逆流する時計

秋色

第1話

 紀香は家でのんびりしている時間が大好きな中学二年生。小さな頃からそうだった。お父さんとお母さん。お兄さんとちっちゃな弟。それにいつも和室でお裁縫をしているおばあちゃん。いつもぽかぽかの縁側のような我が家だったから。


 ノンビリ屋の紀香の大の苦手は約束の時間を守る事と決められた時間内に何かをする事。

 学校の中ではみんなと同じように行動するから大丈夫。それでも小学生の頃は給食のペースが遅れてまだ紀香の給食は三分の一も残っているのに、みんなは完食……なんて事もあった。


 宿題はダラダラしたまま8時過ぎに始め、毎日、夜10時過ぎても終わらなくて、家族全員に囲まれ、小言を言われながら何とかやり終えていた。


 その時だけすごく反省しても、なかなか習慣は変えられない。


 そんな紀香の事を家族のみんなは呑気なノン子と呼んでからかう。

 いくら呑気でも成績があまりにお兄ちゃんとかけ離れているので、お母さんは心配になって、隣の家の大学生のお姉さんに、勉強をみてほしいと頼んだ事もある。

 隣の家の大学生のお姉さんは、友達のさらに秀才の男子大学生を連れてきて、大きな画用紙に計画表を立てて、紀香の生活に改革を起こしかけた。が、この改革も未完の伝説に終わる。初めは「おお」と思っていた紀香も、いざやってみると、秀才の二人が言うようにはうまくいかないのだ。


 成績表の先生のコメントにはいつも、「おうちでの規則正しい生活」について書かれていた。


        ***


 中学に入ると、この紀香の欠点は、笑い事ですまされないレベルに達してきた。

 今まで許してくれていた友達も紀香に呆れ、待ち合わせて一緒に登校する友達がいなくなった。


 一度、みんなで待ち合わせて校外学習に行く日に紀香が遅刻した事がある。そのため予定が狂って、その日の校外学習は台無しになった。翌日はみんな紀香の事を白い眼で見ていた。


 ――昔みたいにみんなと仲良くしたいのに、何が変わってしまったんだろう――

 いつもニコニコ笑顔を絶やさなかった紀香の表情が曇る事も多くなった。


 紀香が切ない表情で教室でポツンとしていると、小学校から一緒の男子が声をかけた。

「何落ち込んでんだよ。ノン子は笑ってなきゃ。いつもの元気なノン子の方がいいよ」


        ***


 ある日、お父さんとお母さんは子ども達三人を呼んで、大事な話をした。

「九月からお父さんは関西に単身赴任する事になったんだ。別れて暮らすけど、家族は家族。お互いを思いやって、きちんと暮らしていこう」


 お父さんは、紀香だけを残してこう言った。

「特にノンコはのんびり屋で、それが良い所なんだけど、これからは気を引き締めないとな。これはお父さんとお母さんからのプレゼントだ」

 そう言って渡された箱の包みを開けると、真っ赤な目覚まし時計が入っていた。

「これからは家にいる時、つねに時間を意識しなさい」


 お父さんの単身赴任がいよいよ始まった九月、紀香は教室でお父さんに言われた事をじっくり考えようとしていた。周りから見たら、いつも通りボンヤリして見えたけど。

 すると、ふっと教室の窓側にぽつんと座っている堅田玲華の姿が目に入った。その名前の通り堅くて、決してその表情が緩む事がない子。常にクラスでトップの成績を維持し、沈着冷静なクラスメート。

――そうだ! 堅田さんに秘訣をきいてみよう。おうち時間を計画的に過ごす秘訣を。賢い堅田さんなら知ってるかもしれない――


「ねえ、堅田さん、相談にのってくれない?」


「何?」


「あたし、時間の使い方がダメなの。堅田さんみたいに計画的に行動して、遅刻しないで学校に着いたり、宿題を早くするのにはどうしたらいいのかなって」


「遅刻しないって……。そんなレベルでいいの? 簡単よ」

玲華はルーズリーフ用のA4の罫線の入った紙を一枚、鞄から取り出し、横に線を引いた。


「例えば朝、天野さんが七時半に学校に着くようにするとします。天野さんの家から学校までは歩いてどの位かかるのかしら?」


「十二分位かなぁ」


 玲華は横に引いた線の右側に7時30分と書き、そこから左に5センチほどいった所を短い縦線で区切り、7時12分と書いた。それからさらに左に数本の短い縦線の区切りを入れた。


「では朝、起きてから家を出発するまでにやる事は?」


「顔を洗って、朝ご飯を食べて〜、歯を磨くでしょ、制服を着るでしょ?そして……」


 玲華はサラサラと紀香の言った事を書き留めていった。そしてそれぞれにかかる時間を大まかに書くと逆算していった。

「では逆算して毎朝、6時20分に起きて、この通り実行してみて。そうしたら遅刻はしないはずよ」


 その紙には、朝食20分、歯磨き3分等と細かく予定が書き込まれてあった。

「すげ!」と言いかけて「あ、ごめん」と謝った。逆算なんてカッコいい言葉に心の中で感動していた。


 翌日、玲華のメモを元に行動してみた。もちろん紀香を起こすのは真っ赤な目覚まし時計。これまでは目覚まし時計にお母さんの援護もついていたけど、これからは目覚まし時計だけを頼りに頑張ってみようと誓った。その日、学校へは余裕で着いた。


「堅田さん、やったよ、私! スケジュール通りに」

 

 周りから見たら、何かの競技で新記録を出した中学生のようなはしゃぎ振りだった。


 次の日も、そのまた次の日も紀香は余裕で学校に着き、みんなを驚かせ、担任の先生には褒められた。


 紀香は堅田さんにいろいろなスケジュール作りの相談をした。宿題や試験勉強はもちろん、お菓子作りや余暇の過ごし方みたいなプライベートのスケジュールまで。


 紀香は、常にその時やっている事をどのくらいの時間でやらなければならないか意識するようになった。初めは張り切っていたのに、次第に時間を気にするあまり、焦りばかりで、何も楽しめなくなった。

 そして次第にスケジュールがないと、紀香は落ち着かなくなってきた。というより、スケジュールがないと、どうしていいか分からなくて、途方に暮れた。

家ではいつも赤い目覚まし時計に見張られている気がした。


 玲華はそんな紀香に言った。

「スケジュールなんて、本当は分刻みで立てるものじゃないのよ。人気アイドルじゃないんだから。余裕がないとね。ちょっとスケジュール表の作り方を変えてみるわ」

 でもそんな玲華の提案に、紀香は涙を眼に浮かべ頼んだ。

「今まで通り何分から何分というようにスケジュールを作って。でないと、どうしていいか、分かんないの」


        ***


 お父さんは、春休みの間に何日か休暇を取れる事になった。休暇の前の夜にフェリー乗り場まで電車を乗り継いでいると、乗り継ぎのために通ったアーケード街の中に玩具や人形が並ぶ一角があった。仕事帰りの客を呼び寄せようとしてか、閉店時刻は21時まで。でも夜のショーウィンドウの中で人形達が並んでいるのは、少し不気味な風景だ。人形達はどことなく虚ろな眼をして見える。

 お父さんは、最近ノンコが頑張っている事をお母さんから聞いて知っているから、特にノンコにはステキなおみやげを買って帰りたかった。でも、もう、子どもでもないし、人形なんて喜ぶだろうかとも思う。ふと見ると、UFOキャッチャーがあって、カップルが狙っているぬいぐるみがとてもかわいい。アザラシ、いや、イルカをイメージした生き物だろうか。全体的にポヨポヨとして、緊張感のない顔がノンコそっくりだ。まるで春の陽ざしを思い起こさせる。

 若い男性店員がやってきて、「どうです? 可愛いでしょう? UFOキャッチャーだけでなく、こちらに売り物もありますよ」

 そう言って案内した売り場にはさっきのポヨポヨのぬいぐるみがたくさん並べてあった。

「あー、特にこれ、可愛いな。ウチの子みたいなんだよ」


「これ、ぽよピョンっていうんです。可愛いでしょ? お買い得ですよ。ほら、こちらは時計になっているんです」店員は札を見せた。


 確かに札には「ぽよピョンクロック」と書いてある。

「でもどこに時計があるんですか?」

お父さんが訊くと店員は言った。


「お腹を押すと、時間を言うんですよ、ほら」


 店員がぬいぐるみのお腹と思われる部分を押すと、あどけない機械の音声が話した。

「20時25分です」


「ふーん。でも押すまで時刻が分からないなんて、不便じゃないかな。アラームもなさそうだし」とお父さんは苦笑いした。それに対し、店員は、何言ってるんだろうみたいな表情だった。


「時計に求め過ぎてはいけません。時間は警告するためのものではないんです。時間は流れていくものなんですから」

 そして言った。

「時計なんて、知りたい時にこうして時間を教えてもらうだけで十分ですよ」


「……そんなもんか?」


「そうですよ」


 売れ残りを押し付けられている気もしたけど可愛いから買おうと決めた。


       ***


 家に帰ったお父さんが真先に向かったのは子ども部屋だった。でもそこで学習机に向かっているのは、ぽよピョンに似た女の子の姿ではなかった。昨夜のアーケード街に並んでいた人形と同じ虚ろな眼をした痩せっぽっちのお人形。

 うわ言のように「時間がないの。あと5分でこれしなきゃ」と呟いている青白い女の子。


「ノンコ……」

おみやげのぽよピョンのぬいぐるみを抱えたまま、お父さんは絶句した。


 ぬいぐるみも困ったような表情に見える。

「これ、時計なんだよ。好きな時に時間を教えてくれる」


「え? でも時計なのに、針もないし、数字も書いてない。私には本当の時計がなきゃいけないの、時計がなきゃ……」


 そう言いながらも紀香はぽよピョンを受け取った。そしてお腹に手が当たった。

「9時4分です」


 抱き締めるとほんのり温かかった。「でもこれいつでもすぐ時刻が見れないし、タイマーとかアラー厶とかないから。時刻から逆算できなきゃいけないの」


 お父さんは昨夜のあの店員の口調をいつの間にか真似ていた。

「時計にそんなの求めてもだめだよ。時間は逆算して逆戻りするものじゃないんだから。流れていくものなんだから」










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