KAC2021 #2 走る赤いハイヒールの女

くまで企画

KAC2021 #2 走る赤いハイヒールの女

(はしれ、走れ走れ走れ――!)


 深夜、閑静な住宅街に地面を蹴るけたたましい音が響いていた。幾つかの家の明かりが灯り、音の主を見定めようと起きてきた住人の姿がちらほら。彼らは口を揃えてこう主張する。


 赤いハイヒールの女であった――と。


 ・・・


 思えばこの事件は発端から奇妙であった。普段は一切の沈黙を貫く埃にまみれた固定電話が居所を忘れらぬようにと初めて音を発したのだ。私はここだ、携帯電話の若造にばかりかまけるな、と言うように。

 そして、さらに奇妙なことは続く。電話の内容は、年に数人も訪れないホームページを見たというご婦人からの依頼だった。慌てた助手は保留の方法も分からずに受話器を手で抑え、探偵を電話口に引っ張って寄越した。にもかかわらず、一言二言交わしただけで探偵が切ってしまったものだから助手は思わず声を上げた。

「なに切ってんですか! お仕事の依頼でしょ!?」

「まあ待て。綿村わたむらくんこれは何かの間違いに違いないよ」

探偵であらせられる家達いえたつ先生に調査依頼を、と仰ってましたよ! 探偵はともかく、家達なんて名前はあなたしかいないでしょうが」

「……詐欺でないとどうして言い切れる」

「止めましょうよ。疑心暗鬼は」

「考えてもみろ、ああいういい歳したご婦人だからこそ――」


 ジリリリリリリッ!!!!


「ひぃ!!」

 固定電話といい歳したご婦人の怒声に聞こえたのか、再度鳴った電話に探偵は情けない声を上げ、助手が丁重に用件を聞いた。


 ・・・


 依頼人はブルジョワジーの巣窟といえる一角に居を構えていた。こういう住宅街というのは得てして物見高い人間が多い。探偵と助手のことすら既に回覧板で周知されていたのだろう。依頼人宅に向かう途中、一人の女性がこちらに近づいて来た。それを合図に人が方々から集まってくる。


「あなた、探偵さんでしょ?」

「昨夜のことを聞きに来られたのよね?」

「長い黒髪だったわ」

「黒いロングコートを羽織っていたわ」

「足が速かったわ」

「あんなにうるさくされて目が覚めてしまったわ」

「ヒールで走るなんてよほど慌ててたのね」

「まさかご主人にそんな甲斐性があったなんてね」

「あらやだ。奥様ったら」

「おほほほほ」

 探偵が仮面のような笑顔のまま、口を開いた。

「ヒールですか?」

「そう、赤いハイヒールよ」

「奥様が帰って来る少し前に家に入って行って……」

「その後出てきてないわよね?」

「だからね、探偵さん。私たち話していたの」

「これは浮気じゃなくて」

「殺人事件だって!」


 有閑マダムとの会話を終え、彼女らの痛い視線の中、二人はようやく依頼人宅の呼び鈴を押すことに成功した。


「お待ちしておりましたわ。先生」

 ふくよかな肉声で迎えてくれたのは依頼人であった。白い綿埃のような犬か猫を抱き、探偵と助手を迎えるだけであるというのに華美な服装をしている。

「貴方、お客様を応接室へご案内して差し上げて」

 そう言われたのは痩せぎすの男であった。歳は依頼人とそう変わらないであろうに、白髪の目立つ髪に暗い表情が妙に苦労を感じさせる。足を引き摺るように、よぼよぼと歩く姿は、依頼人よりもだいぶ年上のように見える。素人目にも分かる上等なセーターを着ていなければ、使用人と勘違いしてしまいそうだ。

「こちらへどうぞ」


 革張りのソファに腰を下ろすと、依頼人がティーセットとお茶菓子を銀トレイに載せて持ってきた。

「スリランカのティーですわ。お口に合うかどうか」

「それで――」

 探偵は興味なさそうに一目くれただけで、依頼人に向き直った。

「浮気調査、ということでしたが?」

 ご主人が蚊の鳴くような声で言う。

「浮気、ではありません」

「いいえ、浮気です」

 ご主人の言葉を叩き切るように依頼人がそれを制する。

「先生、聞いてくださいな。厭らしいんですのよ、この人。私というものがありながら浮気しておりますの」

「奥様がそう思われる、失礼ですが、根拠は?」

「赤いハイヒールの女ですわ」

「ほう」

「お隣の方から聞きましたの。昨夜、我が家に赤いハイヒールの女が入っていくのを見たと。私は、お花の先生とお友だちと旅行に出掛けておりました。ホテルの、ええ、どれも美味しくてお話にも花が咲いておりましたのよ。ほほほ」

 依頼人が高笑いをする。助手は探偵の顔色を伺ったがまだそうだった。

「それを……この人ったら女を家に連れ込んで……ああ、厭らしい!! 宿の手違いで帰らなかったら……ご近所の方々にもあんなこと言わないのに」

「だから、そんな女はいないと言っているだろう!」

 ご主人が初めて声を荒げる。恐らくは、探偵と助手が来るまでにも、いや他のことも、こうやって責め続けられてきたのだろう。だが、依頼人は怯むでもなく、さらに声を大きくする。

「黙りなさい! 恥知らず!! 貴方が会社にいられるのも、すべて私の父のお陰じゃない! 感謝されこそすれ、このような仕打ちを受ける謂れはないのよ!」

「謂れ……ねぇ」

 探偵が小さく呟く。それを聞いた助手の顔が青ざめる。

「まあまあ! 奥様の気持ちは分かります。まずはご主人にお話を伺いたいので、少しあちらの方で休まれては?」

 助手の言葉に依頼人は、部屋を出て行った。


「それでご主人。奥方が『お花の先生』と『話に花を咲かしていたころ』ですよ。あなたはどこで何をされていたのですか?」

 変な部分を強調しながら探偵がご主人に尋ねる。

「家に一人でいましたよ」

「そして、誰も訪ねて来なかった?」

「ええ。誰も訪ねては来ていません。妻も出掛けましたが、深夜に戻りました」

「ご近所の方々が『赤いハイヒールの女』を見たと?」

「勘違いでしょう」

「暗い中とはいえ、『赤いハイヒール』というのはかなり特徴的ですよね。お宅に入って行ったそうですよ。そして出てこなかったとか」

「妄想ではないですか? 先ほども言ったように妻は深夜に戻りました。人がいたなら、気づいたはずです」

「女はすでに殺されているんだ、などということを仰る方もいました。これは確かにくだらない妄想に過ぎない」

「そうでしょう」

「人を一人消すというのは、そう容易いことではないんです」

 探偵が口元を隠すようにご主人を見据える。助手は彼を凝視する。こうなった時の探偵は『すでに謎解きを終えている』のだ。


 ・・・


 探偵は言葉を選ぶように、だがそれを楽しんでいるように続ける。

「私は個人の趣味嗜好にとやかく言うつもりはない。奥方との結婚生活を守ろうというあなたの気持ちも見えている。私には正直、理解し難いが……我々の邪魔をしないのなら、『赤いハイヒールの女』を消すお手伝いをしましょう」

「……何を」

「ハイヒールで走る、というのはかなり辛いことのようです。靴擦れもしますし、かなり足を痛めてしまう行為だ」

「……」

「女性に苦行なら、男性なら余計に、でしょう? 今も歩くと痛むのでは?」

「家達くん、まさか」

「そのまさかだよ。ご主人の言うとおり、始めから『赤いハイヒールの』なんていなかったのさ」


 探偵は下卑た笑みを浮かべる。


「いたのは『赤いハイヒールの』だったのだから」

「まさか!?」

 助手は驚きの声を上げる。

「みんなが女を見たと証言しているんですよ?」

「そこだ。ご近所の方々の言葉を思い出してみたまえ。長い黒髪であった。黒いロングコートであった。足が速かった。赤いハイヒールであった……誰も顔面について触れていないのはなぜだと思う?」

「見えなかったからじゃないですか?」

「そう、暗くて見えなかったのさ。時節柄、マスクもしていたのだろう。誰も怪しまない。黒い長髪で、赤いハイヒール。ただそれだけのことで人間は『女』である! と思い込まされるのさ」

「では誰だったんです」

「ここにいるじゃないか。ねえ、ご主人?」

 助手が、ご主人の方に顔を向けると、彼の顔面は赤くも青くも見え、ただただ恐怖しているようにも見えた。

「ご主人は『そういう趣味』の持ち主なんだ。奥方の家との関係上、不貞はできない。だが近くにいるのはあのお世辞にも美麗の句は言えない相手。歪められた愛情は自分へと向かい、いわゆる女性の服装を身に着けることで満たされていった」


 探偵は語る。女装癖は家の中に留まらず、ご主人は、やがて外の世界に出たいという衝動に駆られていった。そして妻が出かけて帰宅が遅いと分かった時、夜ならば人目も少なかろうと外出。しかし思いがけずに妻の帰宅が早まり、急いで家に走って戻った――その姿を見た人々が口を揃えて言ったのだ。ハイヒールの女がいた、と。


 ご主人は、その間も探偵と助手を見送る際も、一言も発しないままであった。


 ・・・


 依頼人にはどのように説明したか?これがまた奇妙であった。

 数日と経たぬ内に、ブルジョワ住宅街は『お化けの女』の話で持ち切りとなったのである。それは暗い路地から現れては走って消えていく赤いハイヒールの女。あまりにも目撃が頻発するために週刊誌やテレビに取り上げられたほどだった。

 住人らの関心は殺人事件から、幽霊話に華麗にシフトし、依頼人も夫の醜聞よりもそれを信じた。


 そしてこの事件の一番の被害者は助手の綿村くんである、と記しておこう。


「やあやあ、ひどい足だねぇ」

「……君が黒髪のカツラをつけて走れと言った時はどうしようかと思ったがね。これで赤いハイヒールの女は消えて、赤い靴の幽霊になったわけだ?」

「ふっふっふ。幽霊が靴音を立てるなんて聞いたことないがな」

「君ね……しかしご主人もよく走れたな」

「ご主人が痛めていたのは片足だけだったようだがな?」

 文句が止まらない助手の肩を探偵が優しく叩く。


「え?」

「まあ、この嘘でみんなが幸せになったならいいんじゃないか?」

「嘘? 嘘って……」


「どこから?」


 探偵はご機嫌に鼻歌を歌いながら、固定電話の線を引っこ抜いた。

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