第一章

第1話 信仰心

「不敬なり……」

 

 一人の老人が自分の目の前にいる少女へと絞り出す様な声で言った。その老人は、赤紫の詰襟のキャソックにラソを羽織っている。その老人をぼやっとした目付きで見つめている少女。年の頃は十歳程であるが、やせ細り貧相な身形をしている為、もしかしたらまだ歳は上なのかもしれない。

 

「神様にお祈りしてどうなるの?お腹が一杯になる?お父さんやお母さん、ひもじい思いをして死んだ弟は……死んじゃった皆が生き返るの?」

 

 感情の篭っていない声。淡々と喋る少女。老人を見つめている大きな瞳には子供らしい光りはなく、底の見えない深淵の様に暗い闇に満たされていた。

 

「ねぇ……司教様。私は朝も昼も夜も……毎日、神様にお祈りしたわ。でも、神様は何もしてくれなかった。生きる事を諦めた私を救ったのは神様じゃなくて、あの方だったわ」

 

 全身の毛穴からじとりとした汗が噴き出してくる。その汗は大きな粒となり司教の額から頬を伝い角張った顎の先から落ちていく。

 

「この地域一帯の教区を治めるあなたは、信者の為に何をしたの?その日食べる物にさえ困っていた信者達から奪い取るだけ奪ってただけじゃなくて?」


 司教に歩み寄る少女。歩み寄られた分だけ下がる司教。その足取りが覚束無い司教がどさりと真紅の絨毯の上へ尻餅をついた。幼い少女相手に震えている。

 

「あなたが奪い取った食べ物でお腹が一杯になっている時、弟は空腹のひもじさで泣いていたわ。あなたが葡萄酒で酔っている時、弟は泥水を啜っていたわ……それを見ても神様はあなたに罰さえ与えなかった。だから、私が今からあなたに罰を与えるわ」

 

 ただ無言で震え少女を見上げる様にして見ているだけの司教。

 

「Pater noster, qui es in caelis:

sanctificetur Nomen Tuum;

adveniat Regnum Tuum;

fiat voluntas Tua,……

さぁ、お祈りしたらどう?あなたの信じている神様に」


 尻を引きずりながら下がる司教の背に硬いものがぶつかった。幼子を抱く聖母の石像。元は白かったのだろう。だが今は埃で薄汚れている。

 

「……お前がこの教区の司祭達を殺ったのか?」

 

 震える声で尋ねる司教に、少女はこくりと頷いた。少女の頭の動きに合わせ亜麻色の長い髪が揺れる。

 

「ええ、そうよ」

 

「悪魔の子め……」

 

 司教が吐き捨てる様に言った時である。司教の額に深々と刃渡り約十センチ程のダガーナイフが刺さっていた。

 

 薄暗い教会の中に、磨りガラスから射し込む淡い陽の光り。信徒席に均等に並べられた長椅子。その間をすり抜ける様にして歩く少女。普段は上がる事の出来ない祭壇の右側小祭壇に設置されている古い講壇の前まで来ると、その上には開かれた分厚い聖書が置かれていた。そして、そこから礼拝堂を見渡した。

 

Credo in unum deum, patrem omnipotentem.(信じます。唯一なる神よ、全能なる父よ……)

 

 そう言い終わるとダガーナイフを聖書へと突き立てる。二度、三度と、その怒りを静かにぶつけていく。その鈍い音が教会の中に響いている。

 

「信じない……信じない……信じない……許さない」

 

 少女の瞳から一筋の涙が零れて落ちていく。ぽたりと切り刻まれた聖書の上へと落ちていく。落ちた涙が、古びた紙の上に小さな染みを作った。そして、聖書にナイフを突き刺したまま少女は祭壇からおり、もう一度主祭壇の方へと体を向ける。すると、蝶番の軋む音と共に教会の扉がゆっくりと開く音がした。

 

「終わったのね……マカレナ」


 振り返る少女。その視線の先にいるのは二十代前半の女。開けられた扉から入る眩しい陽の光りを背負っている為か、マカレナは目を細めてその女を見ている。

 

「はい、ルシア」


 マカレナに歩み寄たルシアがそっと手を差し伸べる。その手を握るマカレナにルシアが微笑んだ。

 

「さぁ行きましょう、マカレナ」


 

 ルシアの濡羽色をした髪が、扉から吹き込む風でふわりと揺れる。微かにロサ・ダマスケナの匂いがした。マカレナが薔薇が好きだから……その香りを身につける様になったルシア。無言で頷くマカレナがルシアの腕に身を寄せた。

 

「どこまでもルシアと共に……」

 

 寄り添う様にして教会の扉から外に出る二人。外の眩しさに手をかざすマカレナ。教会の前にはルシアの乗ってきた馬車が停まっている。それに二人が乗り込んだ事を確認した御者が馬車をゆっくりと進ませた。

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