手のひらの上で転がされている、おうち時間 【KAC20211】

江田 吏来

おうち時間は不要不急の塊だった

  新型コロナウイルス感染症対策のため、不要不急の外出は控えてください。

 この言葉を耳にするようになってから、必要不可欠ではない外出を控えて自宅で過ごすことが多くなった。

 満員電車にゆられることもない。家族との会話も少し増えた。

 テレワークにはまだ慣れないけど、好きなときにコーヒーが飲める幸せ。

 大変な思いをしている人には申し訳ないが、ゆとりにあふれたこの生活が永遠に続いて欲しい。そのようなことを考えるようになっていた。

 しかし人間という生き物は、どこまでも自分勝手でわがままだった。

 優雅にひとりで過ごす時間を手に入れたのに、会社帰りの一杯が恋しくなってくる。

 俺は目を閉じた。

 会社仲間とにぎやかに騒ぎながら、ビール片手につまみを食う姿がはっきりと浮かぶ。

 狭い店内にはたれの焼ける香ばしい香りが充満して、胃袋を刺激してくる辛さも。

 腹が減った。もうダメだと我慢出来なくなる寸前に運ばれてくるのが店自慢の焼き鳥。色、艶、照りも抜群で最高にうまいのだ。

 ここでハッと目が開いた。


「そうだ、オンライン飲み会だ」


 仲間を集めて、背景を居酒屋にいる風にすれば雰囲気も出る。

 せっかくのおうち時間。家族と過ごすのも大切だが、気の合う仲間と妻や子どもには聞かせられないバカ話をして腹の底から笑うのも悪くないはずだ。

 オンライン飲み会は大成功で、開催回数も増えてくる。そうなると酒の量も……。


「あなた、体を壊しますよ」


 妻の小言も増えてきた。

 心配をかけて悪いと思ってもビールや日本酒、ワインなども好んで飲む酒好きだ。そう簡単にはやめられない。

 自己管理は出来そうにないので、ダイニングの目立つところにある書き込み式のカレンダーに、俺が飲んだ記録を付けてもらうことにした。


「よし、決めた。オンライン飲み会は週三回までだ。酒の量を減らすぞ」

「あら、会社勤めのときは金曜と土曜の夜しか飲んでませんよ」

「うぐっ……」


 俺の仕事は朝が早い。だから休日前しか飲まないことにしていた。

 しかし今は違う。多少寝る時間が遅くなっても平気。朝寝坊しても仕事に支障はない。だから酒の量が増えて、毎晩飲んでいる。

 腕を組んで考えた。

 メタボ気味の体に酒は良くない。それは十分承知していても、いきなり量を減らせるはずもない。


「ほら、いきなり回数を減らすのは無理があるだろ。まずは、出来る範囲の目標を決めてだな」

「その目標が達成出来なかったら、どうします?」

「えっ? どうもしない……けど」


 俺の言葉に妻はアホらしいと言いたげな表情を刻んだ。

 

「出来もしない目標を、私に、管理しろと言うんですか?」

「今まで週一の飲み会で我慢してたんだぞっ! 週三ぐらい余裕で守れるさ」

「それじゃ、こうしましょう。もし週三回の約束を破ったら、新しいオーブンを買いますよ」


 オーブン?

 なぜここでオーブンの話が出てくるのかわからない。

 不思議に思って「ん?」と首を傾げると、妻は鼻で笑った。そして「どうせ出来ないんでしょう。また無理な目標を立てて白旗を揚げるんでしょう」と言いたげな顔を向けてきた。

 

「勝手にしろ」


 子どもみたいにプイッと顔を背けて、自室に戻った。

 あいつはいつもそうだ。

 結婚した当初は三つ年下のかわいい娘だったのに、子どもが生まれて母親になると子どもを叱るように俺まで叱ってくる。

 普段は良き妻だが、たまに見下してくる所が気に入らない。

 俺はもらい物の日本酒を開けて怒りを抑えることにした。

 

『日本酒、飲んだ』


 翌朝、書き込み式のカレンダーに記されたこの赤い文字に、寝惚け眼がカッと見開いた。


「おいおい、ちょっと待て。昨日のはオンライン飲み会じゃないぞ」

「でも飲みましたよね」

「……飲みました」


 だが今日は土曜日。

 金、土、日と飲んでも週三回でセーフだ。

 俺はぐっと言葉を飲みこんで仕事の準備をはじめた。


 それから数週間後、妻は子どもと一緒に小麦粉やバターと向きあっている。

 書き込み式のカレンダーには『ビール飲んだ』『ワイン飲んだ』『ビールと日本酒と缶チューハイ飲んだ』『色々飲んでる』『いっぱい飲んでる♪』の文字がびっしり。

 色とりどりなペンでカラフルになった書き込み式のカレンダー。意志の弱いダメ親父を嘲るようなタッチが癪に障るけど、「新しいオーブンが買える」とほくそ笑んでる妻の心がだだ漏れだった。


「そういえば……」


 酒の量を減らすと決めた日から、やたらとうまい食事が出てくるようになった。

 イカの切り身に舞茸とネギを加えてバターで炒めた、イカのバター焼き。食感がたまらないからビールによく合う。

 好物のトンカツにはオールスパイスがプラスされ、いつものトンカツがスパイス香る風味豊かなひと品に大変身。これはハイボールと一緒に味わい最高だった。

 小エビのかき揚げに、菜の花のわさびマヨネーズ和え。フルーティーな香りがする大吟醸酒との相性が抜群で……。

 くやしいけど完敗だった。

 手のひらの上で転がされている。 


「さあ、出来たわよ。あとはこれを焼きましょうね」


 真新しいオーブンに、混ぜて、こねて、丸めて、型取りをしたクッキー生地が入れられていく。子どもも大喜びだ。その姿を横目で見ながら不機嫌になっていく俺。

 妻は子どもとおうち時間を楽しむ良い母親。

 俺は自ら言い出した目標すら守れないダメな親父のようで、面白くない。

 こうなると新しいオーブンが憎々しく見えてくる。

 コロナ禍で給料が減っているのにムダ遣いしやがってと舌打ちしたくなったが、ふわりと甘い香りが鼻先をくすぐった。

 どこか懐かしい香りに誘われると急に気持ちが入れ替わった。

 喜びにあふれた子どもの声と共に、新しいオーブンからできたてのクッキーが顔を出す。甘い香りが部屋じゅうに広がるとイラ立ちが消えて、「うまそうだな」と声をかけていた。

 美しい琥珀色の紅茶を飲みながら出来たてのクッキーを頬ばると、自然と笑みがこぼれる。上手に焼けたクッキーを自慢する妻と子どもは楽しそうだった。

 俺は何をやっていたんだろう。

 一人の時間を楽しみ、仲間とオンライン飲み会で騒ぐ。これはこれで日頃のストレスを発散できた。

 でも、家族で甘いお菓子を食べてほほ笑むおうち時間。このゆったりとした時間が心地よくて満たされていく。

 さっきまでのイライラが申し訳ない。朝から不機嫌全開だったことを謝るべきか。そのようなことを考えていると、妻が口を開いた。


「お酒やお菓子って、贅沢よね」

「ん?」

「ほら、生きるために必要不可欠なものじゃないでしょう」

「そりゃ、なくても生きていけるからな」

「生きるために必要じゃないってことは、不要不急の塊ね」


 不要不急の外出は控えてください。この言葉のせいで外出を控えて自宅で過ごしている。 必要不可欠ではない外出を控えているくせに、家のなかでは必要不可欠ではない酒を飲み、お菓子を作っていた。

 前代未聞のコロナ禍のなかで、俺たちのおうち時間は不要不急の塊だった。





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手のひらの上で転がされている、おうち時間 【KAC20211】 江田 吏来 @dariku

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