第4話 例えば君が、見えていたなら。

 心理学共同研究室。


 相変わらずの盛況ぶり。今日は午前一〇時から約一五名前後の学生が出たり入ったりを繰り返している。現在午前一一時半。学生は一四名。男子一名女子一三名。中にはあの末広雪さんもいるし、柴田麻帆さんもいる。


 雪ちゃんこと、末広さんの方は完全に自分の世界に入っている。自分の調べごと、自分の読んでいる本に夢中になっている。そりゃそうだ。彼女は何も知らない。


 一方の柴田さんはしきりに僕の方を気にしている。多分、僕がこの共同研究室にやってきた理由について考えているのだろう。僕は誰にも何も告げずにただこの共同研究室にやってきて作業を……次の講義用の資料作成を……していた。柴田さんからすれば僕はこの空間で明らかに異質な存在なのだろう。


 僕の母校では、心理学部は通称「ミスコン優勝者生成学部」で有名だった。

 この大学でもそうなのかは分からないが、共同研究室にいる女の子たちはどの子もかわいかった……少なくとも、その辺の男子学生が劣情を抱くくらいには。中でも書架の間でどの本を読もうかずっと悩んでいる三つ編みの女の子や、テーブルの一角でひたすらノートをとっている茶髪の女の子なんかは他所の大学に行っても人気をとれる部類だろう。


 正午を回った。腹は減ったが食事はとらない。作業はどんどん進んで、僕は三回先の講義の資料作成にまで着手していた。


「幽霊」が現れたのは、その時だった。


「例えば君が、見えていたなら」


 僕は突然、声を張った。ぴたりと、共同研究室にいた人間全員の行動が止まる。


「誰かは君を、止めただろうな」


 僕は目線を上げる。じっと、研究室の中にいた一人の人間を見つめる。

 この時、僕の視線を追ったのだろう。研究室にいた人間全員が僕の見つめる人物のことを見ていた。やがて聞こえる囁き声。「何々? 何が起きたの?」


 僕はハッキリ告げる。少し離れたところにいるその人に聞こえるように、強く。


「心理学的に考えて、君はとても綺麗な透明だ」

 ぎりり、と、歯を食いしばるような顔を彼女はする。

「だけど僕には見える。僕は専門家だからな」

 僕の視線の先にいた人物。


 青島真保は片手にリップのような円筒状の何かを持って立ち尽くしていた。



「傍観者効果だろう」

 共同研究室を出て、食堂。青島真保と柴田麻帆は並んで僕の前に座っていた。

「『困っているジョニーに対する援助は、周囲に人がいればいるほどされにくくなる』……これは言い換えれば、だ」


 人は集まると、お互いに対し無関心になる。


 僕の言葉に、柴田麻帆が顔を上げた。

「じゃあ、アオちゃんが誰にもバレずに化粧品を盗めたのって……」


「堂々とやったんだ」僕は低い声で告げる。「みんなが見ている前で、堂々と。平然と。研究室には常時一〇人くらい人がいる。だが彼らは皆、お互いに対して無関心でいる。誰が誰の鞄を開けたか、誰が誰の化粧ポーチを開いたか、なんてことは気にも留めないしそもそも見えていない。実質上の透明人間なんだ」


 青島真保は黙って俯いていた。きっとあの瞬間が忘れられないのだろう。研究室にいた全員が自分を見つめていたあの瞬間が。全員の注意が自分に向けられているあの瞬間が。


「被害者について調べさせてもらった」

 僕はなるべくまなざしに感情を込めないよう努力しながら話を続けた。


「どれもいわゆる『美人』に相当する女の子ばかりだ。……こういう時、女子ネットは便利だな。内村さん、吉岡さん、長瀬さん、末広さんに頼んで『研究室の幽霊の被害に遭った』女の子に関する情報を集めてもらったら、全員顔写真付きで教えてくれたよ。まぁ、何を以て『美人』とするかは人によって判断が分かれるところだが、少なくとも内村さん、吉岡さん、長瀬さん、末広さんに限って言えば、こんなことが分かった」


 僕は自分のスマートフォンを机の上に置いた。Facebookのページが開かれている。


「この大学の学園祭実行委員は『美女図鑑』なるものをやっているようだな。ミスコンとは別に各学部学科の容姿端麗な女の子を見つけてきて写真に収めていく。ショートムービーなんかを撮ってTwitterにも載せたりもしている。各学部大体一〇人前後スカウトしているようだ。図鑑ナンバーは現時点で一〇八番まで。先述した四名はこの『美女図鑑』に収められていた。そしてこの『美女図鑑』の記念すべき第一号が……」


 君だ。僕は青島さんを見つめる。


「すごいじゃないか。ミスコンで優勝した上に、『美女図鑑』第一号にもなれた。君は誰が見ても麗しい女性だ。……まぁしかし、それ故にこんなことをしたんだろうがな」


 青島真保も柴田麻帆も沈黙している。僕は話を続ける。


「君は、怖かったんだ」


 僕の言葉にピクリと、青島さんが反応する。


「例えば高校生。定期テストの点数が学年一位の子は何を気にするか。次のテストで自分が陥落しないかを気にするんだ。同じことが君にも言える。君はミスコンで優勝した。『美女図鑑』の第一号にもなれた。『容姿』という観点ではトップをとったわけだ。そんな君が次に気にすることは、『誰かが自分を追い抜かないか?』だ。そして悲しいことに、外見という要素は、経年劣化する。女性は特にそのことに敏感だな。同じ学内には一〇代の女の子もいる。そんな競争相手がいる中で、自分が勝つには? 他者を貶める以外に手はない。だから君は、盗んだ。女性が自分を着飾る武器を。化粧品という武器を」


 けれど、と僕は続けた。


「そんなことは一時凌ぎにもならないことは君自身が一番分かっていたはずだ。多分君は、だんだん快感を覚えるようになったんだろう。自分が誰にも見られず……正確には、認知されず……不当な行いをできるという状況に。普段美女であるが故、脚光を浴びている自分が、事実上の透明人間になって、好き放題にできるという状況に君は痺れたんだ。癖になった。病みつきになった。そしてそんな君の異変に、彼女が気づいた」


 僕は柴田麻帆の方を見た。


「君たち、仲がいいんだな?」


 少しの沈黙の後、柴田さんの方が頷いた。


「はい。入学式で知り合って、以来ずっと仲良く……」

「異変はどの程度感じていた?」

「初めは、持っている化粧品の数がやけに多いな? という疑問でした」


 柴田さんはぽつぽつとぶつ切りにするように話し始めた。


「リップだけで一〇本くらい。明らかに多い。仮に趣味で持っているのだとしても、わざわざ大学にまで持ってくる意味が分からない。だから、不思議に思っていたんです。そんな矢先、共同研究室で化粧品が盗まれるっていう事件があって、根拠は全くなかったんですけど、もしかしたら、って……」


「そこで僕に相談した」

「はい」柴田さんは神妙に頷いた。「『研究室の幽霊』の話は、学科内で回っている噂話に尾鰭をつけてお伝えしました。……多分、心のどこかで違う、って思いたかったんだろうな。アオちゃんが、化粧品を盗んでいるだなんて、思いたくなかったし、そう思っている自分が嫌だった」


 僕の心がちくりと痛んだ。彼女は人の痛みが分かる。人の気持ちに寄り添える。僕と来たらどうだ。倫理的に問題のある実験を企画し、大勢を傷つけ、踏みにじり、挙句の果てに……。


 やめろ。


 心から出てこようとする悪魔を懸命に抑えこんだ。名木橋の姿を思い浮かべる。僕にはあいつがいる。親友がいる。さらに舞の姿も思い浮かべる。僕には妻がいる。最愛の女性が。そう、僕は、一人じゃない。


「この件は大学には伏せる」

 ようやく、僕はそれだけのことを口にした。

「盗品をどうするかも君たちの判断に任せる。まぁ、一番いい方法はどこかにまとめて置いておいて、被害者たちに見つけさせることだ。盗んだ品を、使ったわけじゃないんだろう?」


「使ってません」青島さんはようやく口を開いた。「使えなかった」


「多分、そこが最後の砦だったんだろうな」僕は小さく続けた。「盗品を使ってしまったら、本当に人として取り返しがつかなくなることに、君は気づいていた」


「アオちゃん」

 柴田麻帆だった。彼女は真っ直ぐ青島真保を……偶然にも、自分と同じ発音の「まほ」を……見ていた。


「謝るのは勇気がいるかもしれない。もしかしたら謝れないかもしれない。でも私は、アオちゃんの味方だから。私にできることがあったら何でも言って。手伝うから。あなたの傍に、寄り添うから」


 気づけば青島真保は涙ぐんでいた。ぐすぐすと鼻を鳴らして、その後にようやく口を開いた。


「ありがとう」

「怖かったね」

「うん。だってみんな、私の外側しか見てくれないんだもん」

「そんなことないよ。私はアオちゃんのこと、全部見ていたつもりだよ」


 研究室では、傍観者効果にやられてたけど。すると青島真保は泣きながら笑った。


「あれ、すごいよ。本当にみんなから無視される。卒論とかのテーマにしたら、面白いんじゃないかなぁ。しーちゃんは賢いから、私より上手く研究できそう」


「じゃあ、アオちゃんに触発されたつもりで研究してみるね。私がうまくいったら、アオちゃんのおかげって言うね」


「うん、うん……」

 青島真保は柴田麻帆に抱きついた。


 女同士の友情は脆い、と聞く。実際はどうなのだろう。男も女も脆いと思っているのは僕だけだろうか。僕と名木橋の関係だって、簡単なことで壊れるかもしれない。そんな綱渡りのような感覚を僕は持っている。僕が僕の中の悪魔に蝕まれそうになるのも、きっと本質的な「不信感」が原因だろう。僕は誰も信用できていないのだ。名木橋も、舞も、そして、自分自身も。先日の一件で余計にその不信感が強くなったのかもしれない。


 抱き合う二人の女子大生を見て、僕は席を立った。講義の資料はさっき大量に作ったので、もうやるべきことはなかった。


 僕はゆっくりと大学を去っていった。

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例えば君が、見えていたなら 飯田太朗 @taroIda

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