最低な言葉③

 俺と武史たけしが驚いて絃羽いとはに視線を移した。

 声色からして、怒っている様子ではない。しかし、その声は普段の絃羽からでは考えられないほど、暗かった。希望が何もないような、闇のような冷たささえ感じる。

 帆夏ほのかもその冷たさを感じ取ったのだろう。ごくりと固唾を飲んでいた。


「私が何を持ってるの? ほのちゃんは、私が何を捨てれば満足なの?」


 そのまま、一歩、また一歩と帆夏に近づいて続けた。

 絃羽から『ほのちゃん』という単語を久々に聞いた。


「私、ほのちゃんみたいにお父さんもお母さんもいないよ? 帰る場所もないし、一緒に遊べる友達も、お買い物に行ける友達も……幼馴染も、いないから」


 絃羽は悲痛な表情をしていた。まるで今にも泣きそうな顔だった。そんな彼女に気圧される様に、帆夏が一歩後ずさっていた。

 何だか、この絃羽のこの雰囲気はどこかで感じた事がある。それは……そうだ。あの岬で再会した時の、飛び込む前の絃羽だ。


「み、美紀子さんだって、あんたが一人で──」

「美紀子さんは違うよ」


 絃羽は帆夏の反論をきっぱり否定した。


「だって、美紀子さんは皆の美紀子さんだもん。私が独り占めしていいわけがない。そんなのわかってる。だから私、美紀子さんには甘えないようにしてた。皆が来てる時は部屋に閉じ籠ってたし、お手洗いに行きたかった時も、我慢してた。私はあそこにいちゃいけない存在だから、置物みたいに息を潜めてなきゃって……あそこに住ませてもらうようになってから、ずっとそうしてたよ」


 やっぱり、と納得してしまった。絃羽は美紀子さんの気持ちを全くと言っていい程、理解していなかった。そうじゃないのに、美紀子さんはお前にもっと甘えて欲しがっていたのに。

 いや、或いはそれを察しつつも、絃羽は自分にそう言い聞かせて甘えないようにしていたのだろう。美紀子さんが帆夏や武史にとっても大切な存在だというのをわかっているからこそ、彼女はそうしてしまうのだ。

 それは……絃羽にとって、武史と帆夏も大切だったからだ。


悠真ゆうまさんだって……違うから」


 彼女は俺をちらりとだけ見てから、目を伏せた。


「悠真さんも、大学にはお友達とか恋人とかもいるだろうし……私なんて、全然特別な存在じゃないんだよ。ただ悠真さんが親戚のおうちに泊まりにきて、そこにたまたま私が居候してただけ」

「絃羽……」


 そうじゃない。そうじゃないと否定したかった。

 だが、彼女は俺の方を見向きもせず、そのまま話を続けた。


「ねえ、ほのちゃん。私、どうすればいいの?」


 詰問する様でもなく、責め立てる様子でもない。ただ、純粋にどうすればいいのかわからない、と言った疑問。


「私、なんにもないよ? 何を捨てれば満足なの? もうわかんないよ……教えてよ」


 それはまるで懇願するようでもあった。

 自分が何かを持っては憎まれると思っていたのだろう。だから、彼女は何も持たないようにした。しかし、それでも帆夏は仲間外れにするのをやめなかったし、また周りも誰も彼女を救ってやらなかった。

 それならどうすればいいのか教えて欲しい──絃羽はそう言っているのだ。


「あ、あんたが……」


 帆夏の声は震えており、その表情は迷いと怒り、そして怯えで満ちていた。きっと絃羽がここまで言い返してくるとは彼女も予想していなかったのだろう。

 ただ、この時俺は何だか嫌な予感がした。雰囲気に流されて、帆夏が自棄になりそうだったからだ。


「おい、帆夏──」

「あんたが、いなくなればいいじゃない!」


 帆夏の怒鳴り声が夕闇に溶けた頃、空気が固まったように感じた。喉が一気に乾いていく。

 俺の制止は、あと一歩間に合わなかった。案の定、帆夏は絶対に言ってはいけない言葉を発してしまった。

 存在の否定──それは、誰に言われてもつらい言葉だ。昔からの友達なら、尚更だろう。

 俺と武史は、恐る恐る絃羽に視線を向けた。正直に言うと、少し怖かった。絃羽がどんな顔をしているのか、全く想像がつかなかったからだ。

 しかし、絃羽は──いつもの様に、困った顔で笑っただけだった。ただ、その笑みが作られたものだというのは一瞬でわかった。浅葱色の綺麗な瞳から、溢れんばかりの涙が浮かんでいて、今にも零れ落ちそうだった。


「うん、そっか……そうだよね。私、要らない子だし。でも、ごめん。それだけはもう少し待って欲しい」


 絃羽は何とか笑顔を保ったまま、言葉を紡いだ。


「お父さんとお母さんが……もういないってわかったら、すぐにいなくなるから」


 それを言い切った瞬間、絃羽の表情がくしゃっと崩れて、涙を流しそうになる。

 彼女はそれを手で覆い隠して、逃げる様に走り去っていった。


「おい、絃羽!」


 呼び掛けるが、もちろん戻ってこない。家とは逆方向に走って行ってしまった。

 怒りが腹を満たしていた。今の言葉でどれほど絃羽が傷ついたのか、想像もできない。腹が立ったにせよ、あまりに軽率な発言だった。帆夏の言った言葉は、何も持っていない人間に対して、一番言ってはいけないものだったのだ。

 彼女を追わなければならない。でも、何か一言帆夏に言ってやらないと気が済まなかった。

 そう思っていた時──パンッと乾いた音が響いた。


「なあ、帆夏……お前、いい加減にしろよ」


 武史が帆夏の頬を引っ叩いたのだ。帆夏が信じられない、という顔で彼を見ている。


「俺ら、もう高校生だろ。何で高校生にもなって言って良い事と悪い事の区別もつかないんだよ。もし万が一、あいつが本当に死んだらどうすんだよ。どう責任取るつもりなんだよ」


 武史の言葉は静かなものだった。だが、だからこそ彼の語気から怒りをひしひしと感じた。

 絃羽はこれまで何度か岬から飛び込んでいる。実際に行動を起こす際に、躊躇をしないタイプなのは明白だった。今までは運が良かったが、場所や方法を変えれば、万が一は簡単に起こり得る。

 帆夏は叩かれた頬を手で押さえたまま、ぺしゃんと座り込んだ。


「あたしだって……あんな事、言いたかったわけじゃ……」


 そして、そのまま嗚咽を堪えて静かに泣き始めた。


「……こいつは俺が見とくから、ユウ兄は絃羽の方見てやって」


 そっちは俺じゃ無理だからさ、と武史が諦めたように笑って、肩を竦めた。

 

「悪い、ありがとう」


 俺はそうとだけ言い、絃羽の後を追った。

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