彼女の本音

 絃羽いとはが向かった方へ走って行くと、潮の匂いが強まってくるのを感じた。彼女の背は見えないが、何となく絃羽が行きそうな場所に心当たりがあった。


 ──早まるなよ。


 そう心の中で念じて、足を急がせた。その場所に着くと、案の定絃羽がいた。

 彼女は〝旅立ちの岬〟で、初めて出会った頃のように柵を越えた場所に立っていた。あの日との違いは、腕を広げていない事と、もう夜になりつつある事。ごうごうと音を立てる薄暗い海を、ぼんやりと見下ろしていた。


「おい、絃羽!」


 ひやっとして慌てて柵を乗り越え、彼女の肩を掴んだ。また飛び降りるのではないかと思ったからだ。

 夕方だった前と違い、今はもう暗い。こんな状態で海に飛び込まれたら、見つけられる自信がなかった。


悠真ゆうまさん……なに?」


 彼女は驚いてこちらを見てから、すぐに視線を逸らした。

 思ったよりまともに受け答えをしてくれた。ただ、表情は先ほどと同じで、暗い。


「いや……また飛び降りるんじゃないかって不安になって」

「……飛び降りないよ」


 絃羽は諦めた様な笑みを浮かべて、薄暗い海を見下ろした。

 とりあえず飛び降りる危険は無さそうだ。だが、今のこの様子では全く信用できない。

 ちらりと横目で夜の海を眺める。

 昼間は友好的だったように思えるのに、夜の海はどこか恐怖心を感じる程、人を拒絶していた。ここから落ちたら、二度と戻ってこれないのではないか。そう感じさせられるのだ。

 何となく不安だったので、彼女の腕を引いて、柵の手前まで移動させた。彼女は特に反抗する様子もなく、ただ腕を引かれるままについてきてくれた。


「なあ、さっきのどういう事だよ」


 絃羽の肩を掴んで、彼女の顔を正面から見据えて訊いた。

 絃羽はきゅっと眉を顰めて、悲しそうな顔をしてから、また目を逸らした。


「さっきのって……?」

「お父さんとお母さんがいないってわかったらいなくなるってやつだよ」


 絃羽は「ああ……」と呟いてから、視線を俺から暗い海へと移した。

 

「そのまんまの意味」

「だから、どういう──」

「お父さんとお母さんがもういないってわかるまでは、ここにいるって事。少なくとも、あと四年は」


 あと四年──それの意味するところは、失踪宣告の事だろう。

 失踪宣告とは、七年間生死が不明だった者に対して、法律上死亡したものとみなす制度だ。即ち、その者を死者として扱う。

 今年で絃羽の両親と連絡が途絶えてから、三年が経つ。その宣告が出るまであと四年は待てる、という事だ。


「それが過ぎたら?」

「うーん……どうしようかな?」


 少しおどけた様子で彼女が首を傾げた。

 白銀の髪が風に流されて、宙に舞った。


「どこか……遠くに飛んでいきたいな」


 再会した日の様に寂しげな瞳で、彼女は呟いた。

 彼女の言う〝飛ぶ〟──それは、飛行機で空を飛んで遠くに行く事ではない。ただ、この世界から別の世界に飛んでいきたいという意味なのだろう。

 結局、彼女はこの世界に絶望して別の世界への旅立ちを求めてしまうのだろうか。


「ふざけんな」


 絃羽を正面から抱き締めて、そう呟いた。

 彼女の体は想像よりも細くて、強く抱き締めれば折れてしまうのではないかと思うほど、華奢で儚かった。それでいて、ただくっついているだけで、甘くて優しい香りがした。


「悠真さん……どうしたの?」


 彼女は俺の行動に戸惑って、両手を宙に彷徨わせている。


「どこにも行くなよ。どこか飛んでいこうとするなよ!」

「でも、私……要らない子だから。ここにいても迷惑掛けるだけだし、居なくならないと」

「要らない子だなんていうな!」


 語気を強めて、彼女の細い体を更に強く抱き締める。

 居なくなられて堪るか。堪るものか。彼女の体温を、匂いを、その存在を感じるほど、その想いは強くなる。


「悠真さん、痛い……」

「知るか、バカ。俺がお前の傍にいる。だから、要らない子だなんていうな」

「私、要らない子だから」

「そんな事ない」

「そんな事、ある」


 絃羽は頑なに譲らなかった。


「ねえ悠真さん、離して。痛いし、恥ずかしい」

「嫌だ」


 俺の腕から逃れようと身じろぎしようとするが、離さなかった。ここで離せば、本当にいなくなってしまうのではないかと不安になった。


「さっき帆夏が言ってた事、聞いてたでしょ……?」

「え?」

「私、その……ずっと、好きだったから。悠真さんの事。だから、恥ずかしい」

「えっ⁉ あ、ごめんッ」


 いきなり告白じみた事を言われて、思わずびっくりして離してしまった。

 絃羽は顔を赤くして、俯いている。


「あれは、てっきりあいつの出まかせなのかと……」


 彼女は首を横に振ってから、自由になった体を両手で包むようにして、自分の腕をさすった。

 少し海風が強くなってきて、今夜は夏にしては肌寒かった。


「……ずっと好きだったよ。私に楽しい事ばかり教えてくれて……ここでの居場所を作ってくれた人だから。ううん、きっと今も好きなんだと思う」


 彼女から語られた言葉は、二人とも同じ気持ちだったと本来なら喜ぶべきもののはずだ。

 だが、その言葉尻からはどこか諦めにも似た感情を感じてしまった。少なくとも、恥ずかしそうに自分の気持ちを打ち明けているものではなかった。


「でも、私はずっと……その気持ちを言うつもりはなかったから。だから、ああして人の口から言われたら……どうしていいのか、わからない」

「どうして?」

「だって……」


 彼女は一度言葉を詰まらせながらも、そのまま続けた。


「ほのちゃんも……悠真さんの事、ずっと好きだったから」

「あっ」


 帆夏の初恋は俺──武史から言われた言葉が蘇った。そしてさっきの彼女の反応を見ていても、それは間違いないだろう。


「ほのちゃんも好きだったから……だから私は、この気持ちを隠してくつもりだった。知られちゃいけないって思ってたから……ごめん」


 何故か絃羽は謝って、爪が食い込むほど、自分の腕をぎゅっと掴んでいた。


「それに……悠真さんの事、好きだけど、嫌いでもあるから」

「なんで?」

「なんでって……」


 絃羽がばっと顔を上げた。浅葱色の瞳いっぱいに涙を浮かべていて、いまにも零れ落ちそうなほど、瞳を潤ませていた。


「だって……! 楽しい事も幸せな事も、たくさん教えてくれるけど……夏が終わったら、いなくなるから!」

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