木綿子の憂鬱、絹子の懸念

 藤見豆腐店は、どう見積もっても大繁盛をしているというわけではない。しかし、地域に必要とされて日は長く、贔屓ひいきにしてくれている地元の固定客も少なくない。だから朝の開店からしばらくは、店はそれなりに客で賑わっている。

 しかし、日が高くなるにつれ少しずつ客足は衰えはじめ、正午を迎える前にようやく一区切りがついた。

「はぁ……」

 開店時間からずっと笑顔で接客をしていた木綿子。だが客足が途切れた途端にふと表情を曇らせ休憩用の籐椅子に体を預けると小さくため息をつく。

 それは密かに、のつもりだった。

 しかし木綿子の母である絹子きぬこはそのため息を耳ざとく聞きつけると、ショーケースを回り込んで木綿子の側へやってくる。

「木綿子。あなた、最近ため息が多いじゃない。何かあったの?」

「お母さん……」

 おっとりと垂れた切れ長の目をしている絹子が、更に心配そうに目を細めて木綿子を見つめた。

 実をいうとここ数日、木綿子は何度もこんな風にため息を繰り返しているのだ。客の前では変わらずいつも笑顔だったが、ずっと一緒にいる絹子にはその変化は一目瞭然だった。

 心配そうな母の様子に、一瞬、木綿子は何かを口ずさむように唇を震わせた。しかし、結局はゆるく首を振って笑う。

「ううん、なんでもないの。ちょっと疲れてるだけだから、心配しないで」

「……木綿子」

「……あっ、今のうちに品出ししちゃわないと!」

 親からすれば、娘の口から「心配しないで」なんていう言葉が出てくること自体が心配で仕方がない。だが、木綿子はそれに気付いてはいない様子で忙しそうに仕事に戻った。まだ店に出していない商品を取りに裏の工場へ続く通用口へ向かった木綿子。絹子は気遣わしそうにそれを視線で追ったが、声をかけることが出来ないままに木綿子は通用口の向こうへ消えていった。

「あの子、何か悩み事でもあるのかしら。心配だわ……」

 絹子は木綿子の消えていった通用口から視線を逸らさずに呟く。

「ねぇ、あなた?」

 絹子が意見を求めたのは、店の一番奥で今時珍しい紙の帳簿と睨めっこをしていた彼女の夫。つまり木綿子の父である進歩すすむだった。

「ん、ああ……」

 そんな風に意見を求められても、絹子ですら聞き出せなかったことを進歩が知っている訳もなく、妻の不安を払拭してやれるほど上手いことが言える訳でもない。進歩にできるのは、視線を帳簿から逸らさず唸るような声で応じることだけだった。

「……そうだな。だが、木綿子ももう子供じゃないんだ。一人で乗り越えられることは乗り越えていくし、一人ではどうしようもないと思ったら相談くらいしてくれるだろう」

「それは……確かにそうかもしれないけれど……」

 進歩の言葉に、一瞬絹子は僅かに唇を尖らせて小さな不満を表す。しかし、すぐに諦めたように首を振った。

 進歩は若いうちからこの藤見豆腐店で職人として働いてきた。それだけあってその腕は一流だ。しかしその代わりと言っては何だが、職人気質で無愛想なところがある男だった。

 それでも藤見豆腐店の跡取り娘だった絹子との大恋愛、先代になかなか認めて貰えなかった結婚、そして二人で乗り越えた長い不妊治療の末に得た一人娘である木綿子のことは目に入れても痛くないほどに可愛がっていた。実際、木綿子のため息を聞いて誰よりもそわそわと気を揉んでいたのは進歩だったのだ。

 本当ならば今すぐにでも木綿子を問いただしてため息の理由を聞き出したいのも、絹子と同じに違いない。ただ、木綿子が敢えて話さないことを無理矢理に聞き出すということは、逆に彼女を傷つけることになるのではと危惧してもいるのだろう。

「……まあ、それがあなたの優しさなんだものね……」

「……何か言ったか?」

「いいえ、何も?」

 微かな呟きにも鋭く反応した進歩の咎めるような、居心地の悪そうな声を、絹子は涼やかな顔で受け流してその横顔を見つめた。

「……すみません」

 丁度その時だった。店先に一人の人影が立ち、店内を覗き込みながら遠慮がちに声をかけてくる。声からすると若い男性のようだ。

「はーい、お待たせ致しました! 何をお求めですか?」

 客が来たのだと思った絹子は、ぱっと顔を上げ店先の声の主の元へと小走りに近寄る。

 キャスケットを被ったその男性客。服装は立襟のパーカーにスキニーパンツ、そしてスニーカー。着ているものは至ってカジュアルであるが清潔感があり、対応に出てきた絹子に小さく会釈をすると優しげな声で問いかけた。

「あの、ここで二十歳はたちくらいの若い娘さんが働いていると思うのですが……」

 だがその問いかけに、絹子は内心思いきり顔をしかめる。

 彼の言うそれは間違いなく木綿子のことだろう。だが、木綿子の名も知らぬ男性が急に店先に押しかけてくるとはどういうことなのだろうか。

 正確に言えば、ないことではなかった。木綿子は親の贔屓目を抜きにしても可愛らしい娘だ。今までにも何度か、木綿子目当ての男が店に来たことがある。そのうちの一人は、往来で見かけただけの一目惚れで、木綿子の名前を知らなかった。

 進歩も絹子も、木綿子が一生独り身でいればいい、などとは思っていなかった。然るべき時が来て、木綿子が本当に愛し愛してくれる人が出来たなら、喜んで木綿子の肩を押そうと思っている。

 しかし、今までにやってきた木綿子目当ての男達は誰も皆、進歩と絹子どころか、木綿子のお眼鏡に適うことすらなく追い返されていた。

「えーっと、どんなご用でしょうか?」

 絹子は目の前の男性客の動向に最大限用心しながらも、接客用の微笑みは絶やさずに彼をよく観察していた。キャスケットの下の黒髪は艶やか。左目尻の泣きぼくろと整った顔立ちが、優しげな表情を作っている。

 そしてふと首を傾げた。この顔を、どこかで見たことがあるような気がしたのだ。

 だが、その思考は途中で途切れる。

「お母さん?」

 後ろから、木綿子の呼ぶ声がした。工場から商品を運び出して戻ってきたのだ。

「木綿子……」

 絹子は振り返り、ついその名を呼んでしまう。本来なら押しかけてきた男に娘の名前を素直に教えてやる道理はない。だが今は不意のことで、そこまで気が回らなかった。

 自分の失態を悔いる間もなく男性に向き直った絹子の目の前で、彼は軽く握った拳を唇にあてて考えるような仕草をすると小さく目を輝かせる。

「そうか、やはり君も『ゆうこ』なんだね……」

 絹子には意味の分からない、勝手に納得したようなニュアンスの呟き。その末尾に被さるように、背後の木綿子はその男性を見て心底驚いたような声で叫んだ。

「あ、あなたは……!」

「木綿子、この人のことを知っているの?」

 取り乱しながらも相手を認識した木綿子を見て、絹子は訊ねる。その問いかけに、木綿子はこくこくと幾度となく頷いた。

「う、うん。お母さんもお父さんもニュースで見て知ってる人……」

 そう言われて、絹子はその切れ長の垂れ目を目一杯見開いた。どこかで見たことがある顔だとは思っていたけれど、木綿子からニュースで見たというヒントを得て思い当たったのだ。そして、絶句した。

 その絹子にとどめをさすように、木綿子はぽつりと呟いた。

常緑大学エヴァーグリーン客員教授の常磐治親さん……」

 その緊張に掠れた声を受けて、その男性客――治親はさっと帽子を脱いで、小さく頭を下げて見せたのだった。

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豆腐屋のイヴ 小野セージ @o_sage

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