8 素敵な愛妻弁当

 九月半ばになると彼女はハロウィンの準備で仕事が忙しくなった。

 パートなのに仕事を多く任されて、何気に結婚前の彼女のように生き生きとした表情を見せている。


 『人間暇にしていると駄目になる』と言っていた彼女の言葉は正しかったのかもしれない。そう思いつつも、家に持ち帰ってきたハロウィンのPOPポップ作りに精を出し過ぎている彼女を見ていると、正社員として働きたいと言い出すのではないかと、非常に不安になってくる。


 何故なら彼女は熱しやすいからだ! 彼女はとても熱心に仕事をこなす。もうそれはそれは楽しくて仕方がないようで、現在目の前の彼女は調子の外れた鼻歌まで飛び出している。


 これは危険だ。かなり危険だ!

 あの楽しそうな嬉々とした顔を見てみろ。今の彼女の頭の中には僕のことなど片隅にもないぞ……。






 そしてハロウィン当日。


 今朝の食事は納豆トーストだった。

 納豆と食パン、一見して合いそうにないこの組み合わせは、ひと手間加えるととんでもないご馳走に変わる。

 これが絶妙にイケるのだ。食パンにマヨネーズをたっぷりと塗り、市販の納豆を付属のタレで味付けして小葱の小口切りや、シソのみじん切りを入れて混ぜた後、それをマヨネーズを塗った食パンに広げる。そしてその上にスライスチーズを乗せてトースターで焼くのだ。


 ただこれだけなのだが。発酵食品どうしの相性がいいのか、チーズとマヨネーズの黄金コンビが良いのかわからないが、非常に美味なのは間違いない。


 僕は半分食べ終えた納豆トーストに舌鼓を打ちつつ彼女を見ると、彼女も出来立ての納豆トーストにかぶりついていた。納豆菌は火を入れると元気がなくなるようで、彼女のかぶりついた口元に納豆特有の糸は見えない。


「やっぱり美味しいね」


 嬉しそうに笑う彼女を見ていると、僕は幸せだという気持ちが強くなる。


「そうだね、美味しいね」


 先に食べていた僕は最後の一片を口に入れた。カリッとした香ばしい納豆風味のマヨネーズ味のパンの耳が実に美味い! サクサクと口の中で咀嚼してごくりと飲み込んだ後、僕は淹れたての珈琲を飲んだ。うん、この芳しい香り、これはアラビカ種の東ティモールの豆だ。昨日彼女が教えてくれた。そんなことを思っていると、彼女が口を開いた。


「やっぱりハワイコナって美味しいよね」


 え? ハワイコナ? 東ティモールじゃないの? 昨日は東ティモールだって言ったよね! そう心で叫びつつ、一瞬僕は目を泳がせた。


「どうしたの?」

「……いや、昨日東ティモールって聞いたような気がして」

「そうよ。そして今日はハワイコナ珈琲なのよ。味が違うでしょう?」


 僕の目がまた勝手に泳ぐ。


「……うん、ハワイコナは美味しいね」


 正直に言おう、僕はその微妙な味の違いがわからない男だ。ただ美味しいのは間違い無いんだけどさ。


「豆の種類としてはブルーマウンテンと同じだからね。何を隠そう、ホームセンター内にある珈琲ショップで豆を分けてもらったんだよ。滅多に外には出さないものだからね。良いかい? 心して飲むのだよ、ワトソン君!」


 彼女はキリッとした視線でこちらを見た。


「イエスッサー!」


 僕はもう何というか、自然と敬礼体制を取ってしまった。

 そうなのか、知らなかった、ブルーマウンテンとハワイコナは育った場所が違うだけの、同じ種類の豆なのだ。ならば美味しくないわけがない。


「そういえば、今日はハロウィンでしょう? だから今回は特別なお弁当を作ったから、楽しみに開けてね」


 テーブルの並びにある玄関脇の台の上に僕の弁当は置いてある。

 いつもはそんなことを言わない彼女が敢えて言葉にするということは、これは期待していいレベルの中身ではなかろうか!


 嬉しくなって、僕は腕を伸ばすと正面に座る彼女の頭を撫でた。


「本当にいつもありがとうな。弁当はいつも美味しいけどさ、こんなイベント事に特別な弁当まで作ってくれるなんて、本当に僕は幸せ者だと思うよ」


 真面目な顔でそういうと、彼女はちょっと照れくさそうにして赤くなった。


「それは……ほら、大事な旦那様だし……」


 ふむふむ、視線を逸らしたな。それではもう少し押してみようか……。左肘をテーブルにつき自分の顎をその上に乗せると、僕はニコッと彼女に笑って見せた。


「言葉が足りないなぁ。大事で、大好きな、だろう?」

「な……何を言わせるのよ、もう!」


 ほら見ろ、彼女が茹で蛸のように赤くなった。いつもはワトソン君だなんだと助手扱いだが、今日は僕の勝ちだ。僕だってここぞという時にはそれなりにやるんだ。ふふふんとほくそ笑みを堪えながら更に駄目押しで頬を撫でる。


「大切な美香子の作ったものだからね。残さずちゃんと食べるよ」


 ふわーっはっはっは! 今これを呆けた顔で読んでいる諸君! これが熱々ラブラブの新婚家庭の夫婦というものだ! 羨ましいか? 羨ましいだろう?!

心して存分に妄想するが良い!


 

 そして僕はワクワクしながら弁当を鞄に入れ、仕事に出かけた。納豆トーストは腹持ちが良いからな。よし! 今日は会社の構内を無駄に歩き回るぞ!




 


 そして存分に午前中は仕事に没頭し昼休みになった。

 昼休みというものは、何故こんなにも嬉しいのだろう。僕は心から昼休み信仰者になってもいいと思う。

 

「武久さん、そろそろお昼にしませんか?」


 広い構内を自転車で移動しながら、新人後輩が僕に声をかけてきた。


「そうだな。そろそろ昼だな。よし、戻ろう」

「はい!」


 僕らは一番高い建物にある自分の部署のデスクに戻った。部長に報告書を出し、給湯室で手を洗うとロッカーに入れていた弁当を机に持ってくる。

 

「武久さん、今日も愛妻弁当ですか?」

「まぁね」


 後輩が羨ましそうに視線を送るのをいなしながら、僕は弁当の包みを広げた。広げると蓋に紙が貼ってあり、そこには『こちらを上にして開けてください』と書いてあった。成る程、上下がある訳か。


 僕は上と書かれた方をちゃんと上にして、一度呼吸を整えた。大きなハートとか、『大好き』とか書いてあったら恥ずかしいので、周りをちらっと見回し、みんな自分の昼ごはんにありついているのを確認してから勢いよく蓋を開けると……。


「ヒィーーー!」


 開けた瞬間、中身を見た僕は悲鳴に近い声を上げ思わず仰反った。その姿を見た後輩が「どうしたんですかー?」と呑気な声で僕の弁当を隣から覗き……。


「うわーーーー!」


 と更に大きな声を上げて立ち上がる。彼が座っていたキャスター付きの椅子は、勢いよく立ち上がったが為に、遮る物のないリノリウムの床をコロコロと移動して行く。そこに部長が通りかかり、椅子は部長にぶつかった。


「どうしたんだ? そんな声を上げて」


 わやわやと近くの人が集まり、部長までもが僕の席へやってくる。隠すべきか否かと考える間もなく、沢山の目が僕の弁当を覗き込み、その瞬間みんな同じようにおののいた。


 僕のこの日の弁当には、キャラクター弁当としてお化けの顔が描かれていた。

 髪は糸のりでボサボサ、その隙間から見える肉団子のギョロリと張り出した目はこちらを見ていて、今まさにケチャップの血が滴る食われたばかりのウインナーで出来た五本の指が、化け物の口から外へ飛び出している。


「すげぇな……お前の奥さん、すげぇよ」

「これはリアルだな……」

「武久君、これを食べるのか? ある意味、君は最強だな……」


 係長や課長や部長の声が遠くに聞こえる。


 朝はあんなに可愛い顔を見せていたのに、その仕打ちがこれかよ……。

 ……愛妻弁当の筈なのに、こんなにも衝撃的なものだと誰が想像するよ。


 美香子、君、大事で大好きな旦那様だって言ったじゃん。ハロウィンってリアルなホラーじゃなくて、可愛いお化けだろ?


 僕は涙目になりながらその化け物を貪り食った。もうこうなれば食い尽くすしかないじゃないか。


 いや、美味かったよ。うん、味は間違いないよ。でもさ、ほら心理的にあるじゃん。食べたくなるような物と、食べたくなるような物がさ。

 

 僕は今日も彼女に負けたのだと悟った昼休み、空になった弁当箱を前に、むせび泣くように緑茶を啜った。






 弁当にリアルなホラーはいかんですばい、心が折れるから……と強く思った日の話……。


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僕と君の時間 森嶋 あまみ @AmamiMorisima

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