第25話 鬼子の語り

 ──鬼子もかつては人の子

 ──あの日の傷を癒しておやり

 ──おまえが生んだ傷だよ 無慚


 大木はただやさしい。

 宵闇のなか、太い幹が月光に照らされる。慈しむように幹に触れた無慚は「ウン」とちいさくうなずいた。

 無慚さま、と。

 こいとがあわてて本堂から出てきた。三郎治が目を覚ましたという。無慚は肚底に力を込めて本堂へ進む。三郎治は──埃の積もった本堂床にぺたりと座り込み、呆けた顔で周囲を見渡している。

 こちらの顔を見るやパッと笑む彼の前に跪き、両手でその顔を挟む。

「三郎治」

「む、無慚の兄貴。俺──」

「おれに裁けと言ったそうだな、三郎治」

「えっ。……」

「人が人を裁くことの、なんと虚しいことよ。──なあ三郎治、おれを」

 くれるか、と。

 いう言葉を聞いた瞬間、

「え。…………ア」

 三郎治の瞳がとたんに曇り、項垂れる。まもなく面をあげた彼の顔は、ついいましがたの凛々しい三郎治とうってかわり、あどけなさの残る無垢なものであった。

「アニキィ」

「よう、また会えたな三郎治。いろいろと──わるかったなァ」

「アニキはわるないんや。せやって、せやってな、……あ。アニキ、どないしたん」

 おなか痛いんか、と。

 ふいに三郎治は泣きそうな顔で無慚の腹に手をのばした。なぜなら無慚が、ぽろりと一筋涙をこぼしたから。

 必死に兄貴分の腹をさする三郎治。

 その手をやさしく掴んで、無慚はちいさく首を振った。

「これはもう、痛かねえよ」

「けどアニキ──血が。血がいっぱい出よったぞう」

「なんだおまえ、そんなところまで見ていたか。そりゃすまねえな三郎治。……すまねえな」

「アニキ──?」

 やがて、無慚は三郎治を胸のなかへやさしく抱く。


「おまえはお前だ、三郎治。過去に置いていかれちゃいけねえよ。傷も痛みも、ぜんぶぜんぶ」


 ふと。

 三郎治の目がとろりと曇る。

 やがて溢れる涙とは対照的に、彼はおだやかな顔で無慚の胸に頭をあずけ、おだやかな顔で瞳を閉じた。


 ────。

 あったかい。

 あったかい。

 このぬくもりはだれのもの?

 おとうやおかあともちがう。

 とてもぬくくて、ねむってしまいそう──。


 ──三郎治。

 声がする。すぐ耳元から。だれ?

 オレもうねむたいのに。


 ──ごめんな、三郎治。

 だれ?

 ──おれはおまえや。三郎治や。

 さぶろうじ。……

 ──守ろうとおもった。おまえの心を、守ろうと。でも、それは違うたな。

 守る?

 ──俺がやるべきは、おまえを受け入れることやった。こうしておのれの中に捨て置くんやのうて、いっしょに、痛みを持って生きていくべきやった。

 わからへんよ。

 ──分からんでええ。あとは俺が、全部持っていく。おまえの痛みもなんもかも、全部俺が貰うていくから。

 あんちゃん、やさしいなぁ。

 ──せや。三郎治は本来優しい男やねんで。


 ア。

 ねむい。

 あんちゃんの腕んなかあったかくて、日溜まりのなかにいてるみたいや。嗚呼──。


 ──三郎治。

 うん。

 ──達者でな。

 あんちゃんたちもな。

 ──おおきにやで。

 うん。

 ──ほなおやすみ。

 うん。

 さいなら。

 

 ────。

 ──。

 ごめんなさい、と。

 我に返った三郎治は、たちまち額を床に擦り付けた。娘をころしたのはこの三郎治ではない。ここにいる一同は分かっている。けれども結局はどれも三郎治なのである。

 命を還した咎は、まちがいなくこの三郎治が背負わねばならぬ。こいとはやるせなさに涙をこぼした。

 分からんな、と岡部が首をかしげる。

「三郎治──貴様は気付かなかったのか。自身の犯行に」

「俺は、その。アイツが目ェ覚ますと入れ替わりに眠ってもうて、そのときなにをしとったかがよう分からんのです。徳兵衛はぜんぶ見とるみたいやけど──彼とはあんまり話さへんさかい」

「頭ン中に人がたくさんいてるっちゅうことか?」

「……ええ。実のところ、一時はもっとたくさん居てたんです。でも徳兵衛が現れてから──いつの間にかほとんどおらんようなった」

「そんな。全然分からへんやった」

 と、こいとが胸の前で手を握る。

 しかし泰吉は納得したように何度かうなずいた。

「せやろなァ。さっきのガキ三郎治を見てなんとなく合点がいったわ。あれは昔、ワシがよう知っとる三郎治やった。最近はええ評判しか聞かへんかったもんで、そないなことなっとるとは思わへんかったけど」

「あ。それは、ハイ。昔とだいぶ変わったいうんはそうやろうと思います。ホンマは俺かて、ホンマの三郎治とちゃうんです。……」

「どういうことや」

 と尋ねる岡部に、三郎治は長くなることを前置きし、自身の内で起こった奇妙な出来事を語り始めた。


  ────。

 みんな、この俺を三郎治だと言うけれどそうやない。十年前までの俺はさきに見てのとおり、ちと箍の外れた──平気で犬や猫をころすような子どもやったんです。森のなか、生まれたばかりの仔猫の首をへし折ったこともある。

 残忍でしょう。でも、それが本来の俺なんです。

 ええ。その記憶はあります。

 あの頃はまだ、俺とアイツはひとつやったんで。アイツは俺でもあったさかいに。

 ──さァ。

 なんでそないなことしたんかは、分からへん。そのときの感覚は俺には残ってへんのです。ほんでもその欲は、毎日ってわけとちゃうかったけど、たまに発作のようにおとずれたような、気がしてます。

 飽きずに何度も何度も何度も何度も──。

 十年前のあの日も、そのために森に居った。ころすための動物を探しとったんです。ほしたら、「ころして」って声が聞こえた。

 そう。無慚の兄貴に乞うおんなの声。

 兄貴がおんなの首をかっ切るすがた。

 ──もう、目ェが離せへんやった。

 それからしばらくして、兄貴がおのれの腹をかっさばいたところを見たとき、初めてえらいことになっとると気が付きました。おんなはどうでもよかったけど、兄貴が死んだらイヤやと思た。


 ──あの、俺の話ですけど、俺とちゃいますから。そないな目ェで見んでください。


 エ? はあ、そうですね。

 始まりは、無慚の兄貴がひどく折檻されとるんを見てからです。ガキの三郎治があんまり見てられへんいうて、光の外に出てもた。ほんで代わりに光のなかへ入れ言われたんが、俺やったんです。

 はあ。

 光ちゅうのは、俺の頭のなかのことです。簡単にいうと──光のなかにいてる奴がこのからだの意識を乗っ取って動いとるちゅうか。ほかの奴らは、光の外に居てます。なんやろ、闇のなかからこっち見とったり、ガキの三郎治みたくずっと寝てもうてたり。

 徳兵衛はいつでも起きとる。

 せやから俺の意識のときも、ガキの意識のときも、ぜんぶ知っとるんです。

 ええ。

 ほんで、そのとき初めて俺とガキが二人に分かれてもうた。それからはいろんなヤツが出たり入ったりして──ほんでも、大体はうまく世間をわたれるようなヤツばっかりやった。

 徳兵衛もそのひとりです。

 奴はかなり早い時機に現れたんですが、このからだが大きくなるまでは、ホンマにじっと押し黙っとる奴やったんですよ。

 ええ。それも、大きなってその意味が分かりましたが──。

 無慚の兄貴が村を出て行かはってからでした。

 ガキはすっかり拗ねてもうて、闇のなかに引きこもるようになって。いつしか俺が三郎治として生きるようになりました。

 そのあいだも、何人ものヤツに身体を任せたこともありました。それでもうまく回っとった。徳兵衛が『こんなことがあった』なんてたまに教えてくれるし、知らぬうちに周りからの評価も伸びていることもあって。

 腕っぷしが強い──なんてのも、俺やない。

 すこし前までいた『伊作』いうヤツ。寡黙で強かったんです。以前こいとちゃんが俺に助けられた、いうたんもたぶん、俺やのうて『伊作』やったんやろな。

 うん。俺は憶えてへんねん。

 ごめん──。


 ──ええ。

 今回の事すべてのきっかけは、ふた月前の『曾根崎心中』を観たときからでした。 

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