笑顔に満ちた空間
「わ、私も、ここで食べていいですか?」
しんとしている居間で、集まる面前に対して絃羽は第一声でこう言った。
絃羽が姿を現した時、居間は静まり返ってしまった。集まっている人数は、およそ十人ちょい。帆夏や武史の両親も集まってきているので、さっきよりも人数が増えている。あとはいつもの美紀子さんファンのおっさん達やご近所のおじさんおばさん達だ。
彼らも悪意があって黙っていたわけではなくて、ただ絃羽が姿を見せた事に驚いていただけだ。絃羽が周囲との関係を断絶している事も、何度か自殺未遂と思われるような行為をしている事も知っている。親が行方不明となっていて、おそらくはもうダメである事も皆が察している。その絃羽が、自分からこうして姿を見せるとは、そしてこうした集まりに参加しようと思うなど、誰も考えてもいなかったのだろう。
しんと静まり返る居間。全員の手が止まり、絃羽を見つめていた。
どうなるのか予想もつかない中、帆夏と武史が声を掛けようとした時だった。
「今更何を言ってるの? 当たり前じゃない」
一番にそう言ったのは、美紀子さんだった。
「ここはもうあなたの家でもあるんだから」
美紀子さんが微笑んで、「ここにいらっしゃい」と自分の横を空けて、手招いた。まるで、自分の娘を隣に置くように。
絃羽は顔を綻ばせて微笑むと、そこからは他の皆も表情が一斉に緩んだ。「おう、おいで!」「参加したいって言うの皆待っとったんじゃ!」「これうちで採れた魚や、食べい」と一気に人気者になっていた。
俺は帆夏と武史がいるテーブルに座ると、ほっと安堵の息を吐いた。帆夏達も同じく愁眉を開いて、美紀子さんの隣にいる絃羽を眺めた。
今、絃羽は大人気だ。きっと、他の人達もずっと絃羽を気にしていたのだろう。ただ、両親が行方知れずで、入水自殺未遂をしていて、関係を遮断していて……どう接すれば良いのかわからなかっただけだ。
絃羽はまだ緊張していたが、美紀子さんの横で色んな人に話しかけられても、しっかり受け答えしている。少しあたふたしているけれど、そこは目を瞑ってやろう。
「なんかさ、さっきも思ったけど、絃羽変わったよな。なんか大人っぽくなったていうか、柔らかくなったっていうか」
武史がそんな絃羽を遠目に見て、ぽそっと呟いた。
「誰かさんの御蔭で自信持てたのかもね」
帆夏がこっちを横目でじとっと見て「恋って偉大よね~」とわざとらしく付け加える。そんなに嫌味ったらしく言われても困るのだけれど。
「でも、絃羽がああして素直に気持ち話してくれたから、あたしも素直に謝れたのかな。ずっと遠慮されてたから、それに腹立ってたっていうのもあったし」
対等でいたかったのよ、と帆夏。
「昨日あんな酷い事言ったくせに、よく言うぜ」
「うっさいわね! その時のノリとか流れってあるでしょ」
帆夏が武史の頭をグーで殴っていた。武史も余計な一言が多いせいでよく殴られているが、これは彼の自業自得だ。
「ねえ、絃羽! これあたしが作ったやつだから食べてよ!」
帆夏が皿を持って、絃羽に向けて声を少し張る。
「ええ……絃羽、それはやめといた方がいいんじゃねえの? 多分毒盛られてんぞ」
「へー? あんたにだけ盛ってあげよっか? ほら、これでいい?」
言いながら、帆夏が手元にあった練辛子をぶちゅぶちゅと武史の白米にかける。
「うわあああ! 農家の人が愛情込めて作ったお米になんて事しやがる!」
「ほら、さっさと食べなさいよ。これ、吉野さんちで作られたお米よ? まさか、吉野さんが作ったお米を食べれないとか言わないわよね?」
「ふざけんなあああ!」
笑い声が満ちて、その後は帆夏が両親から叱られてまた笑っていて。そして、その中で絃羽も堪えきれなくなって、お腹を抱えるようにして笑っていた。そんな彼女を美紀子さんも嬉しそうに眺めている。
そこは笑顔に満ちた空間だった。特別なものは何もないけれど、人と人とが支え合って、身を寄せ合って生きている、そんな空間。
──絃羽はもう大丈夫そうだな。
美紀子さんがいて、武史と帆夏もいて、他にもこれだけ大勢の人がいる。きっと、もう絃羽はこれまでみたいに孤独を感じなくて良くて、〝旅立ちの岬〟から飛び降りる事もないだろう。
残る問題は、もう一つだけ。そう、俺だけだ。
俺と目が合って、にこりと微笑んでくる絃羽を見ながら、今度はこっちを何とかしなければ、と思うのだった。
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