忍び寄るもの

大山 杜

じめじめと蒸し暑い夏の夜

 7: 06 pm


 冷房の効いたバスから降りた途端、押し寄せてくるように全身を包み込む湿り気を含んだ熱気。不快。


 車内の冷房で冷やされた眼鏡のレンズが一気に曇って前が見えない。不快。


 堪らず眼鏡を外し、曇りが散ることを期待して軽く振りながらマンションに向けて歩くが、ぼやけた視界に入ったのは横断歩道の赤信号。不愉快。


 ようやく青に変わった信号にガンを飛ばしつつ眼鏡を掛け直して横断歩道を渡り、歩くことしばし。デング熱に関する注意喚起のポスターを横目に見つつ守衛室の前を通ってマンションの敷地に入る。


 石畳を踏みしめ、敷地内の緑地で幼子を遊ばせている老夫婦を眺めながら自分が住む棟へ向かう。歩くたび、汗を吸った肌着とワイシャツがへばりついてくる感触。不快。


 エレベーターホールに到着するも、三基あるエレベーターはどれも5階付近からなおも上昇中。行ったばかりの様だ。全くもって、不愉快。



 7:20 pm


 やっとの思いで部屋にたどり着き、真っ先にエアコンのリモコンを操作して冷房をかける。室外機が唸りを上げて過重労働に対する不服を声高に叫ぶが黙殺する。エアコンから吐き出される風が暑苦しい室内の空気をかき混ぜだすのを確認し、おもむろにうがい手洗いと着替えを済ませる。ようやく肌に張り付く湿ったシャツから開放された。快。


 エアコンからは冷風が吹き出すものの室温は未だ適温とは言い難い。冷蔵庫を開けて中身を検めつつ、冷えたグラスと炭酸水のボトルを取り出す。正直言ってこの暑さでは凝った料理を作る気力も食欲も湧かない。どうしたものかと考えつつ、グラスに注いだ炭酸水を煽る。喉を潤し弾けながら胃に落ちる冷たさが気分をスッキリさせてくれる気がする。快。



 11:26 pm


 ソファーの上でだらけながらギルメンとチャットで雑談していたが、ふと気がつけば深夜に近い。睡眠不足では明日の業務にも支障が出かねない。ギルメンに就寝の挨拶をしつつログアウト。充電ケーブルを差し込んだスマホをベッドサイドテーブルに放って洗面所へ。水滴の乾いた跡が点々と残る鏡を見ながら歯を磨く。鏡に写るのは相変わらず冴えない顔をした三十路の男。無感動。


 口を濯いでリビングに戻り、照明を消して唸りを上げるエアコンにも本日の業務終了を申し渡す。エアコンをつけたまま寝ると流石に冷えすぎて安眠できない。それでも寝入るまでの時間くらいは部屋の冷気も保つはずだ。スマホが正常に充電されていることを確かめ、外した眼鏡をその傍らに置く。明日も早いのでさっさと寝てしまおう。ベッドに横になり、腹にタオルケットを乗せてナイトランプを消灯する。目を瞑ると、それまで気にも留まらなかった冷蔵庫のコンプレッサーがたてる低い動作音が、にわかに大きくなったように感じられる。気のせいだ。視覚が遮断されて他の五感が多少鋭敏に鳴ったに過ぎない。背景音を意識の外に追い出しながら、指先にかかる睡魔を手繰り寄せる。水滴が落ちる音。部屋の外の廊下を歩く人の足音。腹の上のタオルケットの僅かな重み。散漫になる思考。意識が、徐々に、遠のいて…



 xx:xx am?


 不意に意識が浮かび上がるような感覚。見開いた眼に映るのは真っ暗な闇。冷蔵庫が相変わらず低い音で唸っている以外、物音は聞こえない。やや蒸し暑さを感じるが、眠りを中断されるほどの暑さではない。身を捻ってベッドサイドテーブルの上をまさぐり、スマホを掴む。表示された時刻は午前2時11分。寝入ってからそれほど経っていない、はずだ。妙な時間に目覚めてしまった。もう一度目を瞑って寝てしまおうと思ったが、俄に尿意を催してきたので已む無く半身を起こす。ナイトランプを点灯しようと手を伸ばそうとした瞬間。


 つっ、と頬をかすめる何かの感触。


 あるいは触れてもいない何かの気配。


 びくり、と思わず硬直する身体。


 手を伸ばしかけた状態のまま息を呑む。


 音は聞こえない。


 気がつけば冷蔵庫の唸り声も止んでいる。


 何だ。嫌だ。


 いま、再び何かが耳元をかすめたのは気の所為?


 何かいる。何がいる?


 慎重に、息を細く吐き出しながら、手探りでナイトランプのスイッチに触れる。


 暖色の明かりによって枕元の闇が払われ、暗がりに浮かび上がる室内。


 何もいない。


 眼鏡を拾い上げ、装着しようと顔に寄せた手の甲を掠めるような感触ッ!


 咄嗟に手を振り払うが触れるようなものは何一つない。


 ベッドの上で上半身を起こした姿勢のまま、身じろぎもせず周囲を探る。


 背後は壁。


 仄明るいナイトランプに浮かぶ室内の様子に不審なものはない。


 明かりの届かない部屋の隅に蟠る闇を睨むが、動くものどころか物音一つしない。


 当然だ。室内には自分ひとり。


 締め切った室内に、不審なものなど入り込むはずもない。


 やはり気のせいだろう。そうに違いない。目が覚めたのは偶然に過ぎない。


 そう確信し、やれやれと大きくため息をつく。

 

 すぅ、と。


 耳の後ろから眼前へ、無音で過る小さな影に再び息を呑む。







 ーーー蚊だ。






 3;01 am


 その後、部屋中の明かりをつけて羽音のしない蚊を必死で追い回し、やっとの思いで叩き潰したら3時を回っていた。寝不足確定という現実にうんざりする。なにはともあれ、悪は滅びた。眠気はすっかり去ってしまったが、寝ておかないと仕事に障る。再び部屋の明かりを落とし、ベッドに身を横たえて目を瞑る。


 一体、いつの間にこの国の蚊はステルス飛行が可能になるような進化を遂げたと言うのか。それとも、実は未発見の新種だったのか。それならば少し惜しいことをしたかもしれない。衝動的に叩き潰し、すぐさま洗い流してしまった。尤も、蚊の研究なんてしたくもないが。また夜にでもギルメンたちに訊いてみよう。羽音のしない蚊を見たことがあるか、なんて。


 まさか、他のギルメンから目撃情報が得られることも、そして、その多くが30代以上のメンバーからであることも、このときの自分には知る由もなかった。


 




 

 


  


 


 



 

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忍び寄るもの 大山 杜 @stykphd

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