へっぽこギター

尾木洛

第1話 へっぽこギター

 一時帰休の追加実施か。


 私は、会社のデスクにて、メール配信されてきた社内連絡に向かって、思わずつぶやく。

 そして、はぁと大きく息をつき、モニターに向かって頬杖をついた。


『 件名:新型コロナウイルへの対応 一時帰休追加実施について


 新型コロナウイルスの流行を受け、4月16日から全国を対象に発令されていた緊急事態宣言は、5月25日に全て解除されましたが、それ以降も経済動向は流動的で、業績の確保には、予断を許さない状況です。

 当社におきましても4年連続の最高益の達成に向け、もう一段の取り組みが必要と判断し、追加で一時帰休を実施することと致しました。

みなさまのご理解とご協力をお願いいたします。


*一時帰休とは

 企業が、 国内経済の縮小による業績悪化などの理由で 操業短縮 を行うにあたり、労働者を在籍のまま一時的に休業させることをといいます。

 労働基準法26条の「使用者の責に帰すべき事由による休業」にあたるため、休業期間中、平均賃金の60%の手当 ( 休業手当 )を保障します。


●対象期間

 本日より、6月30日


●休業日数

 各人1日/週を原則とし、期間通算で6日を休業日とする         』


 私の勤める製造業の会社にも、新型コロナウイルスの影響が出始めていて、なんとか営業利益は確保できているものの、売上高は、前年の70%程度にまで落ち込んでいる。

 この業績の悪化と緊急事態宣言を受けて、私の勤務する会社では、ゴールデンウィークの前後で、6日間の一時帰休が実施された。

 

 仕事を休めるということに純粋な喜びはあったものの、平均賃金の60%の手当は保証されているとはいえ、給料が減ることにはかわりなく、そもそも、新型コロナウイルスによる自粛で、おちおち外出することもできない。


 お金もない、出かけることもままならないとなれば、家に引きこもって、おうち時間を充実させ、満喫するしかない。


 しかし、今の会社に入社して30年間、毎日夜遅くまで身を粉にして働いてきたおかげで、家にいてもすることがないのが実情だ。

 仕事が終わって、夜遅く家に帰る頃には、妻も息子もとっくに眠ってしまっているということが常で、私も、家に帰っては、遅い晩飯を取って、睡眠をとり、朝食を食べて、また出社する、といことをただ毎日繰り返えしてきた。

 社畜と笑われても仕方ない状況だが、それでも、自分の仕事に誇りはあったし、やりがいも感じていた。

 何より、自分の頑張りに家族の生活がかかっているという責任感も大きかった。


 妻と息子一人、これが今の私の家族の構成だ。

 父は、私が25歳のときに、母も10年前に亡くなった。

 いまでは、私の生まれ育った家で、私、妻、息子の三人で生活している。


 息子は、幼いころには、やたらと私に纏わりついてきて、煩わしく思えるくらいであったが、年齢が上がるにつれ、しだいに疎遠となり、昨年、大学に入学してからは、ほとんど会話らしい会話を交わしていない。


 しかし、自分もその年頃に父親と話を交わした記憶はあまりないから、まあそんなものなのだろうと特に気にも留めていない。



 普段私は、自宅の2階の南向きの部屋を自室として使用している。息子は、その隣の部屋。

 ゴールデンウィーク前後の帰休は、その自室にこもって、購入後、読むこともなく山積みしていた本をかたっぱしから読むことに費やした。


 その期間、息子は、新型コロナウイルス対応で、大学の講義がリモートになったとかで、いつにもまして部屋にこもりきっていた。

 隣の息子の部屋からは、人のいる気配がまるで感じられず、今、本当に勉強しているのか、それとも、さぼって眠ってしまっているのかすら、よくわからなかった。



 さて、今回の一時帰休はどうしたものか。

 山積みしていた本は、全て読んでしまったし。


 一時帰休の追加に伴って、残業も禁止となった。おかげで、仕事帰りに、ちょっと寄り道をして、買い物をすることもできる。

 なにか新しい本でも買っていくかと、大型の書店に足を延ばすことにした。


 最近では、書籍はネットで購入している。そのせいで、書店に来るのはひさしぶりだった。おかげで、なんだか店内が、とても新鮮に感じて、普段なら、目を通さないジャンルの本棚をも見て回る。


 ほぉ、こんな本まで扱っているのか。

 音符が並んだギターの楽譜。

 まぁ、自分が知らなかっただけで、以前からあったのかもしれないが。



◆◇◆


 家に帰り、自室に籠ると、抱えてきた包みの包装をはぎ取る。


 ギターを買ってきてしまった。


 書店で、楽譜を目にし、久しぶりに弾いてみるか、と思い立ってしまったのだ。


 早速、ギターの弦をはりかえ始める。


 学生のとき以来だな。



 高校のころ、ギターを掻き鳴らす連中がとてもまぶしく見えて、自分も弾けるようになりたいとギターに強いあこがれを抱いた。

 ただ、残念なことに我が家では、特に父親が音楽やギターに対して理解がなかったため、ギターが欲しい、ギターが弾けるようになりたいと言い出せる雰囲気ではなく、ただひたすらにその想いを自分の胸にしまい込んでおくしかなかった。


 そこで、私は、一念発起勉学に打ち込んだ。

 その結果、地方の国立大学に合格し、私は、家を出て下宿をすることになる。


 これはチャンスとばかりに、私は、なにかの音楽サークルに入ってギターを弾けるようになってやろうと考えた。

 そのころの私は、フォークギターとクラシックギターの違いも知らなかった。

 だから、初心者でも大丈夫、一から教えてあげるからの言葉につられて、ギター合奏のサークルに入部した。

 サークルに入り、しばらくして、その音楽性の違いに気付き、自分の憧れていた世界とは方向が少し異なっているかなとは感じたものの、それでも、少しずつではあるが、ギターが弾けるようになっていくことは楽しかったし、クラシックギターを通して、クラッシック音楽に触れ、音楽の基礎を学ぶことは、私にとって興味深く、とても刺激的なことだったので、卒業するまでの4年間、そのザークルに在籍し続けた。

 また、そのサークルを通して、生涯の友も得られたし、妻と出会うこともできた。


 そんなギターとの関係も、就職を機に、完全に切れてしまっていた。

 大学を卒業し、こちらに戻ってきてからは、まったく音楽に関わることはなくなってしまっていた。



 それなのに、今日、書店でギター楽譜を見たとき、ふいに学生時代の思いがよみがえってきてしまった。


 私は、書店を飛び出すと近くにあった楽器店に飛び込むと、衝動的にギターを購入してしまっていた。

 あのころ、憧れていたフォークギターを。



 ギターの弦の張替えを終え、調弦をすますと、私は購入してきた楽譜をカバンから引きずり出す。


 『大人の楽しいギター弾き語り曲集 パート1』


 そして、曲集の始めの方から無造作にページをめくつつ、知った曲を見つけると早速爪弾いてみる。

 おお、意外と覚えているものだ。指も意外と動いてくれる。

 あのころ、夜も寝ないで練習した成果かな。


 次第にギターを弾く手に熱が帯びてくる。

 奏でるギターの音量も、次第に大きくなってくる。



”がたっ”


 珍しく隣の息子の部屋から、物音がした。

 その物音で、私は、我に帰る。


 いかん、いかん。

 いつの間にか、弾く音が大きくなってしまっていた。


 弾く音を落として、また、私はギターを弾き始める。


 その後、5曲演奏して、弾くのをやめた。

 その夜、私の左の指先はジンジンと痛んだ。おかげで、なかなか眠りにつくことができなかった。



◆◇◆


 翌日、仕事から帰宅し、夕食を取りつつ、妻と談笑した後、2階へ上がり、自室に入ろうとしたところ、あわててトイレにでも行ったのか、息子の部屋のドアが開いたままになっていた。何気に見えた息子の部屋の中には1本の新品のギターが置かれている。どうやら、今日買ってきたもののようだ。


 私は、自室に入ると、いつもの椅子に腰を下ろした。


 そういえば、若いころ音楽をやっていたなんて息子に話したことはなかったなぁ。


 しばらくすると、隣の部屋から、へっぽこなギターの音が聞こえてきた。

 調弦すらもちゃんとできていない。


 まあ、あの父親が、ひょいと買ってきたギターをいきなり弾き始めたものだから、ギターなんて、簡単に弾けるものと息子に勘違いさせちゃったかのしれない。


 ギターは、そんなに甘いものではないのだよ。


 それでも、息子の奏でるへっぽこなギターの音色は、アルバイトをしてやっと買った自分のギターで、初めて音を出した時の感動を思い出させる。


 まあ、あがきたまえ、若人よ

 心の中で、息子に語り掛ける。


 私は、カバンから、今日、入してきた『大人の楽しいギター弾き語り曲集 パート2』を取り出した。




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