狩りを忘れた獣たちは

戸松秋茄子

a closed season

 翔真はどこを怪我したのだろう。


 彼が狩りに行かなくなってずいぶんと経つ。

 見たところ健康そのもので、声の調子や足音にも弱った様子は見受けられない。

 前足は相変わらず器用で、いつもパソコンの上で素早く指を踊らせているし、それ以外の時間はピンセットを握ってハーバリウムの製作に打ち込んでいる。

 毎朝シリアルをガリガリと噛み砕いて食べているのを見るに、歯が欠けたわけでもなさそうだ。

 毎晩、ルナと裸になって絡み合い、ベッドを軋ませながら腰を打ち付け合うだけの体力もある。

 健康な若いオスであるところの彼がなぜ急に狩りに行かなくなったのか、わからなかった。


「お前、何か知らないか」


 翔真はそうして、わたしに話しかけてくることがある。決まって、ルナが留守にしているときのことだ。


「ルナは、この家に男を連れ込んでたりしてないよな? つまり、俺がテレワークになる前、そういうことをしてなかったかってことなんだけど」


 翔真はわたしの頭や背中を撫でながら言う。わたしが腹を見せているときは、そこも撫でる。調子に乗って触りすぎたり、肉球に触れようとしてきたときはこっちから威嚇するけど、翔真もだんだんとその加減がわかってきて、わたしの様子を見て、ほどほどでほっとくようになった。


「ルナは俺には過ぎたひとだよ。穏やかで愛嬌があって、あんないいひとはそういない。だから仕事をしてても不安になるんだ。いまごろ、あいつはもっとランクが上の男――たとえば時間に融通が効く実業家のイケメンとでも会ってるんじゃないかって。そいつは俺よりもっとでかくてマッチョで男らしくて、ルナの腕をつかんで後ろからガンガン突くんだ。ルナも本当はそういう風に乱暴にされるのが好きなんじゃないかって思ったりする」


 翔真はわたしがぷいと離れていっても、そんな話を続ける。まるで自分自身に話しかけてるみたいに。


「もし、そうだとしてもしょうがないよな。俺だって彼女と付き合いはじめたときは、別に彼女がいた。幼馴染み、って言っていいのかな。幼稚園から一緒の、なおっていうルナとは全然違うタイプの子だ。立派な二股だよ。その頃にはもう俺の気持ちはルナに傾いてて、尚とはいずれ別れるつもりだったけど、そんなの言い訳にならないだろ。そりゃ、ルナが現在進行形でそういうことをしてるんだとしたらいやだけど、俺にどうこう言う資格はない。こんな話しても、お前にはわかんないだろうけど」


 翔真は話すだけ話して、パソコンやハーバリウム用の道具に向き直る。わたしはそのままほっといて昼寝をしたり、また近づいていって、このなんだかよくわからないけど元気がなくて哀れなオスの相手をしてやったりする。

 そうしているうちに、今度は逆にわたしがうっとうしがられることもあるけど、翔真は少し元気になったように見える。



 この部屋の住人になる前は、わたしも狩りをした。母や他の猫がそうするように、虫や小鳥を捕まえて食べていた。

 ここではルナや翔真が代わりとなるカリカリを用意するし、そもそも虫や小鳥もいない。狩りをしなくても、飢えることはない。ふさふさのついたおもちゃやボールを追いかけることもあるが、それはあくまで遊びだ。


 翔真は、わたしと同じように誰かから餌を分けてもらうようになったのだろうか。だから狩りをする必要がなくなったのだろうか。


 暇なときはふとそんなことを考える。


 考えているうちに眠くなって、気づいたら夢の中で母の乳を飲んでいたり、他の兄弟と戯れていたりする。


 母は次の子供を孕んでいるときに他の猫と喧嘩をして深手を負い、そのまま弱って死んでしまった。他の兄弟はカラスに拐われたり、成長してどこかに旅立っていった。

 わたしは生まれた場所から離れず、母や兄弟がいなくなっても高架下の茂みを中心に生活していた。雨の日は高架の下からじっと動かず、晴れの日は高架の影が移動するのに合わせて日だまりを追いかけて日向ぼっこをした。

 たまに餌をくれる者がいて、その一匹がルナだった。わたしは彼女が体を撫でるのを許すようになり、気づけばこの部屋の住人となっていた。


「ねえ、翔君から別のひとの匂いがしたりしない? たとえばうちでは使わないような柑橘系の匂いとか。あなたならすぐわかるでしょ。犬ほどじゃないにしても、人間よりは鼻が利くんだから」


 翔真が狩りに行かなくなる前は、ルナもわたしに何やら語りかけてくることがあった。


「女の人は匂いフェチだとか、匂いに敏感だとか言うけど、わたしは全然そんなことないの。言われてみればわかるけど、自分からこの香水とかアロマの匂いがいいなとかってあんまり思わない。翔君はそういうの好きだけどね。わたしはどちらかと言えば、パン屋さんとか、焼き鳥さんの匂いの方が好き」


 ルナはわたしにとって心地いい触り方を知っている。撫でてほしい場所、タイミング、力加減を適切に見極めてくれる。気づいたらわたしもごろごろと喉を鳴らしながらされるがままになって、肉球を触られても許してしまう。


「翔君は、わたしのことをすごく褒めてくれる。かわいいとか優しいとか頑張りやさんだねとか。お愛想じゃなくて、本心から言ってくれる。誰の何を好きになるかなんてその人の自由で正しいも間違ってるもないけど、それでもわたしは自分が不当に高く評価されてるように思えてしょうがない」


 ルナは翔真よりも前に、狩りをやめた。ふとした拍子にめそめそと泣き出したり、一日中布団から起き上がらずにいることが続いて、とうとう部屋からほとんど出なくなったのだ。

 あれから少し経って、外出の機会も増えてきたけど、いまでもときおり、あの頃のルナに戻ってしまうのではと心配になる。


「わたしは単に欲がなくてめんどくさがりなだけなんだよ。むかしから、可能なら一日ごろごろしてたいと思うような子供だった。勉強は得意だったけど、だからって勉強して何かしたいことがあるわけでもなかったし、せっかく就いた仕事も辞めちゃったでしょ? 家事はできる範囲でがんばってるつもりだけど、それも張り切りすぎるなって翔君は言う。鬱病の患者にかける言葉としては適切なんだろうけど、わたしは申し訳なくてしょうがないよ」


 ルナが落ち込んでいた頃、わたしはよく母がそうしてくれたようにルナの顔や腕を舐めてあげた。いまでもたまにそうすることがある。


「慰めてくれるの?」


 ルナはそう言ってわたしを撫でたり、ぎゅっと抱き寄せたりする。


「翔君はわたしのことを女神かなにかだと思ってるんだよ。実際は全然そんなことないのに勝手に引け目を感じてる。翔君は尚さんみたいな、彼にとって普通と思える女の子といる方が心安らぐのかもしれない。そういう子と外で会っているのかもしれない。そういう子と遠慮のない激しいセックスをするのかもしれない。ずっと家にいるとそんなことを考えるの」


 わたしは、ルナや翔真のように器用に前足を使うことはできないし、彼らの言葉を理解することもできない。


 それが少しだけもどかしい。



 高架下で暮らしていた頃、わたしはあまり夢を見なかった。狩りをしなければならなかったし、カラスの脅威もあった。日がな一日ごろごろしていられるだけの余裕はなかったのだ。


 この部屋に連れてこられてから、わたしは寝てばかりいる。ルナや翔真が立てる音ですぐ起きてしまうくらいの浅い眠りで、そういうときは特によく夢を見る。


 だけど、ルナや翔真が狩りに出なくなって、わたしは以前ほど眠らなくなった。彼らは何かしら音を立てるし、相手もしなくてはいけない。


 わたしの二匹の同居人は狩りにも行かず、日がな一日家の中でパソコンをいじったり、ベランダでうるさい機械を動かしたり、それよりは少し静かな機械を部屋の中で行ったり来たりさせる。


 二匹はときおり言葉を交わし、また互いの作業に没頭する。わたしは適当に彼らの相手をしながら、窓辺やキャットタワー、ベッドの上で眠る。


 夜になると、二匹は狭い台所に並んで自分達の餌を用意しはじめ、ときどき控えめな声で笑い合いながら、毎日、違う匂いがするものを作る。

 交代であのいまいましいお風呂に入り、そしていよいよ寝る間際になると、二匹は照明を落とした部屋で長い時間をかけてまぐわい、その間に何度も唇を重ね、舌を絡ませる。


 外の猫たちと違って、彼らは正面から向き合うようにしてまぐわった。どちらかが一方の上に覆い被さることもあれば、体を起こして抱き合うようにして動くこともある。


 部屋に仕切りのようなものはなくて、わたしは瞳孔を開いて、二匹の獣がまぐわうのをじっと眺めることになる。


 母も高架下で似たような声を出しながらオスとまぐわった。普段見ないような毛色と、匂いのオスと。彼らは母とまぐわうとまたどこかへ消えてしまう。ルナと翔真のように、同じ相手と何度もまぐわうことはなかった。


 翔真はルナを孕ませようとしているのだろうか。いつまで経っても彼女のお腹が平たいままだから毎夜のように覆い被さり、執拗に腰を打ち付けるのだろうか。ルナが孕めば、部屋を出ていくのだろうか。


 そんなことを考えていると、やはり眠くなってくる。ルナも翔真も夜に眠る。わたしもそれに合わせて眠るようになっていた。二匹はいったん寝ると死んだようになり、朝まで起きない。わたしは何度か目覚め、二匹が本当に死んでしまったのではないかと寝息を確認し、また目を閉じる。ベッドの上で、二匹に挟まれるようにして、眠る。


 だから、まぐわいがあんまりに長いと、わたしはうるさく鳴いて彼らを諌めるのだ。


「早く寝ろってさ」


「そうしよっか」


 二匹はわたしにはわからない言葉でやり取りし、体を離して、わたしが寝れるだけのスペースを作る。わたしはベッドに飛び乗ると、ひとしきり撫で回された後、二匹の間に丸まって目を閉じる。明日もきっとわれわれは狩りには出かけないだろう。そんなことを思いながら。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

狩りを忘れた獣たちは 戸松秋茄子 @Tomatsu_A_Tick

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ