君がうちに来た日

桃もちみいか(天音葵葉)

恋にサヨナラした日が君との同居記念日

 花冷えのある休日。

 部屋の窓を眺めると、外にはしとしとと降る細かい霧雨が世界を霞めて見せている。

 私はさっき彼に別れを告げて、一つ恋を終わらせた。


 彼と付き合っている時は、こうやって一人うちで過ごしていると彼が突然遊びに来てくれた。

 ――もう、二度と彼はここにはやっては来ない。

 思い出すのは楽しかったことばかりだった。

 私はまた一人ぼっちなのだ。

 一人きりの家に、孤独という見えない煙が冷たさを放ちながら充満している。


 ――だけど、こんな悲しい日に私に出会いが訪れるとは思ってもみなかった。

 今日のおうちには私一人だけの気配だけだった。

 君一人が加わるだけで、こんなにもホッと和むなんて。


  ✿


 私と彼、圭佑さんは、先週の休日に静岡県の梅祭りに行った。


 山あいや川沿いに並び生えた400本以上の梅の樹木が、見事に咲いている。

 若木にも齢百年を越す老木にも可愛らしくほころぶ、ちっちゃな花びら。

 純白や淡い紅に濃いピンクの梅の花々は、花見見物に来た観光客の目を楽しませていた。

 美しい花を愛でると、自分の心のけがれも落ちて消えるような錯覚に落ちいる。

 決して、私の罪は消えて無くなりなどしないというのに。


 私は圭佑さんと腕を組み、清流で有名な川の土手沿いを歩いた。暦では春が来てもまだまだ冬はとどまり、冷えた空気を風が運ぶ。

 寒空の下で健気に咲く梅に目を奪われ、彼の横顔にもまた見惚れていた。

 二人で川に架かる朱塗りの橋を渡ると露店が並んでいて、立ち寄る人々の声が賑やかに響く。


 社会人になりたての頃、大学の先輩である圭佑さんに偶然にも再会した。

 圭佑さんにはもう妻子もいたけれど、私がずっと好きだった、タイプだったと熱心に口説いてきたのだ。

 私も圭佑さんに憧れていた時期があったから、あっさり彼との後ろめたい恋に陥落してしまった。


 恋人のいない隙間の時間の、ほんの一時いっときの恋人関係のつもりだった。

 背徳の恋は情熱を与えて、私の不倫はいけないという気持ちをいとも簡単に打ち砕いてしまった。

 


 泊まりでの旅行はこれで最後にしたいと圭佑さんが言った。

 次は桜が咲いたら、夜桜が綺麗な場所へ二人で出掛けようって言ってたくせに。

 ピンときたのだ。私の第六感はある危機を嗅ぎ取っていた。


「もしかして……。圭佑さん、私とのことが奥さんにバレたんでしょう?」

「まだ大丈夫だよ。誤魔化したから」


 それでも関係は続けたいと圭佑さんが縋りつくようにして、私に抱きついてきた。

 彼のその情けない顔を見てしまい、瞬間に恋は過去の感情ものになっていた。

 好きだった――。

 そう。

 好きだ。ではなく、『好きだった』へと。


 みるみる気持ちが冷めていく。

 掬い上げた砂が指の隙間からこぼれ落ちるかのように、あっという間に私のなかから彼への執着は無くなっていった。

 ただ、厄介なのは、情と思い出は残っている。

 重ね合わせた肌の分だけ、捨てきれない心地よさや温もり。交わした愛も言葉も嘘じゃなかった。

 全てで私は彼を愛してきた。

 時間も心も、ただ彼だけのために存在していた。


 振り返ってみてしまったら、過ぎ去る時は残酷である事実を突きつけてくる。

 私は圭佑さんと五年も不倫していたのだ。

 結婚なんかしなくてもいいと思っていた。

 戸籍上は一人でも、彼が週末や時折り会いに来てくれるだけで満たされる――、だからそれで良いのだと、気持ちが燃え上がっているうちはそう信じて疑わなかった。

 時は無情に過ぎ、若さとまた誰かを探して愛したいという欲を奪っていったのだ。

 友達のほとんどが結婚や出産を経験したり、パートナーを見つけ仲睦まじく幸せに生活している。……ように少なくとも私には見える。

 またはキャリアを積んで社会的にも自分の立ち位置を掴み、名刺に役職が刻まれていた。


 私ってば、何をしていたんだろう。

 我にかえってみれば、私にはなぁんにも無かった。

 誇るほど今の仕事が好きで打ち込んだわけでもない。でも、サボるわけではない、どちらかと言えば真面目に人に迷惑を掛けないよう卒なくこなし一日を過ごした。

 でもただただ虚しかった。


 ……この五年、五年間も何をしていたのだろう。

 私は圭佑さんとの恋に、酔っていた――のだろう。

 それほど夢中になって彼を好きで愛したのに、あっけないほど簡単に私は圭佑さんと別れたのだ。


 一日何もせず虚ろにぼんやり過ごしていた。その時だった。

「みゃぁ……」

 雨音にかき消されそうな弱々しい鳴き声にハッとなる。

「みゃぁ……」

 確かに聴こえた?

 慌ててベランダに駆け寄ると、倒れた子猫がいた。

 カラスに襲われたのか、犬にでもやられたのだろうか。濡れた毛に血がこびりつき傷ついている。

 私は子猫を抱き上げ、動物病院に走った。


    ✿


 一人きりの私の家に君がいる。

 私は子猫の君を飼うことになりました。

 幸いにも君の傷は軽くて、お腹が減って倒れていたんだね。


「みゃぁ、みゃぁ」


 子猫の君がくれる温もり。

 私以外の息吹と気配は、私の家の孤独を消し温かさを与えてくれた。

 甘えたように鳴く可愛い子猫の存在がお世話が、私のおうち時間のすべてになった。

 君の好きなものはなんですか?

 甘いミルクかな?

 猫じゃらしに暖かい毛布かな?


 一人ぼっちの私と一人ぼっちの君は偶然出会った。

 君は私と孤独を慰め合うために無意識に、うちに惹かれて現れたのかもしれない。


 もう寂しくないや。


 永い恋にサヨナラをやっとした日、私は子猫きみと同居することになりました。



        了


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