第19話 狐憑き

『狐憑き』──。

 このことばで、草木鳥獣はけたたましく喚きだす。あまりの騒がしさに無慚が話を中断させて「うるせえ」と一喝するほどであった。しかし、鳥獣はピタリと鳴きやむものの、草木は黙らぬ。

 彼らは必死に無慚へ伝えようとしている。

(なんだ)

 と、無慚が一本の大樹を睨みつけた。

 この樹がいちばん話が通じるとおもった。樹は、ほかの草木が黙りきってから、重々しい口調で無慚へ語りかけた。


“狐憑き 恐ろしや 恐ろしや”

(なにが恐ろしい)

“おのれも気付かず 人をころすよ あな恐ろしや”

(人を──?)

"乞われて目覚める 奴を起こすな“

「たれのことだ」


 おもわず無慚がさけぶ。

 夜闇がピリリと張りつめた。大樹が枝葉をふるわせ、わらう。


"誑かすは徳兵衛 ころすは別“


 と。

 言ったきり大樹は沈黙した。

 それで終わりかよ、と無慚は地団駄を踏んだ。が、名を聞いた。大樹は言った。──徳兵衛、と。

「おい惣兵衛」

「な、なんや」

「この町に徳兵衛なんて男いるか」

「徳兵衛──いや。いまはもういてへんけどやな、いやしかし、徳兵衛ちゅうたら、その」

 惣兵衛はおもわず閉口する。

 友人が言いたいことは、無慚にも分かっている。この町で徳兵衛という名が意味するものなど、ひとつしかない。

「これもまた、曾根崎心中かェ。……」

 無慚は憎々しげにつぶやいた。

 『曾根崎心中』──かつて曾根崎の森にて情死したという、大坂堂島新地天満屋の女郎と、内本町醤油商平野屋の手代。この手代の名は"徳兵衛“。

 狐憑き。

 徳兵衛。

 人に乞われて──。

 惣兵衛ッ、と無慚は錫杖の石突きを地に叩きつけた。

「同心岡部に伝えろ。女を誑かす徳兵衛なる男、町中を至急取り締まれと」

「なんやて」

「泰吉。テメーはおれとともに畜生どもの墓を作れ。そのためにここへ呼んだ」

「なんや、気が滅入る仕事やなぁ」

「ちょォ待ち。その徳兵衛いうんがころしの犯人か?」

「いや、ころしは別だ。同じかもしれんが──少なくとも徳兵衛ではないらしい」

「は?」

 惣兵衛はキョトンとした。

 が、

「無慚様、私は──」

 蕎麦屋の若主人もとい忍装束の男が目を細める。すっかり無慚の駒として動く気らしい。無慚は一瞬沈黙し、やがて険しい顔で男を睨んだ。

 四人目を張る、と。

 無慚はふたたび錫杖を地面に突く。

「四人目?」惣兵衛が目を丸くした。「つぎの被害者っちゅうことか」

「ああ」

「どこのどいつや。そらァ」

「コイツだよ」

 と。

 無慚が懐に手を突っ込む。ずるりと中身を取り出す。ふなの店から忍ばせていたか──その中身とは黒猫であった。

 首根っこを掴まれたコテツは琥珀色の瞳を皿にして、ふてぶてしい顔で周囲をにらみつける。にゃあ、と抗議するように鳴いて、四つ足をパタパタと動かしている。

「──猫」

「おう無慚。この猫、玉がついとるようやけど、これが四人目の娘はんやとでも言わはるんかェ」

 泰吉が吹き出すのをこらえる顔をした。

「おろか者」

 しかし無慚はピシャリと一蹴。

 猫を地面に置き、


「この猫の飼い主よ」


 錫杖の先でその尻をつついた。


 ※

 岡部は早足で歩く。

 うしろからついてくるふたりの若人は、その早足につられて自然と早歩きに変わる。三郎治はたっぱがあるゆえそれほどでもないが、小柄なこいとはもはや小走りに近い。

 いじわるをしているのではない。

 特段、彼らと話すことがないだけのこと。武士たるもの無駄な口は開かぬのが信条──とは建前で、苦手な女とは早く離れてひとりになりたいというのが実情である。

 早く犯人を捕まえねば。

 逸る気持ちが、岡部の足を加速させる。


「今日は──夢のような一日でした」


 ふと三郎治がつぶやいた。

 夢見心地な声色で、うっとりと虚空を眺める。いったいどの辺りが夢のようだったのか、具体的に聞きたいものだが、岡部は「む」とちいさく返すのみでふたたび黙った。代わりにこいとが「夢のような?」と問う。

 三郎治はつづける。

「無慚の兄貴とこれほどお話できるやなんて、昔の俺やったら考えられへんやった。もちろん岡部さんも、惣兵衛さんもそうや。ホンマに今日はありがとうございました」

 と、とうとう立ち止まって頭を下げる三郎治。これでは岡部が足を止めないわけにもゆかぬ。振り返って鼻頭をポリポリと掻いた。

「俺が礼を言われる筋合いはない。むしろ無慚の為と、聞き込みをしてくれたのは三郎治とこいとどのや。こちらから礼を言わんといかん」

「えっ。いえそんな」

「ええんですよホンマに。俺も役得でしたわ」

 三郎治はクスクスわらう。

 それを見た岡部はいよいよ疑問におもった。

「三郎治」

 と眉根を寄せて彼を見る。

「貴様は無慚のことを尊敬しておるようだが」

「ええ──」

「そのわけはあるのか。旧友として言うのもなんだが、ヤツは昔からたいそうな無頼漢で、子どもには興味ひとつもなかった男や。おぬしに何かしてやったこともなかろうに」

「それは、ええ。そもそもあの頃──兄貴は俺のことすら知らんかったんちゃうかな。まだ若者衆にもいれてもらえへん歳やったし」

「へえ。そうなんや!」

 そうである。

 三郎治はガキだった。無慚や岡部、惣兵衛に泰吉といった若者真っ只中の兄貴分たちを、影からこっそり憧憬するような、慎ましい子どもであった。

 いつからだったのだろうか。

 この三郎治が、無慚のそばに寄り来て慕うようになったのは。

「無慚の兄貴は──とかく俺のあこがれでした。もう立っとるだけでも眩しくって。どこがと聞かれたらもうすべてとしか言えへんくらいに、大好きで……」

「趣味のわるいヤツだ。それはいつから?」

「よう覚えとらんですが、兄貴が真名をお捨てになる前からなんは確かや。でもやっぱり、俺がいちばん好きになったんはあの──」

「いや待て」

 もういい、と。

 岡部の胸にざわりと不快感がめぐる。

 自分でも分からぬが、心がそれ以上のことばを拒んだ。こいとはこてりと首をかしげ、三郎治はそうですかとすこし残念そうにつぶやいた。

 まもなく本間米屋である。

 米屋の娘さえ帰してしまえば、三郎治は男だしひとりで帰るも特段問題なかろう、と足を止めた岡部。西町奉行所は野田村と反対方向になる。三郎治もそれを承知したようで、改まって岡部に向き直った。

 吸い込まれそうな瞳にたじろぐ。いろいろと気をわるくすることを聞いただろうか、と岡部はあわてて礼を言った。

「三郎治、こいとどのも。ホンマに今日はいろいろと助かった」

「あ、いえそんな」

「こうして協力者が増えるんはええことやな。娘が、もう三人もころされた──。みなおのれから『くれ』と言うわけもない、先ある若者や。その命が訳も分からぬまま奪われとるのだ。はように片を付けんと、娘たちも浮かばれまい」

「ころ、して──」

 三郎治がつぶやく。

 柔和な眉と、すこし垂れた横長の瞳、すっきりと通った鼻筋──三郎治はその整った顔をゆっくりとあげ上唇をぺろりと舐めた。

「そうですね」

 三郎治は笑んでいる。

 こいとは深々と辞儀をした。

「岡部様、お送りくだすってどうもおおきに」

「うむ。戸締まり用心せえよ。まあ、ここの親父どのがいてるんやったら心配ないとはおもうが」

「よくも悪くもですね──ホンマに、あんなお人やとおもわへんかった。うちこれからはもうちょっと、世間をよう見ることにします」

「フフ、それがええな」

 短い挨拶のなか、最後まで本間の主人は出てこなかった。岡部にしてみれば好都合だ。

 気をつけて帰れよ、と三郎治にも言い伝え、岡部はふたりの深い辞儀を背にそそくさと米屋から離れた。

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