケンちゃんは、心底驚いたという顔で私を見ている。


「だって家を出るっていうから」


 私は、涙を浮かべて訴えた。


 嫌だもん。ケンちゃんがいなくなるなんて、絶対に嫌だもん。

 こぼれ出る涙も拭わず、ただただ暖簾みたいな前髪の隙間から見えるケンちゃんの瞳を窺い見ていた。


「えっとぉ、家を出るってのはさ。一緒にあの家を引っ越そうって話で。で、これから不動産屋行くってことで……。昨日、言ったよね?」


 ケンちゃんが苦笑いを浮かべて私を見てきた。


「え……。なんのこと」


 ケンちゃんの言っている意味が解らず、息を切らしながら震える声で訊ねた。


「でたよ。テレビに夢中で、話聞いてないやつ」


 そう言ってケンちゃんはケタケタと声を上げて笑った。そのあとには「あーあ」と言って、私の履いているお揃いの靴下の汚れを見てもっと笑う。


「あの部屋は狭いから、少し広いところに越そうぜって話したろ」


 そう言ったケンちゃんは私に背中を向けると、ほらってしゃがむ。


「おぶってくれるの?」

「だって、めっちゃ足痛そうじゃん」

「うん。痛い」


 痛いけど、笑っちゃう。私の勘違いだったって解って、嬉しくて笑っちゃう。それでケンちゃんに背負われれば、ほんのり伝わる温もりを感じて子供みたいに泣けてきた。


 その後、新しくお揃いの靴下を買いに行き、一緒に新居も探しに行った。

 倒れたグラスから漏れたサイダーは、文句なんかないよって感じで、窓から入る陽の光をうけてキラキラと光っていた。

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