one

「ねえ、ミカと話してたって聞いたんだけど」

「え、うん。話してたよ」

「私があの子と良くないって、私、菜月に言わなかった?」


 校舎裏に呼び出されて、壁際に追い詰められたと思ったら、ひどくなじられた。友人の声は抜けるような青空に似つかず凄みを帯びていて、私の顔は顰められた目元にじっと強く睨み付けられていた。皺の寄った眉間が見苦しくて目を背けたかったけれど、私は彼女を見る他なかった。


「言った。でも、それが話しちゃダメってことになるとは思ってなくて」


 俯いて目を見つめると、その鋭い視線が少し怯む。私の目が怯えているからだった。菜月が弱るとみんなも弱る、常だ。


「ダメ、じゃないけど、でもそれって裏切りだから」


 大層な言葉だったけれど、声色もさっきに比べたらずっと穏やかではあった。でもこの状況が私を追い詰めるために作られたものだというのは、この人だって忘れてはいない。弱ったからといって私を解放する気はなさそうだった。口を開く。


「……分かった。じゃあもサキと喋るのはやめるね。ごめんなさい」

「は、え? ちょっと待ってよ。そうなるの?」

「え? どうしたらいいの?」


 また機嫌を損ねそうだったけど、私の手が握っているのを見つけたサキは、仕方ないと言いたげに溜息をついて、首を横に振った。


「菜月って、そういうのほんとに分からず屋だよね」


 空気がふと弛んだのを私は見逃さずに、サキの目を覗き込んだ。陰気な色。じっと見ると吐き気を催しそうな、肥溜めの色。でも私はゆっくりとその左右を見比べて、さっきまでの弱々しさを捨てた。そういう機微に、気付くんだろうか、そのすすけた瞳で。


「サキのこと、大好きだけど、仕方ない?」

「あいや、そういうわけじゃないけど」

「ミカと話したら、裏切りだって言って、無視したりしてしまうの、私のこと」

「……そんなことしない」

「じゃあ、なんで呼んだの?」

「ごめん。菜月のことが心配になっただけ。ごめんね。これからも仲良くしてほしいから、」


 言わせたらこっちのものだった、手を握る。


「怖かった」

「うん、ごめんね。もうしない。菜月のこと、私大切な友達だと思ってるから、ミカと話してるって聞いて、なんか、心配っていうか、嫉妬っていうか、ごめん、変なこと言ってるね」

「ううん、分かるよ。ありがとう。心配しなくていいから」


 サキは私の言葉にこくりと頷くと、物事はひとつも解決なんかしていないのに、先に教室に戻るね、と気恥ずかしそうに去っていった。


 ポケットから飴を取り出すと、口にほおりこんで、すぐに噛み砕いてしまう。ピンクの破片が頬の内側を突き刺すが、空はやっぱり雲ひとつなく佇んでいて、眩しくて嫌になった。こんなの照らしてどうするんだろ。性格の悪さが滲み出てるのが青空という生き物だった。性格が悪い私のことを眩しく照らしているから。


 校舎の壁に背を付いて、ぼーっと風を受けていた。世界は俯瞰すると、私を私でなくす。人生は尊いものだとみんなが言うので、みんな自分のことをとてつもなく大きなものだと勘違いしてしまった。私たちは等しく大切? とんでもない。そう、とんでもない妄想。だって、100キロ先で人が死んでるのだって、あなた達は無視しているんでしょ。胸が刺されるくらいに痛んで同情するようなことも、ないんでしょ。目の前で人を失ったことがないから。流血も、200mlに満たないから。私たちは限りなく小さくて、だから平等に賤民。こんな狭い校舎裏で起こった矮小なコミュニティの下らない諍いなんて、取るに足らないこと。それで最悪殺されたって仕方がないから、私はかえって自由な身だった。


 そうしたいならそうしてやるか、というのが、私の人間関係だった。期待をすると大外れする。大外れすると恥ずかしくなる。恥ずかしくなると死にたくなるから、私は誰にも期待しない。そういうふうに小市民的に生きてたら、なぜか周りが私を唯一無二と見なしてくることに気が付いたのは、転校して覚えたことだった。


 別に馬鹿にしてるとか、低く見下げているとか、そういうことではなく、私と関わるなら、少しでも気持ちよくなってもらおうという、私の衝動が、そうさせているだけだった。責めるいわれも責められるいわれもないと思う。


 そこに菜月あり、全て世はこともなし。それが周囲の私に対する色目だった。転校というタイミングは、私が性格と生き方を一変することに役立ってくれて、母でさえ私を「変わったね」と好意的に評したけど、それは母親でさえ私が騙し騙しで生きてるからに過ぎなかった。


 愛が死んで私も死んだ。そしたらトントン拍子で事が運んでゆくようになった。結局は、私の個性とか個人とかいうものの介在が、世の中をより生きにくくしていたということなのだった。頭の中は空っぽ。それは世の中と同じ状態。夢も希望も魔法もない。あれも意味ない、これも意味ない。私の中で判決が下る度、そう判断されたものに対する無償の愛みたいなのも手に入れる。そう、あなた達は意味ありきで生きているのね。じゃあ私が救ってあげよう。


 私にとっての愛がまた目の前に現れるのは勘弁だったけど、誰かにとっての愛になること自体は、別に吝かではなかった。


 私は諦めちゃったけど、じゃあもっと丁寧に生きてください。そのお手伝いくらいはするけど、でも私の何かになろうとしないで。という、ここまで言えば、伝わるのかな。


・・・・・


「それでですね、面白いのは、みなさん、このティムールの墓を、ソヴィエトの調査チームがですね、実際に暴いたんですよ。そしたらなんとその直後に、ナチス・ドイツのバルバロッサ作戦がですね」


 あまねく社会教師は嫌われている。なぜなら科目に対する熱意が強すぎて、その上誰も付いて来られてないことに気づいていないから。こういう歴史豆知識みたいなのを授業の合間にぽろりと話して、それをテストに出すから生徒たちからの陰口は絶えない。歴史って教科書追うだけじゃ楽しくないから、歴史の楽しさ知ってもらうために先生がんばっちゃうぞ、というのは別に分からないでもない。登壇して人前でベラベラ話すのってたぶん気持ちがいいから、仕方ないのかなとは思うけど、みんな推薦とかかかってるし、それどころじゃないのも事実だった。


 上手いこといかないね。ああすればこうなるね。私の指の上でペンがくるくる回るのを、隣の席の子が引いて見ていた。前の方にいるサキがなんとなく振り向いて、私と目が合う。私が小さく手を振ると、照れたみたいに俯いて、二度とこっちを見なくなった。


・・・・・


 放課を知らせるチャイムが鳴ると、サキのグループに囲まれて、カラオケに誘われた。親の言い聞かせでバイトをしてない私に同情して「カラオケ代くらいなら私が出すよ」と言ってくれるのでいつもはとりあえずで付き合うけれど、今日は早く帰りたい理由があった。簡単に断って、あとで謝りのチャットを入れれば済むだろうと思っていたけれど、何度断わってもサキは強引だった。ミカが私に声を掛けたがっているように見えるからだろう。ミカに先を越されるくらいなら、私が菜月を連れて行く。そういう無理矢理な感じがあった。


 結局、断り切れなかった。ため息を付きたいのを堪えて、サキたちに囲まれ付いて行った。


 カラオケは、見知った空間だった。ガヤガヤと知らない曲が流れるカラオケの受け付け。知らないアーティストが自分たちのアルバムを宣伝するモニター。誰も興味無いし聞いてないのに欠かさないマイクチェックと音量調整。歌うのは流行りの曲。何度も聴いてどうでもよくなった面白みのない音楽。


 上手いとも下手とも言えないクラスメイトの歌唱。自分だけしか気にしてない点数。褒めて、褒めて、なんとなく楽しい雰囲気を出して、さっさとコップの飲み物を飲み干して、ドリンクバーに立ち上がる時間がいちばん気楽だった。解放的な閉鎖空間は、私のストレスを締め上げて離さない。終いには全部吐きそうだった。


 解散されると、鞄を掛けていち早く駅へ向かった。もうどうせ間に合わないのは分かっていたけれど、それでも諦めきれなかった。カラオケなんか付き合わなきゃよかった。でも仕様もなかった。高校生なんて、どうせ大した用事はないと思われてる。実際、大した用事でもなんでもなかった。


 最寄りに着く。駅を出て、交差点を突きぬけ、路地を抜ける。のどかな住宅街にある比較的質素なのがうちだった。


 親の言い聞かせでバイトをしてないというのは嘘だ。実際はファストフード店の厨房に籠って働いている。でもお金がないのはほんとだった。親に数万の生活費と、それでほかを全部趣味に注ぎ込んでるから。


 住宅街で、ひっそりと一軒だけ質素な私の家。地球もそうに違いなかった。他に探せば、きっともっと楽しい星がある。そういう予感をしなきゃ、やっていけない。


 私をここに留めるのは、愛と観ていたアニメだけだった。


 そもそもきっかけは、ブレイブマジシャンガールというタイトルの日曜午前枠のアニメだった。まだまだ無垢だったあの時代、そのアニメグッズを親に買ってもらって、外で一人遊びをしていた時、同じグッズをもって突如参加してきたのが愛だった。それ以来日曜日の午前には朝早くからテレビの前に二人で集まり、食い入るようにして見るようになって、日曜日でなくとも、彼女は両親に頼んで買ってもらったDVDを手に、うちへとやって来た。このシーンがいい、このシーンがどう、という話を、私たちは高校生になるまでずっと続けていた。


 愛が死ぬと、向こうの両親は残された大量のDVDと、時代が変わってブルーレイディスクに形を変えたそれを、私に全部譲った。今までたくさんありがとうと。今まで、とキリを付けられると、これから、が無いことがもっとよく想像されて、愛なき人生を思い浮かべる他なくて、泣きたかった。続きをこれからも全部集めなければという強迫観念めいた生き甲斐が、私をそうしてアルバイトに従事させている。


 今日は初代ブレイブマジシャンガールの、第一話が再放送されることになっていた。でも、テレビを付けたら、どうでもいいニュース番組が始まっているだけだった。間に合うはずがないのは分かっていたけど、乾いた笑いが思わず漏れ、ついに重いため息が出た。愛のことを思い出す。愛なら、私をつまらない娯楽に連れ回したりしない。


 部屋の本棚を探って、DVDを取り出した。別に、一話を収録したディスクは持ってる。でも、テレビで放映されるのを見るのと、DVDを見るのとじゃ、全然違う。コマーシャルが入るのだって、アニメの構成の一部に違いない。愛がいたあの日々を、追えるかと思ったのに。


 朧気な意識で、ディスクを差し込む。寂しいテレビのノイズが部屋を包んだ。

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