冴返る

冴返る

 朝のホームルームを終えて教室を出た担任の背を追いかける。

 今は制服のスカートがはためくことも煩わしい気分だ。


「先生! すみません」


 担任がはいはい、と振り返った。五十代の男の先生だ。

 月菜つきなはこの担任が苦手だ。熱血を生徒に押し付けるのが正しい教師像だとでもいうような人だ。


「ああ、はい。なんですか?」


「あの、明日、祖父の葬式があるので忌引きします」


 声が震えないように、間違っても目元が潤むことのないように。

 日直の仕事が終わりました、と報告するのと同じトーンで月菜は言った。


「そっかぁ、分かりました」


 月菜の親が忌引きする旨を書いたメモを手渡すと案外あっさり頷いた。

 よかった。「大変だね」など鬱陶しい同情を振りかざしてこられたら立っていられるか分からない。


「あ、じゃあ失礼します」


 そう踵を返そうとした時に担任が会話を続けた。


「お祖父さん、もう長くなかったんでしょ?」


「……まあ、そうですね」


 苦笑い気味に返した。

 どろどろとしたものが渦巻いているのに、何で自分はこんな時まで愛想よく笑おうとしているのか。ここで泣き崩れることなんてプライドが許さない。


 月菜は一刻も早くその場を離れるために小走りになった。




 祖父が亡くなった知らせを聞いたのは今朝のことだった。

 頭が真っ白になるとはこういうことを言うのか、と分かった。


 中学の頃、月菜は反抗期だった。その反抗は両親ではなく祖父に向かった。

 何故かははっきりとは分からないが、昔から両親の前ではいい子でいるのがそこに自分が存在していていい免罪符になっていた。


 祖父だけは月菜を思い切り甘やかしてくれた。

 自分を一人の大人として認めてほしい気持ちと祖父だけは変わらず接してほしいという気持ちが混ざり合っていての反発だった。

 暴言を吐いたりしたことはない。ただ祖父が出掛けないかと誘ってきても行きたくないと突っ張ったり、そういうことだ。


 その反抗期真っ最中に祖父が倒れた。

 ショックで素直に見舞いに行くことも出来なかった。


 それから高校生に上がり、部活や勉強に忙しくなった。

 病院に見舞いに行ける頻度がぐっと減った。

 この頃からは祖父の前で多少割り切っていい子に振る舞うことが出来るようになっていたが、あの当時の態度を謝ることは結局できないまま、祖父が亡くなった知らせが入った。




 月菜は祖父の葬式を終えてもなかなかそれまでの学校生活のリズムに戻れないでいた。

 祖父の葬式では思い切り泣いて少しだけ過去のことを振り返られるようになっていたのだが。


 担任への不信感が消えない。


『もう長くなかったんでしょ?』


 だから何なのよ、と叫び出したい。


 それを聞いて答えさせて、どうしたかったの!?

 いいえ、突然死でした、って答えたらどういうリアクションをするつもりでいたわけ?

 泣かせて慰めたかった?

 それとも世間話程度のことだった?

 その日の朝、祖父の死を聞いたばかりの高校生の前で軽薄な薄ら笑いを浮かべたのは何でよ⁉


 それとも……『その程度のこと』でないと都合が悪かったの?

 高校三年生の秋というこの時期に祖父の死のせいで自分のクラスの生徒が成績を落とすことがあったら困るってこと?


 もしや月菜の態度が悪かったのだろうか。

 なんでもないことだと言い聞かせるように平坦に祖父の葬式があることを告げた。

 もし真っ赤に泣き腫らした目で話したのなら、そんなことは言われなかったのだろうか。


 心に口内炎が出来た気分だ。じくじくと痛い。ちょっと触れれば瞼が裏返ってカチカチするほど激痛が走る。


 そんな小さな一言を引き摺っている自分にも嫌気が差す。




 祖父の葬式から一週間ほど経った。

 月菜の成績は辛うじて下がりはしていないが、より学力を上げていなかければいけないこの時期、勉強に上手く集中できないことが余計にストレスになっていく。


 自分の部屋で一人になった時、ぐちゃぐちゃした思考に囚われて涙を流すことが数回あった。嗚咽が漏れることもない乾いた涙だ。


 月菜は知らず知らずのうちに疲弊していった。

 両親の前では相変わらずの優等生でいる自分がいた。

 それはそれまでの延長の意味もあるが、両親も相当に祖父の死が堪えたらしいことが分かっていたからだ。

 無駄な衝突をしてもお互いストレスしか生まない。


 友達には話せない。受験勉強の妨げになるようなことをとても出来ないし、もし話半分に受け流されたらそれこそ立ち直れない。


 担任への八つ当たりに似た怒りは増していく。気持ちがささくれ立っていく。




 月菜は学校の廊下を歩いていた。次は移動教室の授業だ。

 前方から教科担の男の先生が歩いてきた。

 この先生はやたらと厳格でちょっと宿題を忘れると授業中ずっと当てられたりする。苦手だ。というより先生と呼ばれる人たちは皆苦手だ。


「おはよう、元気がいいな」


 月菜の前にいる男子たちに先生が声を掛けて通り過ぎていく。

 月菜はこの瞬間が特に嫌だ。無難にやり過ごそう。


「お、元気か?」


 教科担の先生が月菜に目を留めた。


「はい」


 と首を竦めるように曖昧に頷いて通り抜けようとした。



「本当か?」



 その声音に心臓が跳ねた。

 胸の内を見透かされているような気がした。


 先生はあからさまに心配する様子も見せず普通に訊いてきた。


「あ、はい大丈夫です」


 反射で返事をした。本当に軽い声で答えられる自分。


 ただ苦笑いをしようとしたら僅かに頬が引き攣った。実は今とても辛くて、と話し出してしまいたい誘惑にかられる。


 実際はそのまま通り過ぎただけだった。




 それから少しずつ月菜は回復していった。

 担任に対する怒りも静まっていった。受験にも何とか受かった。前期試験を落として、後期で志望した大学に入学できることになった。


 前期の大学の方が偏差値としては高いため両親はこちらに行ってほしかったようだが、月菜は後期に受けた大学の方が専門分野を学べる割合が大きいためそちらに受かって良かったと思っていた。


 ともかく留年や就職の選択肢はなかったので受かったことに安堵した。


 後期の合格通知が届いて、次の日の担任との面談。

 担任と前期試験がどうだったかなど雑談のように話している最中だった。


 担任が思わず口をついたという様子で訊いてきた。


「でも、良かったんでしょ?」


 後期試験の方に受かって良かったんでしょ、という意味だ。


 ぐじゃりと自分の中で何かが音を立てた。


 だからなんですか?

 月菜がわざと前期試験で手を抜いたとでも言いたいのか。何か卑怯な真似をして大学に合格したとでも暴きたいのか。


 結果的には良かった。それは誤魔化しようもない。


 でもそう思えるまでに、前期試験に落ちたショックから立ち直り、不安で押し潰されようとする気持ちをリセットして次の試験に挑むのに、どれだけかかったか。


 勿論、実際の期間は前期から後期まで数か月もなかったが、精神的にはかなりのことを乗り越えた気がするのだ。

 そして、後期に受かったと聞いた時、これで良かったと思った気持ちが負け惜しみや自分への言い訳になっていないか、何度も何度も問い掛けた。


 それでもこれから大学に通うことを考えて、きっと私は後悔しない、と思えた。

 だから良かった、と。



 それをその一言で他人から片付けてしまわれなくてはならないのか。



 月菜は机の下で拳を握った。

 担任の言葉に受け答えはするがニコリとも笑えなくなっていた。


 自分の家に帰って鏡の前に立った。制服姿の自分がいる。

 表情が硬い。学校からずっと顔が強張ったままだった。


 月菜は決意すると、ぐっと鏡の中の自分を睨んだ。


 他人を思いやれる人になる。

 それは表面的な偽善でなくて。人の痛みに気付いて寄り添える人間になる。

 人と心が摩擦することなんてこれまでも数え切れないほどあったし、これからだってあるだろう。


 でも私は負けない。


 正直言うと、担任のことは別に恨んでいない。

 悪意を持って発した言葉ではないと気付いているから、今更恨んでも罰しても意味がない。


 普通、悪意を持っている者はそれに報復があることも覚悟しているはずだ。

 しかし、善意や無関心は違う。

 気にかけてやったのに何で逆ギレされなきゃいけないんだ、と怪訝な顔をしてくる場面に月菜は何度か遭ってきた。


 鏡の中には清々しさとは程遠い顔をした自分がいる。


 春の初め。

 自室の窓からまだ肌寒い風が吹き込んできた。


 月菜は、今のこの決意だけは絶対に捨てないだろう、という予感と共に制服を脱いだ。





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冴返る @kazura1441

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