第5話 爪繰る数珠の

 にゃあ、と。

 耳元で聞こえた愛らしい鳴き声によって、無慚は夢の中から引き戻された。

 右耳から頬にかけて妙にくすぐったい。薄目を開けてちらと右を見ると、黒猫がこちらの寝顔を覗き込んでいる。同時に左耳でとらえるは「むざん」という呼びかけであった。どうやらこの黒猫、昨夜無慚をこの天満宮までいざなった猫らしい。

“おきてー”

 ざらりとした舌で無慚の顔を舐めてくる。

 無慚は口角をゆるめて猫の顔に手を添えた。

「なんだ、おまえ。きのうおれをこんなところまで連れてきやがって」

”ありがとー”

 なつっこくすり寄せる猫の頭を撫でて、無慚はゆっくりと身を起こす。朝の寒風が寝起きの身を刺す。ぶるりと身をふるわせて猫を懐につっこむと、意外にも黒猫はおとなしく丸まった。やはり冬の暖取りは獣にかぎる。

 本殿の角に視線を移す。

 昨夜の花が風に揺られている。太陽の下で見るその花は、月夜で見るよりもずっと華やかだった。

「よう、てめえの言ってた半繰り念珠ってのはどういうこった」

 花に問いかける。

 が、なぜかゆらゆらとその茎を揺らすばかりで答えようとはしない。どうやらまだ太陽が昇ったばかりでおしゃべりする気分ではないようだ。仕方ねえな、と無慚は鼻を鳴らし、昨夜の会話を思い出す。

(社のまわりをしらべてみろと言ったな)

 網代笠と錫杖を手に、本殿を降りてゆっくりと社のまわりを歩いてみた。ぶるりと寝起きの身体が冷えたので、ついでに高床の柱にむかって尿まる。つくづく不敬な男である。

 ここ大坂天満宮の創建は、いまよりおよそ八百年以上もむかし、村上天皇の御代にまでさかのぼる。その前身となる大将軍社にいたってはさらに四百年ほどもさかのぼるというのだから、有難い話だ。

 八百年もの時代を感じる古びた造りと、派手さのない静かな荘厳さは、仏の弟子へと転身した無慚も背筋が伸びる。そんなありがたい社のまわりにいったいなにがあるというものか。

 おい、と懐の黒猫に声をかけた。

「おまえ分かるか。この社のまわりに半繰り念珠があるという」

「にゃあ」

”ないよ”

 と、猫は言った。

「なんだと?」

”土のした”

 黒猫はそういって、懐の中から顔を出す。

 ゆっくりすすむ無慚の歩が止まる。

 社を支える幾本もの柱のうちのひとつ、根元の土色がちがうところがあった。よく見ればずいぶん広範囲に及んでおり、何者かがここを一度掘り返したことは明白であった。

 地面に膝をつく。ゆっくりと左の手のひらを土に押し当てる。

 土はしゃべらない。代わりに、こちらの手のひらを通して空気を送ってくることがある。いまもまた、ざわざわと雑踏のなかに身を落としたような雑音と不穏な気配を無慚へ伝えくる。あんまり不愉快なので、無慚はおもわずパッと手を離した。

「…………」

 掘る。

 と思い立って、錫杖の柄で地面をゴリゴリと掘ってみると、やはり一度掘り返されていたためかずいぶんと土がやわらかく、程なく土のなかに埋められたものに到達することができた。

 同時にただよってきた、死臭。

「ひでえにおいだ」

 という無慚のつぶやきに、黒猫がにゃあとつぶれた声で呻いた。

 錫杖を地面に置いて無慚は手ずから土を掘ってゆく。やがてあらわれたのは、肉や毛皮が残る獣の白骨。頭骨のかたちや大きさからみてまだ若い猫であろうと予測した。

 猫の死骸をだれかが埋めてやったのかともおもったが、どうもおかしい。猫の頭骨にはまだ肉も毛皮もしっかりと残っているというのに、なぜか目玉がふたつともくり抜かれている。

 目玉だけが先に土へ還った、と推測するにしてはほかの部位が残りすぎているし、なにより無理やり抉り出したと思わせるほど、猫の顔面は血にまみれていた。

 無慚は土で汚れた手もそのままに合掌する。

 それにしても死を忌み嫌う神社境内に獣の死骸を埋めるとは、罰当たりな輩がいたものだ。とはいえいまから掘り起こして別の場所へと移してやるには、すこし朽ちすぎている。

 逡巡したあげく、たったいま掘り起こした土をふたたびかぶせ、無慚は袂から数珠を取り出して再度合掌する。

「おまえの友だちか」

「にゃあ」

”もっともっと”

 猫は言った。

”目ん玉とられた”

「…………」

 懐から猫が飛び出す。

 こちらを見上げる黄色い瞳がまっすぐ無慚を見つめて、あちこちの柱のそばを前足でひっかく動作をした。よくよくその場所を見れば、すべて土の色が異なっている。猫は何十という場所でおなじ動作をおこない、やがてうなだれた。

 無慚はまさかと首を振り、

「そこここすべてに埋まっているのか」

 とつぶやく。

「目ん玉、とられて──」

「にゃァ」

”つまくるじゅずのひゃくはちに なみだのたまの かずそひて”

 黒猫は言った。


 ──また、曽根崎心中か。


 無慚は本殿の角に咲く花のもとへ走り戻る。食いつかんばかりに顔を寄せ、教えろとさけんだ。

「てめえの言う半繰り念珠とは、つまりどういうこった。なにゆえ貴様らみなして曽根崎心中をうたう。なにが言いてえッ」

”半繰り念珠まで あとよっつ”

 花はうたうように言った。

”主玉はふたつずつ 意味 わかるでしょ”


(半繰り念珠まで、あとよっつ。──)


 爪繰る数珠の百八に 涙の玉の 数添ひて

 尽きせぬ あはれ尽きる道


「じょうだんじゃねえぜ」

 無慚はつぶやいて立ち上がる。

 うろうろとそばをうろつく黒猫をふたたび抱き上げて懐に突っ込み、網代笠を深くかぶる。手には錫杖と本間米屋の手提げ提灯を持ち、一歩一歩、踏みしめるように歩きだす。

 黒猫が懐から身を伸ばして無慚の頬にじゃれついた。

 その身体をそっと撫でて、

「すまねえな」

 とつぶやいた。

 猫はにゃあ、と鳴いた。

「人間ってのは──どうしようもねえ」

 やわらかい黒毛に滴がひとつ。

 雲一つない空を、太陽が東から南へゆっくりその身を持ちあげてゆく。時刻はまもなく午の刻に入るところであった。


 ※

 本間米屋についた途端、黒猫は懐から飛び出して、店の奥へと駆けていった。

 帳面の整理をしていた米屋主人がのったりと顔をあげる。店入口をふさぐように立つ無慚を見てひどく顔をしかめた。

「カーッ。繁盛時に疫病神が来よった」

 主人の名は徳兵衛といった。

 先代が築き上げた大店で、彼自身にも商才があったおかげかあれよあれよと金を儲けているという。でっぷりと腹にのった脂が、よほどの繁盛ぶりを思わせる。

 たいした知り合いではない。

 思い出といえば十年前、とある件で野次馬に混じったこの男に、唾を吐きかけられたくらいのものだ。

 無慚は閉口したまま徳兵衛を睨み付ける。

「気味のわるいこっちゃ──自分、いつからまたこの国に出入り出来るようなったんや。国の恥さらしが。金落とさんのやったらはよ帰れッ」

「……────」

「間違うとること言うとるか。えっ。さんざっぱらそこいらで土下座しとったんはどこのどいつや!」

 はよ去ねッ、と徳兵衛は激昂した。

 その声におどろいたのだろう、奥から先ほどの黒猫と、あとに続いて娘がひとり駆けてきた。

「お父つぁんどないしたん!」

「おうこいと。塩持ってこい、店前に撒いとけッ」

「塩て、いったいどう──」

 娘、は気が付いた。

 店前に立つ嫌われ坊主と、その手に提げられた紋入りの手提げ提灯。娘は昨日この男を二度も見た。一度目はふなの店、二度目は天満天神の境内である。

「あっ」

 と、こいとは一気に頬を赤らめて、あわてて無慚の手をとり店の外へ連れ出した。なぜか黒猫はふたたび無慚の袈裟裾に爪を引っかけて、身体をよじ登ろうともがいている。

 すべてを為すがままに任せた無慚。

 米屋からすこし離れた樹の下で、ようやくこいとは無慚の手を離した。黒猫は錫杖を伝って無慚の肩に登りついたところだ。

 嗚呼、と無慚は片眉をあげる。

「夕べは邪魔したかな」

「ち──ちゃうんです。あの、お父つぁんには昨日のこと言わんといてください。夜に散歩してただけやねんけど、それもあかんて怒るから」

「そいつァあの狸親父が正しいな。いまの時勢、夜中に女がひとりでほっつき歩いちゃ、目ん玉ァ抉られるぜ」

「え?」

「死にてえんなら止めやしねえがな」

 と、無慚は手提げ提灯を娘に押し付けた。

 肩にぶら下がる黒猫をひょいとつまみあげ「ははぁ」と無慚が目を細める。

「おまえここの猫だったのか。どうりで」

「コテツがなにか」

「おまえさん──名は」

「……こいと」

「三郎治とは恋仲か」

「ちょ──なにを!」

「てめえんとこの狸親父には云わねえよ」

「不良坊主に答える筋合いありまへん!」

「ああそうかい。べつにいいぜ、三郎治に聞いてみらァ」

「エッ! だめ!」

 こいとが無慚の手を掴む。

 もがきにもがく黒猫は、やがて地面に飛び降りた。

「雲水さまは人の恋路にまで口を出しはるんどすか!」

「勘違いするな。おまえさんたちのようなガキどもの色恋に興味はねえ」

 といって無慚は踵を返す。

 何処へ、とこいとが悲痛な声をあげた。

 云ったろ、と無慚は嘲笑う。

「三郎治のところだ」

「わたしも行く!」

 こいとは頬を真っ赤に染めて、さけんだ。

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