追いつかれる怪異

来冬 邦子

追いつかれる

 これは私の兄、深雪みゆきの身に起きた怪異である。実話なので真面目に聞いて欲しい。


 当時、兄は小学三年生で、週に二回、進学塾に通っていた。

 塾は家から歩いて三十分ほどの場所だったが、途中に大きくカーブした長い坂があった。坂の途中には石段もあって自転車で通うにはつらかったので徒歩で通った。坂道の片側は石垣でもう片側には木立が茂る。あまり日が射さず、昼なお暗いので「暗闇坂くらやみざか」と呼ばれていた。そんな道を小学校三年生が一人で往復するのである。


 或る日のこと。季節はちょうど今時分いまじぶん。桜がそろそろ咲こうかという早春の頃だ。塾で二時間ほど勉強して帰ろうとすると、すっかり日が暮れていた。いつもなら一緒に帰る友だちがその日は休んでいたので、深雪はこれから真っ暗な夜道を一人で帰らなければならなかった。


 勉強道具を入れた重いリュックを背負って暗闇坂に差し掛かると、下り勾配こうばいの石畳の先に人影が見えた。深雪がどんなにホッとしたか、想像にかたくない。暗いし遠目だから、はっきりしないが作業服を着た男の人のようだった。深雪はその人と並んで帰ろうと足を速めた。すると深雪の足音に気づいたかのように、その人がこちらを振り返った。そして妙なことに、その人も同じように足を速めた。これでは差が縮まらない。今さら一人ぼっちになるなんて耐えられなかった。深雪は更に足を速めたので、ほとんど競歩のようだった。すると、なんということだ。その人も競歩のスタイルで腰をクイクイさせながら遠ざかってゆくではないか。


 こうなったら走るしかない。深雪はかけっこが得意だった。なにしろ運動会の全校リレーで上級生を負かすほどの実力だったのだ。

 走り出した深雪は今度こそ追いつけると思った。ところが相手もまた脱兎だっとのごとく走り出したのだ。しかし幸運なことに深雪の足の方が早かった。ジリジリと相手の背中に迫りながら、絶対に抜いてやると深雪は心に誓った。


 そのとき、その人が走りながらチラリとこちらを向いて、おびえた顔で叫んだ。


「わあああああああーーー!」


 何が何やら分からなかったが、恐くなって深雪も叫んだ。


「わあああああああーーー!」


「わあああああああーーー!」


「わあああああああーーー!」


 二人は大声で叫びながら全速力で暗闇坂を駆け下りた。

 坂下の通りを歩いていた人たちが驚きの目で二人を見る。すると、その人がだしぬけに足を止めた。ぽっかりと明るい街灯の下だった。

  

「ねえ、君」


 はあ、はあと肩で息をしている。明るいところで見ると、その人は三十歳くらいの日に焼けた逞しい男の人だった。


「君、オバケじゃないよね」


「違います」


 深雪もふう、ふうと息を切らして答えた。


「なんで、俺を追いかけてきたの?」


「暗闇坂が恐くて、一緒に歩きたかったんです」


「なんだ、そうかあ」


 その人は気の抜けた顔で額の汗をぬぐった。


「ごめんな。勘違いしてすまなかったよ」


「勘違いって?」


「いや、あのな。俺はこう見えて無類の恐がりなんだ」


 その人は鼻の頭を赤くしてささやいた。


「子どもにしては足が速いし、オバケかと思ったんだ。ごめんな」


 深雪はおかしくなって吹き出した。するとその人も笑い出し、二人はなごやかに別れた。


「オバケに間違われた!」


 深雪は、その晩寝る頃になって怒っていた。

                       < 了 >

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