扉あけたら

おくとりょう

《おうち時間》

「こんな気持ちいいなら、もっと早く外に出れば良かった…」


 心をくすぐる晴れやかな青空

 あたたかい陽の光が心地良い。


 久々に出た外は、どこか清々しくて。ただの空気も美味しいような気すらして、大きく深呼吸をしてみる。

 風がふわぁっと服と髪をそよがせ、空には綿菓子のような雲が流れていく。

 いくつも雲の影が身体を通り抜けるのを見上げているうちに、自分も空を流れているような気持ちになってくる。


 愉しげな鳴き声に振り向くと、民家の庭先でわけもなくじゃれあいながら、あちらこちらへと飛び回るスズメ達。

 何だか胸の奥まであたたかい。


(もっと早く外に出れば良かった)

 まだ昇りきっていない太陽を見ながら、口の中で呟く。


 と、そのとき、太陽が分厚い雲に隠れた。すっとあたりは薄暗くなる。

 それと同時に寒気がして、振り返ると。


 そこには、一体のゾンビがいた。


 土気色の肌をしたそれは、虚ろな目で黙々と歩んでくる。こちらに気づいているのか、いないのか。まっすぐに。


 彼は悲鳴を飲み込み、踵を返して逃げ出すが、すぐにあることに気づく。

 もうすでに、ここにはゾンビしかいないということに…。


 すれ違う人は、みなゾンビ、ゾンビ、ゾンビ…。


 光を失った瞳は、こちらを見ているのかも分からない。薄く開いた口からは、ときたま、うめき声が溢れる。そして、彼らは前にしか進めない。


 最後の人間となってしまった少年は、走り出す。

 ゾンビのいない場所へ。

 人のいる場所へ。

 誰もいない場所へ。


 しかし、街の至るところに、彼らはいた。駅にも、店にも、道にも。溢れるほどではないにしろ、人のいるべき場所には、ゾンビがいた。


 耐えきれず、彼は逃げ出した。

 住み慣れた街を見捨て、ゾンビに背を向け…。


 だが、どの街でもゾンビは彷徨う。

 誰かを襲うわけでなく、ただ彷徨う。


 彼は気づいてしまう。

 ゾンビたちが誰ひとり襲ってこないこと。

 平和なことを。


 公園で頭を抱える彼の前を老人の姿をしたゾンビが横切る。襲いかかる素振りは、まったくなかった。


 空を見上げると、先ほどまでは優しく晴れ空が、他人事のように思えた。口の中が乾く。薬を呑むように、唾を喉へと押し込んだ。

 ただ、降り注ぐ陽の光が震える身体をあたためてくれる。


 ふと、視界の隅の水たまりが不自然に揺れた。何気なく覗き込もうとすると、水面から長い手が現れ、逃げる間もなく、押し倒される。


 背中に激しい衝撃と痛みを覚えた瞬間、そこはいつもの自室だった。

 寝返りをうって、落ちてしまったようだ。


 いつも突き落とされる。現実に。


 昨夜消し忘れたテレビから、外出自粛を要請するニュースが流れる。


 空は青く、日もまだ高かった。

 窓の外の空を眺めながら、彼は嘆く。自分が長く外へ出ていないことを。

 他人が怖くて、失敗を恐れて、家に閉じ籠もって、どのくらい経つだろう。


 何が原因というわけではなく、彼は数年の間、自宅から出れなかった。引きこもっていた。強いて原因を言うなれば、すべての積み重ねが原因で。


 パンデミックに右往左往する社会の音を聴きながら、不謹慎にも微笑む彼。

 痩せ細った白い足で立ち上がると、唸った。

 外に…人のいない今こそ、外に出ないと。

 外出に慣れないと、みんなが家にいるときにこそ、外にでないと。

 少しずつ、少しずつ。


 外にはゾンビはいない。

 ふざけんな。

 青空の下に声がひびく。


 沈む生暖かい布団からぐっと、身支度を始めることにした。

 鏡の中にゾンビを見た。

 もう外にはゾンビはいない。

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