ドラマは無けれど風邪はひく。

Planet_Rana

★ドラマは無けれど風邪はひく。


 午後1時を過ぎた頃に目を覚まし、2時になったら周回遅れの朝食をとる。太陽が沈む頃に目が覚めて、風呂と夕食。それから、覚めた頭で作業して就寝が午前4時。


 午後2時を過ぎた頃に目を覚まし、4時になったら周回遅れの朝食をとる。太陽が沈み切った夜に目が覚めて、風呂と夕食。それから、覚めた頭で作業して就寝が午前3時。


 午後4時を過ぎた頃に目を覚まし、5時になる前に周回遅れの朝食をとる。太陽が沈み切った夜に目が覚めて、風呂と夕食。それから、覚めた頭で作業して就寝できず、朝の6時。


 午前6時30分。ぐうたらな自粛生活は1週間ほどでリセットされる。怠い頭と働かない思考と、それから空腹と睡眠不足と。少しの息苦しさと共に。熱を測る。38度ぴったり。


 倦怠感はないが、のどと腹が痛い。

 どうやら風邪をひいたようだ。







『だっはははははは!! 風邪ひいたってまじ!? 今日は待ちに待った卒業式の前日だっていうのに!?』


 SNSのダイレクトメールで近況を聞いてきた学部違いの同級生は、小学生時代の腐れ縁。この時期に風邪をひくこと自体は珍しくないが、時代が時代である。大爆笑の文字の羅列はしばらく続いて、本人の気が済んだ頃に真面目なトーンで『で、大丈夫なの?』と現状を案じてくれた。この間にかかった時間は僅か2分である。タイピングかフリック入力かは知らないが、出力速度まで5Gなのかな。


『あたしだって心配する時はするんだよ。今の時代の3大キーワードは除菌滅菌殺菌だろう? そもそも戦う相手はウイルスだって言ってんのに、やっぱり除菌滅菌殺菌をうたうわけだよ、相手は菌類じゃな――いや、話がずれたね』


 たいして専門でもない菌類とウイルスの違いについて語り始め、瞬く間に通知欄が圧迫されていく。つまるところ、私がその病気にかかっていないかどうかが不安の種といったところだろうか。ああ、ああ、大したことは特にない。あるとすれば、腸炎特有のゲリラ腹痛と波のように押しては引いていく妙な寒気と熱だけだ。


『重症じゃんか』


 ええまあ、言うまでもなく。


 画面の向こうでしばしの沈黙。黙したといっても、それまで豪雨のような言葉の羅列がひっきりなしに送られてきていたというだけで、次の言葉が送信されてくるまでの10秒程度がラグに感じられただけだった。

 ネット脳はその間に、自分のプロフィール欄とタイムラインを巡回する。画面上部に会話の通知が入った。長文だ。


『卒業式の前日に体調を崩すなんてつくづく運がない。君は前世で何か神様を怒らせるようなことでもしたのかな? 小学校の遠足に始まって小中高の卒業式と発表会や表彰式に山間学習に修学旅行は体調不良で全滅!! 大学だって、諸々のイベントに参加することも叶わなかったのに年の取得単位が16に満たず浪人すること2回!! 卒論発表の当日も出席が危ぶまれたにもかかわらず温情で頂けた単位を胸にようやっと卒業できるってときにさ、どうして君はそう、休まざるを得ない状況に追い込まれる星の元に産まれてきたの?』


 私だって好きで休んできたわけではないのだ。そう返信をして、眼鏡もかけずにぼやけた天井を眺める。小さな1人部屋の天井の壁紙は所々剥がれていて、就職先が決まると共に引っ越しを考えているところだった。勿論、面接の当日に体調を崩すので結果として何処の企業にも合格通知を貰っていないのだが。


『その、腹が緩くて感染症に弱い身体、どうにかならないわけ?』


 一応試せることはひと通りやってみたよ。筋トレにジョギングにストレッチ機具に家庭用ゲーム機を使用した体力づくり。検査結果を元に作り変えた日々の健康的な食事。適度な睡眠時間の確保と、睡眠の質向上のために半身浴――エトセトラエトセトラ。


『うわぁ』


 聞いた方が引かないでくれるかな? 傷つく。


『いや……あのさあ。じゃあ聞くけど。君が体調万全だった場合を仮定してさ、何回ぐらい腕立てと腹筋ができるの?』


 指が止まる。返答をする前に畳みかけるような言葉が降って来た。


『ジョギングは何時から何時を走ってるの? その家庭用ゲーム機、プレイヤーのレベルは幾つ?』


 おもむろに画面から目を逸らし、ダイレクトメッセージの画面を閉じる。

 ぴこん。通知が入った。

 ………………いや、まさか答えられないわけがないだろう? やるべきことはやって来た筈なのだ。そう自分を鼓舞して、再度トーク画面に潜る。


『食事の栄養に気を使っているなら昨日の献立を教えてよ、食べた時間とかさ。あと、半身浴って言ってたけど君の家って確か湯船なかったよね。どゆこと? ついでに起床時間と就寝時間を吐け』


 ご、ごめんなさい……。

 震える指で送信すると、胃の辺りが鷲掴みにされたように痛くなった。いや、これは心臓かもしれない。ドキドキが止まらないよ。


『それはただの動悸だ!! 良いから教えてみなさい!!』


 ふ、ふははは!! 腕立ても腹筋も15回がいいところでジョギングは午後から走るなんて治安悪いからできてないし家庭用ゲーム機の1Pレベルはたったの13さ!! おまけに昨日はパンにバターを塗って焼いた2枚が昼食で、夕食はレトルトペペロンチーノ、夜食がパンさ!! 湯船がない? っは、桶で足りるね!! 就寝時間は未定!! つまり今日はオールです恐れ慄け参ったかーっ!!


『ちっとも参らんわ馬鹿はあんたか』


 仮にも人生の先輩に馬鹿とは何事だろうか。


『睡眠周期劣悪で食事も栄養も碌にとれていない体調も体力も管理できていないくせに意気込みとその場のやる気だけは溌溂としている人間の開き直りを見たとして、相手が数年生まれが自分より早いからといって人生の先輩と崇め奉れるだろうか、えぇ?』


 む、無理ですね……。無理だわ……。


『無理でしょう? はぁ』


 ダイレクトメッセージのやり取りは、そこで止まる。ついに愛想を尽かされたのか、それとも飽きられたのか。私はしばらく流動しない画面を眺めて後に、観念してスマートフォンの画面を消した。オールナイトしてまでSNSに居座らず大人しく寝ていろといわれたような気になってくる。


 確かに、睡眠は3大欲求に例えられるほど重要視される休息と生存欲求の最たるものだ。しかし、世界に発令された「おうち時間宣言」を発端に生活習慣が崩れるに伴って、はて誰がこの崩れた体調を直してくれるのかといえば、日の光を浴びる回数すら減って落ちるところまで落ちた元々脆弱な免疫に任せる他ない。


 我が家には体調を崩した時に介抱してくれるようなできた人間は住んでいない。天井を走る鼠と、雨戸の内側に巣を作るハトと、たまに天井から落ちて来るヤモリと、荒れた庭に生えている木に生成された蜂の巣ぐらいしか生命の息吹が感じられない一人暮らしだ。


 ぐでん、と黄身のキャラクターが「働きたくない」「動くのいやだ」「めんどくせー」を呟く画面が何故か酷く懐かしい。正にその状況に陥っている自分が、そうとうに面倒な風邪にかかっているだろうということも、よくよく思い返してみれば兆候はずっと前からあったような気がするとか、ないような気がするとか、ぼんやりと熱を持った頭部では思考がまとまらなかった。


 眼鏡も忘れて、手短な場所にある経口補水ゼリーを手にしてみれば、飲み切った後の空であった。床に叩き付ける気力も体力もなく、けばった絨毯に抜け殻の容器が落ちる。


 ああ、しんどい。


 とはいえ、連絡をすべき場所には最低限連絡が入れることができた筈だ。大学のアカデミックアドバイザー、ゼミのグループチャット、保健所と、誰かさんへのダイレクトメッセージ。

 これで大丈夫。何かあっても誰かが気付いてくれるだろう。


 体が重い。少し動いただけでもこれなのだ。水分だけでもとらなければ。そう思って身を捩ると、ベッドの上に放置していたスマートフォンに通知が入った。


『鍵、開けてよ』


 鍵? 確かにこのアカウントには鍵がかかっているけれど、鍵を開けるのは本人の勝手だろうが。何を言っているんだか。


『違います。ノックしても返答がないんで。開けて下さい』


 ノック? 返答……ってまさか。


『もし無理そうであれば構いません。窓、破りますよ』


 まてまてまてまて! 這いつくばってでも開けに行く! だから待て……!




 ――ばきんっ。




 非情な音色が家に響く。同時に「ぱちり」と錠が外された音が聞こえた。ガンガンと音が聞こえるが、何をしているのだろうか。内側からつっかえ棒でも嵌めているのか?


 どたどたとうるさい足音がして、少しずつ俺の居る部屋との距離が詰まって来る。ああ、本当に腐れ縁って怖い。5つも歳が離れている筈のは、あっという間に俺の部屋の前に立つと大した心の準備もなく扉を開け放った。


 怒り心頭な声と共に、小旅行用のキャリーケースのガラガラとした音。あっという間にベッドに戻された私は、ばたばたとキッチンへ走って行った友人の後姿を見送った。


 ああ、後で窓を直さなきゃいけない。何度目だろうか、自分の身体の弱さが理由で彼女に窓を割られるのは……勘弁してほしい。


 ぐわりと揺れる視界に、これはこれでやばそうだったから非常に助かる。とも思い直して枕に顔を埋める。染み込んだ自分の汗の匂いと、吹きこんだ外の風と、舞い上がる少しの埃。良く知った人の気配。

 何故か今なら眠れそうだと思った。

 目を閉じると案の定、夕方まで目が覚めることはなかった。


 夕方。

 時々顔を赤くさせたり青くさせたりして、ぶつくさ心配を口にする彼女のお手製、火照った身体に雑炊を流し込む。冬も後半、そろそろ春の気配がする。明日の卒業式を待たず、きっと私の人生の絶好機は今この瞬間に違いないと思った。


 どうにもついていない人生でも、何もかもが三日坊主の現実でも。

 持つべきものは、気の置けない友であろう。







「何言ってるの。治ったら色々覚悟してなさい」

「うぐっ」


 おかしいなぁ。これは何かの予兆だろうか。

 粥を消化する胃が、確かに軋む音がした。





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